多賀秀種は大和国神楽岡藩の最初で最後の藩主織田信長の側近だった【堀秀政】の実弟ですw【多賀大社】の神官だった【多賀氏】の末裔ですw永禄8年(1565年)尾張織田氏家臣堀秀重の次男として誕生しますw幼名は「源千代」でこの時兄秀政は13歳で織田信長の小姓になりますw 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄11年(1568年)兄秀政が15代将軍足利義昭の仮御所の普請奉行に就任しますw元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正3年(1575年)兄秀政が越前一向一揆討伐に参陣し活躍しますw天正5年(1577年)兄秀政が紀伊雑賀討伐戦に参陣し活躍しますw 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)兄秀政が有岡城の戦いで鉄砲隊を率い活躍します!この頃より兄秀政に従い従軍します! 天正9年(1581年)兄秀政が伊賀攻めで信楽口侵攻部隊大将となり活躍しますw 天正9年(1581年)兄秀政が織田信長より近江国坂田2万5千石を拝領しますw 天正10年(1582年)3月兄秀政に従い織田信長本隊として武田征伐に従軍します!! 天正10年(1582年)5月兄秀政が徳川家康の堺での接待役を務めます! 実は…明智光秀が織田信長に接待役を罷免され後任として兄秀政が就任したんです! 接待終了後に羽柴秀吉の援軍として兄秀政に従い中国戦線に向います!! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…この際兄秀政と一緒に羽柴秀吉に従い中国戦線より引返します!!天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! その際兄秀政も大活躍し以後羽柴秀吉の家臣となります! 天正10年(1582年)6月27日清洲会議が行われますw この時に兄秀政が織田三法師(織田秀信)の蔵入地代官と守役を務める事になるんです! 天正10年(1582年)7月羽柴秀吉の薦めで近江の国人多賀貞能の婿養子となりますw 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方として兄秀政と従います!! 戦後兄秀政が羽柴秀吉より近江国佐和山9万石を拝領しますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起き兄秀政に従い参陣します!! その際徳川方の大須賀康高・榊原康政らを撃破し敗走させる活躍をします! 天正12年(1584年)6月兄秀政より3千石を拝領し佐和山城守備役を命じられます!! 天正13年(1585年)8月兄秀政が羽柴秀吉より越前国北ノ庄18万石を拝領しますw その際に兄秀政より4500石を拝領するんですw 天正13年(1585年)9月兄秀政より堀家の奉行職に任命されますw 天正14年(1586年)2月に兄秀政より1500石加増されます! 天正14年(1586年)九州征伐が行われ兄秀政に従い参陣し活躍します!! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)2月に兄秀政より4千石加増されます! 天正15年(1587年)4月20日豊臣秀長の家臣となってた義父貞能が死去します…そんで多賀家の家督を22歳で継ぎ豊臣秀長の家臣となるんです!天正18年(1590年)小田原征伐が行われ参陣し活躍します!! 天正18年(1590年)5月27日兄秀政が小田原征伐陣中にて享年38歳で死去します…天正19年(1591年)1月22日豊臣秀長が享年52歳で死去します…その後も引続き養子秀保の家臣として仕えるんですw天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で豊臣秀保に従い渡航し活躍します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)4月16日豊臣秀保が享年17歳で死去します…その後は豊臣秀吉の直臣となり大和国神楽岡2万石を拝領しますw文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!この時は渡航せず名護屋城に在陣します!! 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月甥秀治が越後国春日山30万石へ加増移封されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされるけど…無視します! この時…周囲が西軍支持の大名だらけだったんでやむを得ず西軍に加担します… 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)9月3日立花宗茂らと大津城攻めに参陣します… でも…城主京極高次は粘りに粘って城攻めは難航するんです… そんで西軍加担を理由に【改易】となり浪人し甥秀治の元に厄介になるんです… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長11年(1606年)5月26日甥秀治が享年30歳で死去します…慶長13年(1608年)2月26日堀一門重鎮堀直政が享年62歳で死去します…この後…堀宗家の主導権を巡り堀家内部で内紛が起こります…当事者は堀直政の長男直清(越後三条城主)とその異母弟直寄(坂戸城主)です!! 