『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

取潰されたお殿様

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奥平 昌能

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奥平昌能は下野国宇都宮藩の第2代目(最後)の藩主

【奥平信昌】【本多忠勝】【鳥居元忠】の曾孫で【徳川家康】の玄孫ですw

出羽国山形藩の初代藩主でもあるんですよw

寛永10年(1633年)7月21日宇都宮藩主奥平忠昌の長男として誕生しますw

お母サンは山形藩主鳥居忠恒の妹桂岳院サンで幼名は「千福丸」なんですw

ちなみに…我が儘放題に育てられ正確は粗暴で…「暴君」的だったんです!

寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します…

寛永17年(1640年)10月28日父忠昌と一緒に3代将軍徳川家光に拝謁しますw

正保3年(1646年)11月9日に元服し「昌能」と名乗りますw

正保5年(1648年)12月12日将軍世継徳川家綱の傅役に命じられます!!

この時白河藩主榊原忠次(榊原康政の孫)も一緒に任命されてます!

ちなみに…昌能は15歳で…榊原忠次は43歳…この年齢差は何なんでしょう?

慶安4年(1651年)4月20日3代将軍徳川家光が享年48歳で死去します…

明暦3年(1657年)正月18日明暦の大火で上屋敷と中屋敷が焼失します…

寛文3年(1663年)幕府が「殉死」を禁じます!!

寛文8年(1668年)2月19日父忠昌が享年61歳で死去します…

そんで35歳で家督を継ぎ従五位下・大膳亮に叙任します!!

生涯正室(奥サン)を持たなかったんです…
この時の奥平家は長篠の戦いで武勲を挙げた曽祖父奥平信昌や幕府創成期に幕府宿老として活躍した大叔父松平忠明の多大な功績で「将軍家御連枝」と言う譜代中の譜代とも言える家柄だったんで影響力はかなり大きいものがあったんです!!
寛文8年(1668年)3月2日父忠昌の法要を菩提寺興禅寺で営みます!

その時に事件が起るんです…

重臣の奥平内蔵允(文治派)と奥平隼人(武断派)が些細な事から口論となります!!

実は普段から奥平隼人は奥平内蔵允を馬鹿にしてて仲が悪かったんですよ…

この時も屈辱的な事を言われても最初は我慢してたんですが…我慢も限界に達して

怒り爆発の奥平内蔵允が大勢の目の前で奥平隼人に抜刀して切り掛ったんです!!

でも…武断派の奥平隼人はかなりの腕前で奥平内蔵允を返り討ちにしちゃうんです!!

2人は其々親戚宅に預けられる事になったんです…ちなみにこの2人…従兄弟同士です!!

でもその日の夜に…奥平内蔵允は切腹しちゃいます…

重臣達からは「喧嘩両成敗」に基づく早期の「処分言渡し」を要請されるんです…

でも普段から武断派の奥平隼人の事を贔屓してたから処分を先送りにしてたんです!

この処分を下す事に正直…面倒臭いって思ってたんですよ…

そんな中でまた別の事件が起きます!!

父忠昌の忠臣杉浦右衛門兵衛が父忠昌の死去に際して「殉死」しようと思ったんですが…

当時幕府は「殉死」を禁じてたんで思い留まったんですが…ある日…

御前に罷り立た杉浦右衛門兵衛に悪い冗談をポロっと言っちゃいます!!

『あれ?まだ生きていたのか…』

杉浦右衛門兵衛は号泣の末その日の内に切腹しちゃうんです!

幕府が禁止する「殉死」を行ったと言う事で杉浦一族には斬刑・追放等厳しい処分が断行!!

この一件でさらに家臣達の不満が積もり出すんです…

寛文8年(1668年)9月2日ついに刀傷事件の処分を言い渡します!!処分内容は…

奥平隼人は国外追放…奥平内蔵允の長男源八と弟正長は家禄没収の上で即日国外追放…

本来喧嘩両成敗なら奥平隼人は切腹じゃないとつりあわないんです!

それに奥平源八らは持つ物も持たぬ状態で即日追放したんだけど奥平隼人には厳重な護衛を付けて直参旗本大久保助右衛門の屋敷迄送り出したんです!

この処分に多くの家臣が不満が爆発し…ついには多数の家臣が立ち去ってます…

寛文9年(1669年)4月幕閣の耳に入り…出羽国山形9万石に減移封されるんです…

普通なら改易だけど将軍家御連枝で4代将軍傅役だったんで軽い処分で済むんです!

寛文9年(1669年)7月3日奥平源八一党が奥平隼人の弟主馬允を暗殺します!!

襲撃を予想してた奥平隼人は市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭戸田七之助の屋敷へ身を隠します!!

山形移封後…慣れない気候に体調を崩し寝込む事が多くなります…

寛文11年(1671年)に伊達騒動が起きます!
寛文12年(1672年)2月3日未明に奥平源八一党42名が奥平隼人の戸田屋敷へ討ち入ります!!
そんでチャンチャンバラバラの末に奥平源八が奥平隼人を討ち果たすんです!

その後源八一党は幕府に出頭します!

大老井伊直澄は奥平源八の殊勝な態度に感銘して死一等を減じて伊豆大島流罪を命じます!

これが有名な『浄瑠璃坂の仇討』です!

ちなみに…奥平源八はこの6年後に天樹院(千姫)13回忌追善法要による恩赦で彦根藩井伊家に召抱えられてるんです!

寛文12年(1672年)閏6月25日危篤に陥るんです…

でも…この時長男千福丸は生後すぐ亡くなったんで跡継ぎがいなかったんですよ…

断絶してた重臣の名跡を継がす為に貰い受けてた甥小次郎(5歳)に白羽の矢が!!

寛文12年(1672年)7月1日家臣島田某が甥小次郎を伴い老中へ養嗣子願いを内申!

この時点で末期養子の条件を満たしてなかったんだけど…

裏取引的な事とかいろいろ大人事情もありつつも何とかその日の内に内諾を得ます!!

寛文12年(1672年)7月2日享年41歳で死去します…

でも…まるこ的には…危篤に陥った時点で実は死去してたと思います…

甥小次郎は「昌章」と改名し3女菊姫(9歳)の婿養子となって家督を継ぐんです…

実際【改易】にはならなかったけど嫡流が断絶してるんで今回アップしました!

★☆★ちなみに…下画像は曽祖父奥平信昌の肖像画で昌能じゃないです!★☆★


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殉死を思い留まった家臣を殉死させるなんて、
酷過ぎますね!将軍家御連枝を傘に好き放題。
まさに暴君って感じがします。

2010/3/15(月) 午後 11:21 [ わんこ ]

余り悪く言う性質じゃないんですが…かなりひどいですよね!!正直共感も出来ないし好きにもなれない御仁ですがぜひ知ってほしい人物ですw祖父奥平信昌も嘆き悲しんだでしょうね…ある意味残念な御仁です!

2010/3/16(火) 午後 11:41 まるこ


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