『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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毛利 勝永

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毛利勝永は豊前国内4万石の最初で最後の藩主

大坂の陣で活躍した豊臣方五人衆のひとりですw

天正5年(1577年)羽柴秀吉家臣毛利勝信の長男として誕生しますw

天正5年(1577年)羽柴秀吉の中国攻めに父勝信が従軍しますw

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)5月8日羽柴秀吉が備中高松城攻めを開始します!!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

この時父勝信が「黄母衣七騎衆」のひとりに選ばれます!!

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起きます!!

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます!!

この頃父勝信に倣い羽柴秀吉の小姓として仕えますw

天正14年(1586年)九州征伐が行われます!!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)7月肥後国人一揆で父勝信が活躍します!!

その功績で父勝信が豊前国小倉10万石を拝領しますw

この時に僅か10歳で別に豊前国内4万石を拝領し父勝信が管理します!!

この際に父勝信と一緒に豊臣秀吉の計らいで「森姓」を中国の覇者毛利氏に肖り「毛利姓」に改姓します!

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これで正式に室町幕府が終焉を迎えます!

天正18年(1590年)小田原征伐が行われます!!

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に父勝信が出陣します!!

その際父勝信は四番隊総大将として島津義弘等南九州勢を率い渡海します!!

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄3年(1594年)父勝信が一時帰国します!

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!

この頃従五位下・豊前守に叙任しますw

慶長2年(1597年)父勝信と一緒に出陣(初陣)します!!

そんで日本軍は右軍(小西行長隊)と左軍(加藤清正隊)に分れ進軍します!

この時父勝信と一緒に加藤清正等と黄石山城を攻略します!

それから父勝信と一緒に釜山城に移動し守備を務めます!!

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長2年(1597年)12月21日第一次蔚山城の戦いで父勝信と加藤清正を救援し明軍を撃破します!!

その後に父勝信と一緒に西生浦倭城へ移動し在番します!

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名で撤退命令が下り帰国します!

帰国時…国内の状況が全くわかんない状態でした…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が起きます!

「恩ある太閤殿下の為」と石田三成・大谷吉継に説得され父勝信と一緒に西軍に味方します!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

この際毛利秀元の与力として出陣し父勝信は小倉城に残り守備に徹します!

慶長5年(1600年)7月19日伏見城の戦いで大活躍します!!

そんで毛利輝元と宇喜多秀家より感状を受けますw

慶長5年(1600年)9月15日午前4時位に毛利本隊と一緒に南宮山に布陣します!!
 ★午前8時頃東軍井伊直政が西軍宇喜多秀家に攻撃を開始し戦端が開きます!!

 ★午前11時位西軍各部隊に対し東軍総攻撃の狼煙が上ります!!

  でも…前方の吉川軍と安国寺軍が動かないんで身動きが取れません!!

  実は先頭の西軍吉川広家は東軍に密かに内通してたんです…

 ★正午頃に小早川秀秋が西軍を裏切り大谷軍への攻撃を開始します!

 ★午後1時頃に西軍が壊滅します…この知った時点で急いで国許に戻ります!

 父勝信は関ヶ原での西軍敗退を知り早々に黒田如水に小倉城を明渡し降伏します…
そんで父勝信と一緒に西軍加担を理由に【改易】されます…

死罪を免れ父勝信と一緒に肥後藩主加藤清正に預けられます…

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らも斬首されます…

慶長6年(1601年)山内一豊が徳川家康に願い出て父勝信と一緒に土佐藩に移りますw

父勝信より家督を譲られ山内家重臣の娘サンと結婚しますw

弟吉近は山内姓と2千石を賜り土佐藩家老に取り立てられますw

慶長6年(1601年)12月長男勝家が誕生しますw

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生じます…

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長10年(1605年)9月20日山内一豊が享年60歳で死去します…

慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長16年(1611年)父勝信が土佐にて享年66歳で死去します…

慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起きて家老片桐且元が大坂城を追放されます…

慶長19年(1614年)豊臣秀頼の招きで長男勝家と一緒に大坂城入りをしますw

信望を得て真田幸村・長宗我部盛親・後藤基次・明石全登らと大坂城五人衆と称されますw

慶長19年(1614年)11月大坂冬の陣で真田幸村らと一緒に京都進撃を主張します!!

でも…大野治長らに拒まれ籠城戦となり大坂城西丸ノ西・今橋を守備します…

慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します!

慶長20年(1615年)5月5日幕府軍が再び大坂へ進軍し大坂夏の陣が勃発!

慶長20年(1615年)5月6日道明寺の戦いで後藤又兵衛基次が享年55歳で討ち死にします…

そんで後藤隊残兵を収容し自ら殿軍を務め真田幸村らの軍勢を順次無事撤退させます!!

慶長20年(1615年)5月7日兵4千で天王寺南門に布陣します!!

ちなみに…徳川家康本陣の真正面だったんですよ!!

