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父九郎左衛門は守護土岐家臣長井新九郎規秀(後の斎藤道三)の家臣ですw 天文7年(1538年)美濃守護代斎藤利良が死去します…そんで長井規秀が「斎藤新九郎利政」と改名し守護代斎藤氏の名跡を継ぎます!!天文8年(1539年)長男高吉が誕生しますw 天文10年(1541年)斎藤利政と土岐頼芸が対立し抗争が勃発!! 天文11年(1542年)斎藤利政が土岐頼芸親子を追放し実権を握ります! 天文11年(1542年)より織田信秀の美濃侵攻が始まります!! この頃より斎藤利政に仕え数々の戦いで織田軍を撃退し活躍します! そんで年齢の近い斎藤利政の長男義龍の小姓となります! 天文17年(1548年)斎藤道三の娘帰蝶と織田信秀の長男信長が結婚しますw 天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…天文20年(1551年)3月3日に織田信秀が享年42歳で死去します…天文23年(1554年)斎藤道三は60歳で家督を長男義龍へ譲り隠居します!そんで斎藤義龍に引き続き仕えますwでも…斎藤道三は長男義龍じゃなく次男孫四郎や3男喜平次を可愛がります…だから斎藤義龍は次第に斎藤道三を疎むようになるんです…そんな中で斎藤義龍が「実は前美濃守護土岐頼芸の子」って噂が流れて2人の関係は決定的となるんです…弘治元年(1555年)斎藤義龍より斎藤道三らの粛清を打ち明けられ賛同します! そんで斎藤義龍と共謀し仮病を使い稲葉山城に斎藤孫四郎・喜平次兄弟を呼び出します! 弘治2年(1556年)斎藤孫四郎・喜平次を惨殺し斎藤義龍が斎藤道三と長良川で対峙!! 弘治2年(1556年)4月20日斎藤道三が享年63歳で討ち死にします…その後斎藤義龍より美濃国本田城と5千貫を拝領しますwちなみに…「1貫=2石」なんで1万石の所領を拝領したんですよw この頃安藤守就・氏家ト全・竹腰直光・日比野清実・長井衛安らと「美濃六宿老」と呼ばれ美濃斎藤家の重臣となり何度も織田信長による美濃侵攻を撃退する大活躍をします!
永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄4年(1561年)5月11日斎藤義龍が享年35歳で死去します…斎藤龍興に引き続き仕えますが…斎藤道三の弟家老長井道利と仲が良くなかったんです…永禄4年(1561年)森辺の戦いで同僚日比野清実・長井衛安が討ち死にします…斎藤龍興の凡庸っぷりに呆れ斎藤家の主導権を握る長井道利とも対立します…永禄7年(1564年)竹中半兵衛が一時稲葉山城を占拠します!! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄9年(1566年)頃より斎藤家を離反し織田家に仕える者が増えます!永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄10年(1567年)氏家ト全・稲葉一鉄・安藤守就の美濃三人衆が斎藤家を離反!! これで稲葉山城が落城し斎藤龍興が美濃を追放されます… この際織田信長より家臣に取り立る旨を降伏条件として出されますが… 拒否して「織田信長打倒」を心に決め家族を美濃に残して駿河今川家に仕官します! でも…この頃の今川家は武田家・徳川家等に侵食され落ち目でした… 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄11年(1568年)12月6日武田信玄が駿河への侵攻を開始します!武田軍相手に奮戦するけど破れ掛川城に篭城しますが… 永禄12年(1569年)5月17日今川氏真が掛川城を開城し降伏します… 再び浪人し北近江の浅井長政に仕え出します! 元亀元年(1570年)4月織田信長が越前朝倉征伐を開始します!! これに怒った浅井長政は織田信長との同盟を破棄し全面対決をするんです!! 元亀元年(1570年)6月28日に浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!!元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江に侵攻を開始します!!でも刃傷沙汰事件を起こし浅井家を解雇されます… この頃美濃にいた家族らは既に織田信長の配下となってたんです… 織田信長の配下になるよう説得されるけど「打倒織田信長」の意地を張って伊勢長島にいた斎藤龍興を頼り織田信長と最後迄対抗し続ける事にします!元亀3年(1572年)9月武田信玄が2万7千の兵をもって上洛を開始します! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正元年(1573年)伊勢長島に対する織田軍の猛攻が激しさを増します!!