蘆名義広は常陸国江戸崎藩の最初で最後の藩主常陸の戦国大名【佐竹義宣】の実弟ですw【会津守護】として東北地方に絶大な勢力を持った名門蘆名氏の末裔ですw「みちのくの小京都」と呼ばれる角館の基礎を築いた人物ですw天正3年(1575年)常陸の戦国大名佐竹義重の次男として誕生しますwお母サンは奥州探題伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の娘サンで幼名は「喝食丸」ですw 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正7年(1579年)白河結城氏小峰義親の養子となりますw天正8年(1580年)6月17日蘆名盛氏が享年60歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いに勝利します!!天正11年(1583年)3月羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いに勝利します!! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起ります! 天正12年(1584年)10月6日会津の戦国大名蘆名盛隆が享年23歳で暗殺されます…そんでその長男亀王丸が1歳で家督を相続し伯父にあたる伊達輝宗が隠居して亀王丸を後見します!!ちなみに…伊達家の家督を18歳で相続したのは相続したのが「伊達政宗」だったんです!!
天正13年(1585年)10月8日伊達輝宗が享年42歳で死去します…伊達政宗の軍事行動が活発化し実父義重が危機感を募らせます…天正13年(1586年)11月17日実父義重が奥州諸大名と連合し伊達政宗と戦います!! 「人取橋の戦い」って言い戦闘では圧倒的に連合軍が勝利するけど…うやむやに終ります… 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)小峰義親の養子縁組を解消し蘆名盛隆の娘サンと結婚しますw そんで「蘆名義広」と名乗り会津蘆名氏20代目を継承するんです! でも…この時まだ12歳だったんで家臣団を纏める事が出来なかったんです… 蘆名家は天正8年(1580年)の蘆名盛氏の死去以来主家に不満を持つ者や伊達家に内通する者…常陸佐竹家からの養子である義広に不満を抱く者等が不満が爆発寸前でした…天正15年(1587年)12月豊臣秀吉が関東・東北に「惣無事令」を発布します! 天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!天正16年(1588年)実父佐竹義重主導で奥州諸大名と連合し伊達政宗と戦います!! でも…この時は連合軍の士気が上がらず伊達軍が勝利するんです…(郡山合戦) 天正17年(1589年)6月5日摺上原の戦いで伊達政宗に大敗します!! そんで黒川城に逃げようと思ったんですが…逃げ道を伊達軍に封鎖されちゃいます!! 仕方が無く実家の常陸国に落ち延びるんです… 実父義重は豊臣秀吉に早くから誼を通じてたんで…旧領回復をお願いしてくれてました! 天正18年(1590年)小田原征伐・奥羽征伐が行われます!! そんで実父義重・実弟義宣と一緒に豊臣秀吉に謁見してますw 伊達政宗は占領中の旧領会津を没収されるけど蒲生氏郷に会津が与えられ期待が外れ落ち込みます…
でも…代替地として常陸国江戸崎4万5千石を拝領するんです! この頃より名前を「義広」⇒「盛重」に改名しますw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では名護屋城に在陣します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!実兄義宣は石田三成の親友だったんで西軍に味方しようとします! でも…実父義重が東軍加担を主張し実家佐竹家は大揺れするんです!! 結果として中立の立場を取る事になったんで…それに従い同じく中立の立場を取ります! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦いで東軍が勝利します!!徳川家康に戦勝祝いの使者を送ったり機嫌取りをしますが…沙汰無しの日々が続きます…慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…慶長7年(1602年)5月8日西軍加担を理由に【改易】となるんです…同じ日に実兄佐竹義宣も同じ理由で出羽国秋田に減移封となります… 態度を明確にしなかったって事は西軍に加担したと同じって判断されたんです… そんで実兄義宣と一緒に秋田に移ります…この時「盛重」⇒「義勝」に改名します… この時実兄義宣から将来的な蘆名家再興の為に仙北郡角館1万6千石を分地されますw 慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 改易されてからの間…ずっと幕府に対して蘆名家再興活動を行います!! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長17年(1612年)4月19日実父佐竹義重が享年66歳で死去します…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が追放されます!!慶長20年(1614年)からの大坂の陣には実兄義宣に従い参陣します!! 慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します… 元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…元和6年(1620年)古城山南側に新たに町割を起こし城下を移転させますw道路の幅を広げたりとか下水を整備し防火対策を施して武家地・町人地・寺社を配置したり内政面で成果を挙げますw 寛永8年(1631年)6月7日角館にて享年56歳にて死去します…この時…跡継ぎ(子供)がいなかったんで一時的に名門蘆名家は断絶するんですが…側室安昌院は妊娠中でした…誰もが生まれてくる子供の性別が気になりました!! そんで4ヶ月後… 寛永8年(1631年)10月7日待望の長男盛俊が誕生しますw これで蘆名家再興の願いは受継がれたんです!! 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
|
取潰されたお殿様
[ リスト ]




こんばんわ!
長男生まれて良かったね〜。
政宗との戦いはうやむやって・・・もやもやするわ〜。
2010/3/9(火) 午後 11:52 [ 柴犬ライフ ]
でも…その後も大変だったんですよ!!詳しくは蘆名千鶴丸をご参照下さい!! ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/me468646/57202316.html
2010/3/10(水) 午後 2:59
千鶴丸の最期を先に読んだので 残念さが いっそう際立つなぁ^^;;
芦名がらみの御家再興で小ネタ投下〜
会津4家といわれた河原田家の盛次さん
秀吉の小田原征伐の折に拝謁しようとしたのだが タイミングが合わず会えなかった
当時 河原田は三成と同じ官位の治部少輔と名乗っているのが気に入らず
石田が会わせなかったとも言われている(この辺で すでに怪しい)
とにかく会津に帰った河原田は まもなく病死
会津も蒲生氏郷の領地になる
2010/3/10(水) 午後 8:35 [ - ]
河原田には嫡男の亀丸がいて 家臣たちは せめて若君に蒲生家仕官をと願い
蒲生家臣(名前不明)に取次を頼んだ
が 不味い(戦国時代的に)ことに亀丸は 超美少年だった
亀丸に惚れた蒲生家臣は 離れたくなくて
氏郷に取次するのをグズグズと引き伸ばした
怒った亀丸は 蒲生家臣宅を飛び出し越後に行ったのだが
漂泊の身となり 間もなく死亡したそうだ
元ソースは「会津四家考(タイトル間違ってたらゴメンネ)」なんで
信憑性は ゆるゆるです^^
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/3/10(水) 午後 8:40 [ - ]
蘆名千鶴丸の記事を先に読んで頂くとわかってくれたと思うんですが…蘆名氏家臣の嘆きは並大抵なもんじゃなかったと思います!いつもネタ投下には感謝してます♪
2010/3/10(水) 午後 10:21
本当に跡継ぎ残して家を存続させるって
大変な事なんですね。
乳幼児の死亡率が現在と違って高いから
尚の事、側室などをおいてたくさん子供
を作ったんですね。
2010/3/11(木) 午後 11:28 [ わんこ ]
でも…度が過ぎると御家騒動に発展したりと問題も山積なんですけどね…まるこの格言は「何事も腹八分」…全てにおいて言える事だと思ってますw
2010/3/11(木) 午後 11:59
うーん、とっても生生しいです。
河原田さんの子孫は、同級生・・・(*^_^*)
2010/4/12(月) 午後 5:32
身近にご子孫がいらっしゃるって羨ましいですw尚更歴史がとても身近に感じられますね♪
2010/4/12(月) 午後 9:32