慶長20年(1615年)5月7日正午頃に天王寺口の戦いが始まります!!

破竹の勢いで進軍し本多忠朝や小笠原秀政らを一瞬で討ち取ります!

そんで浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純らの軍勢を次々に撃破しちゃうんです!!

そんでついに徳川家康本陣に突入するという大活躍を見せるんです!!

これを見てた黒田長政が加藤嘉明に「あの際立った采配は誰だろう?」と尋ねます…加藤嘉明は「お前は知らないのか!?彼こそ毛利壱岐守の息子豊前守勝永だよ」と答えたんです!それを聞いた黒田長政は「あぁ〜覚えてるよ!!この前迄子供だと思ってたのに…まるで歴戦の武将のようだ!!」と驚き賞賛したんですw
実は真田幸村より大活躍をしてたんですよ!でも現在は…この活躍自体が真田幸村の行為になってます…江戸時代中期の文人神沢杜口は著書随筆集『翁草』の中で毛利勝永の活躍を賞賛し「惜しいかな後世 真田を云いて毛利を云わず」と書いてるんです!
慶長20年(1615年)5月7日午後3時頃に真田幸村隊が壊滅し戦線が崩壊します…

慶長20年(1615年)5月7日真田幸村が享年49歳で討ち死にします…

幕府軍の攻撃が自軍に集中したんで撤退を決意し藤堂高虎隊を撃破して大坂城内への撤収!

幕府軍が大坂城内に侵入し天守閣が炎上します!!

大混乱の中で出撃しようとする豊臣秀頼を説得し諦めさせます!

豊臣秀頼と淀君らが山里丸の籾蔵に逃げ込むけど徳川軍に包囲されます…

慶長20年(1615年)5月8日豊臣秀頼が享年23歳で自刃します…

この際…介錯を務めます…速水守久説もありますが…

慶長20年(1615年)5月8日蘆田矢倉にて享年38歳で自刃します…

この時に長男勝家も一緒に享年14歳で自刃します…

★☆★ちなみに…下画像は豊臣秀頼の肖像画で勝永じゃないです!★☆★


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大坂の陣での活躍のイメージばかりがあって、その前、関ヶ原に参陣していたとは知りませんでした。
真田幸村ばかり脚光を浴びているけど、もう少し注目されるべき存在ですね。

2010/1/6(水) 午後 5:39 a_jfk_of_kg

まさに「惜しいかな後世 真田を云いて毛利を云わず」ですよね♪実は真田幸村以上に大活躍してたのに…関ヶ原時の上田城攻防戦のイメージが一人歩きしちゃったのかもしれませんね…本当にもっと注目されるべき御仁です!!

2010/1/6(水) 午後 11:13 まるこ

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あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

毛利勝永は知ってます!でも真田幸村以上の武将だった
事は知りませんでした。年明け一発目の目から鱗です。
今年もたくさん勉強させて頂きます。

2010/1/8(金) 午後 11:29 [ わんこ ]

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併せて80000HITおめでとうございます。

2010/1/8(金) 午後 11:31 [ わんこ ]

わんこサン>いつも有難うございますwこの御仁は絶対にメジャーにならなくてはならない御仁です!ぜひ皆様に知って頂きたいです!!真田幸村だけじゃないし…真田幸村以上の人物だったって事をw宜しくお願い致しますw

2010/1/9(土) 午後 11:54 まるこ

8万HITおめでとう〜

毛利勝永が 関が原にいたことを知らない人って多いのよね^^;

しかも大坂の陣では 手柄は真田のものにされちゃうし^^;;

真田プッシュしたのは 伊達家だとか 島津忠恒だとか言われてるけど

よく判らないみたい

大阪のブロガーさんの記事見たけど 幸村関係のアレコレ残っててビックリ^^

信繁はなんていうか自分の演出が上手い華のある人だったんだろうな

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2010/1/11(月) 午後 3:04 [ - ]

有難うございまーすwでも…この御仁は絶対に外せないdすよね!真田は元が小さいだけに噂(宣伝効果)を最大限に利用したとこが凄いですね!!現在と違って人の口ずてに伝わる噂って今以上に凄い力がありましたからね…その為に埋没したのが残念です…

2010/1/11(月) 午後 11:20 まるこ

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大阪の陣に際して毛利勝永は、豊臣家に恩をかえすべく馳せ参じたのと違い、真田信繁は豊臣家の財力を利用することで朝廷を動かし、朝廷の威光を用いて徳川を倒すことが目的だったと思います。
伊達と島津は、真田からそのような計画を、知らされていた可能性が高く、幕末の薩長が朝廷の威光を用いたのも、真田信繁の策の流用でしょう。毛利勝永にとって不幸なのは、土佐藩で厚遇を受けていたことですね。
幕末の土佐藩で勤王派に属したのは、大半が郷士でしたから、上士待遇の勝永を英雄視する土佐藩郷士は、いなかったはずです。

2012/8/1(水) 午後 9:46 [ 匿名 ]

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