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ちなみに…一説に兄勝俊と一緒に若狭武田家当主武田元明の子とも伝わってます! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中で享年52歳で病死します…元亀4年(1573年)7月に15代将軍足利義昭が織田信長に追放されます!天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日叔父秀吉が山崎の戦いで勝利します!!天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで叔父秀吉が勝利します!! 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが起きます! 天正13年(1585年)弟秀俊が叔父秀吉の養子に入り「羽柴秀俊」と名乗ります! 天正13年(1585年)7月11日叔父秀吉が「豊臣姓」を賜り関白に就任します! 天正13年(1585年)父家定が姫路城主となり「豊臣姓」を下賜されますw 天正13年(1585年)四国征伐が行われます! 天正14年(1586年)12月25日叔父豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐が行われ従軍します! この頃に伊勢津藩主織田信包の娘サンと結婚しますw 天正19年(1591年)1月22日叔父豊臣秀長が享年51歳で死去します…天正19年(1591年)8月5日従兄弟豊臣鶴松が享年3歳で死去します…この頃に若狭国高浜2万石を拝領し従五位下・宮内少輔に叙任しますw天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で肥前名護屋城に在陣します! 文禄2年(1593年)8月3日従兄弟豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)弟秀俊が小早川隆景の養子となり「秀秋」と改名しますw 文禄3年(1594年)9月に義父織田信包が勤務怠慢で改易されます… そんで世間体を気にして子供もいなかったんで奥サンと離婚します!! 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄5年(1596年)9月叔父豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!慶長2年(1597年)肥前名護屋城に再び在陣します! この頃に宇喜多秀家の家臣進藤正次の娘サンと再婚しますw 慶長3年(1598年)8月18日叔父豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!大谷吉継らの誘いを受けて西軍に味方するんです! 叔母高台院(北政所)より東軍加担を勧める書状や使者が来て悩み捲るんです… 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! でも…積極的な軍事行動は一切とらなかったんですよ… 慶長5年(1600年)7月17日伏見城守備中の兄勝俊が西軍到来で逃亡します… 慶長5年(1600年)8月3日西軍方の加賀大聖寺城が東軍前田利長に攻められ落城!! そんでその奪還を謀る大谷吉継に援軍を送ったんです! でも表向きは中立的な態度を取ってたりもしたんですが… 慶長5年(1600年)10月21日の関ヶ原の戦いで東軍が勝利します!弟小早川秀秋の西軍への裏切りが東軍の勝利を決定付けたんです!!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らも斬首されます…大谷吉継に援軍を送った事が発覚して【改易】となるんです…この時兄勝俊と弟達(俊定・秀規・延貞)も西軍加担等を理由に改易になってます… 逆に父家定は徳川家康に賞賛され備中国足守2万5千石の所領を与えられます!! そんで兄勝俊と一緒に父家定を頼って生活したんです… 弟小早川秀秋は関ヶ原の戦いでの活躍により備前国岡山55万石を拝領します!すぐ下の弟延俊は終始東軍として活躍して豊後国日出3万石を拝領しています! 慶長7年(1602年)12月1日に弟小早川秀秋が享年21歳で死去します…同じ日に弟2人(俊定・延貞)も同じ場所で亡くなってるんですよ…慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw慶長8年(1603年)4月22日従兄弟豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生じます… 慶長8年(1603年)待望の長男利當が誕生しますw 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 徳川家康が従兄弟秀頼との会見を求めるけど淀殿が拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と従兄弟秀頼が面会します!! 慶長12年(1607年)次男利次が誕生しますw 慶長13年(1608年)10月4日父家定が享年65歳で死去します…叔母高台院らの周旋で遺領足守藩2万5千石を安堵されます!!でもその遺領と家督を巡って兄勝俊と大規模な兄弟喧嘩争いをしちゃうんですよ!この事が大御所徳川家康の怒りにふれ備中国足守藩は【改易】にされちゃうんです…
慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が追放されます!!従兄弟秀頼や弟秀規から大坂城入りを頼まれるけど拒否します!! 慶長20年(1614年)からの大坂の陣には幕府方として参陣し活躍します!! 慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和元年(1615年)大坂の陣での活躍で備中国足守藩2万5千石は再度拝領されますwそんで旧領にて改易前と同じ石高で大名として復活したんですw 豊臣家(羽柴家)断絶を惜しむ叔母高台院の依頼で次男利次を高台院の養子にします! 元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…元和3年(1617年)から長男利當が幕府に仕え出します!寛永元年(1624年)9月6日叔母高台院(北政所)が享年77歳で死去します…そんで次男利次は「木下姓」に戻り遺領の内3千石を相続し大身旗本となります!寛永9年(1632年)1月24日に大御所徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永14年(1637年)6月21日に享年64歳で死去します…そんで家督は長男利當が継ぎ以降12代に渡り同地を治め明治維新を迎えていますw★☆★ちなみに…下画像は叔母高台院の肖像画で決して利房じゃありません!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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確か足守藩と別にもう1系統木下家は江戸時代大名として
九州に存続してませんでしょうか?記憶があいまいですが
一応苗字が同じなので、同族でしょうか?
中途半端に知っている状況で申し訳ありません。
2010/3/11(木) 午後 11:24 [ わんこ ]
豊後国日出藩ですねw日出藩は木下利房のすぐ下の弟延俊が藩祖になるんですw最初は西軍に加担してたけど…早い段階で東軍に寝返って姫路城を守備し終始「東軍」として積極的に行動した事を賞されて日出3万石を拝領してるんですwだから同族どころか兄弟ですwでもお詳しいですね!
2010/3/11(木) 午後 11:57
小早川秀秋の側室が産んだ庶子を預かったのは どの木下でしたっけ?^^;;
というか 宇喜多家臣の進藤さんの娘と結婚してたのを知りませんでした!!
進藤正次といえば 秀家さんが薩摩へ逃亡する手引きをした人物です!
軍記物では 秀家さん死亡偽装工作をしたとされてますが
実際は そうではなく徳川家に自首したときに 詳らかに話した上で
主君と その家族の助命嘆願を願い出ていたようです
進藤さんは その潔さと忠義を家康に賞賛されて 幕府・御家人となりました
意外な繋がりに ちと興奮です!
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/3/14(日) 午後 4:54 [ - ]
小早川秀秋の息子を預かってたのは長兄勝俊ですねwちなみに…前妻織田信包の娘サンはその後…権大納言万里小路充房と再婚して幸せになったそうですwさらに…万里小路充房の側室には前田利家の3女摩阿姫がいましたwでも…後日離婚して息子を連れて実家に戻ってます!!
2010/3/14(日) 午後 11:17
マイナーと言える戦国大名「木下利房」の年譜参考になります。円徳院には利房の墓の横に進藤正次の娘、利房の後妻「永興院」のお墓が夫婦ほぼ同じ大きさで建っていました。女性の身分が低かったときに、こんなことって。きっと奥さんの存在が大きかったのでは…と感慨深かったことを思い出します。一豊の妻お千代も賢妻で有名ですが、史実にはあまり残らないこの方もきっと戦国の荒波を夫婦で渡り歩いたんだと思わされました。
2014/5/23(金) 午後 7:53 [ 久保 ]