再三の家族の説得により織田信長に降伏し家臣となり馬廻衆として活躍します! 天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…この時京都市中にいたんだけど動静を窺って戦闘には参加しなかったんです…これが宿敵だった織田信長に対する唯一の「抵抗」だったんです… 天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! そんで羽柴秀吉の元を訪ね長男高吉と一緒に家臣として仕えます! 天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでも羽柴側として活躍しますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも参陣し活躍します! 天正13年(1585年)四国征伐にも参陣し活躍します! でもこの後理由は不明ですが羽柴秀吉の怒りを買い追放されます… 天正18年(1590年)小田原征伐が行われます!! この際従軍してた長男高吉の配慮で僅かな手勢を率い豊臣秀吉の元を訪ね謝罪し帰参を許されますwそんで従五位下・備中守に叙任し尾張・三河国内1万6千石の所領を拝領しますw この時長男高吉も活躍し信濃国諏訪3万8千石を拝領しますw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…その死に際には特別に招かれて豊臣秀頼への忠誠を誓ってるんです!慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされ長男高吉が参陣します! 高齢を理由に参陣を見送る旨を徳川家康に伝え許可されます! でも…その一方で石田三成と連絡を取り西軍に加担する事を約束するんです!! 東西どっちが勝っても日根野家が存続するようにする為なんです! 慶長5年(1600年)6月26日長男高吉が享年62歳で死去します…そんで孫吉明が13歳で家督を継ぎ引続き東軍に味方し会津征伐に参陣します!慶長5年(1600年)7月17日石田三成らと毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長6年(1601年)西軍加担が発覚して【改易】となります… この時…孫吉明は若年を理由に下野国壬生1万2千石に減封されます! 一門衆や徳川家重臣らが身を案じて徳川家康に申開きするように説得してきますが… 悩んだ末にまた意地を張り通す事に決めるんです!! 慶長7年(1602年)徳川家康への申し開きを拒否し享年74歳で自害します…壮絶な最期だったと言われています…★☆★ちなみに…下画像は旧主斎藤義龍の肖像画で弘就じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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天下分け目の合戦で、弱小勢力の生き残り策は涙ぐましいものがありますね。
2010/2/4(木) 午後 6:09 [ 鳳山 ]
本当にそうですよね…どちらにも言い訳が立つように東西に分れたんでしょうけど…最期迄意地を張り通すところが戦国気風なんでしょうか…個人的には好感が持てる御仁ですw
2010/2/4(木) 午後 11:42
織田信長相手に意地を張り通すなんて凄いですね。
最終的には信長に降ってしまいますが、本能寺の変
を傍観する事で信長に対する最期の抵抗。
壮絶過ぎますね。
その後の日根野弘就は何だか目標を失って蛻の殻みた
いな感じがします。それにしても長命ですね。勉強になります。
2010/2/5(金) 午後 11:14 [ わんこ ]
仕えるところや 味方したとこが コケるんで 2チャンじゃ
戦国デスノート扱いされてたわ^^;;
ちゃんとした資料は 読んでなかったので 印象変わりました^^
こういう人物って好感もてます^−^
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/2/6(土) 午後 3:41 [ - ]
わんこサン>切腹時の壮絶さは伝わってる事項だけでも凄いものなんですよ!!正直ここでは文字数的な事等の理由でアップ出来ないですけど…関ヶ原後に意地を張り通さなきゃかなりの年齢迄生き抜いたかもしれませんね!きっと根が正直者なんでしょうねw
2010/2/7(日) 午後 0:54
保科媛サン>「戦国デスノート」ウケたw正直時勢を読む事は苦手だったんでしょうか…でもここまで意地を張り通してたってのはやっぱり凄い事ですよねw
2010/2/7(日) 午後 0:54