慶長15年(1610年)2月内紛は激化し遂に徳川家康の裁断を受ける事になります!! 堀宗家の堀忠俊と堀直清が御家騒動が理由で【改易】となるんです… これで再び浪人となり厳しい生活を送ります… 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!弟利重が連座し改易になります…慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!! この頃に大坂方より誘いを受けるけど拒否して加賀藩主前田利常に仕官します!! 慶長20年(1614年)からの大坂の陣が勃発します!!そんで幕府方である前田軍として参陣し大活躍するんです!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…そんで戦後に改めて前田利常に6千石を拝領し家臣となるんですw元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…元和2年(1616年)11月に享年51歳で死去します…家督は長男秀誠が継ぐんですが…以降の多賀家に関してはきっと加賀藩士となったと思うんですが…実際のとこ不明なんです…中途半端でごめんなさい m(_ _)m
★☆★ちなみに…下画像は実兄堀秀政の肖像画で秀種でないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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こんばんは。なかなか訪問できず申し訳ありません。昔、角館のお祭りで堀秀政の曳山人形が
登場した事があるのですが、物凄く格好良かったです。多賀氏はその弟にあたる武将でしたか。
いろいろ苦労が多かったようですが、最後はどうにか復帰できたようですね。ポチ&ランクリ★
2010/3/28(日) 午前 0:58
宇喜多殿地元の曳山の武将って範囲広いですね^^
堀秀政に 弟って知らなかった^^
トラバ感謝です〜実は大津攻めの武将の詳細が判らなくて
記事には ウィキペディアに載ってる範疇しか書けなかったんです
あと大津総攻撃ですが
12日って説もあるんです
媛記事に ある例のニンニンのイタズラは立花の記録では12日早朝で
12日からの総攻撃とあるんです
自分の記事にはウィキペデアに合わせて イタズラも13日早朝にしました
大津の堀が埋められるのは12日なので 立花が一番乗りするにも
12日中は まだ無理だったと思ったんです
2010/3/28(日) 午後 1:07 [ - ]
3日に京極籠城開始〜井伊に籠城するのを報告
4日〜7日の間
・大津側〜家臣の黒田某が石田に通じているということで処殺(真偽不明)
2・情報を一番早く掴んで報告したのが立花宗茂
3・一番近くにいた末次軍が 籠城にそなえて大津城下を焼き払います
4・淀+ねねの使者で和議の説得
5・立花宗茂配下 世戸口が 宗茂直筆の降伏勧告の矢文を放つ
(矢文は 京極の馬印にクリーンヒットの大手柄^^ノ〜
7日 和議が流れて軍編成された17000による攻撃開始
2010/3/28(日) 午後 1:23 [ - ]
11日 大津側が夜襲〜戦果はあったものの 京極側にも戦死でる
(このあたりまでは また和議になるかもってことで重火器の使用控えめ)
(が 夜襲で大津の士気が高いのを知って遠慮は止めた!となった)
12日 堀を埋めるために 末次軍が大砲ガンガン使って城側の妨害を防ぐ〜
(この日のうちに 堀は埋められ 総攻撃できるだけのスペース確保)
軍議〜総攻撃は13日に決定 そのための体力温存のため休憩
あとは 媛記事の流れと一緒です^^
大津城攻撃の詳細でした (o ̄∇ ̄)σ[トラバ・ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/3/28(日) 午後 1:24 [ - ]
宇喜多殿>角館って一度は行ってみたい場所のひとつなんですよ!でも…行けず仕舞なんですけど(笑)いつかはお邪魔致します!その際はいろいろと情報教えて下さいませw
2010/3/28(日) 午後 11:55
保科媛サン>堀秀政に弟って以外と知られてなかったんですね!!以外と知られていない事に驚きました…大津城総攻撃の際…西軍の大砲撃ち捲りで天守閣も吹っ飛んじゃったみたいですね!!京極高次の奥サンである初(常高院)は浅井三姉妹(長女は淀君・三女は徳川秀忠正室崇源院)の次女だったんで実父浅井長政・実母お市の方・養父柴田勝家と2度落城で両親等を失ってる経験してるだけに…西軍の攻撃で過去のトラウマでパニック状態!!そんで仕方なく降伏しちゃったって説もあるんですよ…
2010/3/29(月) 午前 0:07
堀秀政に弟がいた事を初めて知りました。
大津城の戦いは西軍が戦術的に勝利して戦略的に
負けた一戦ですね。
本当歴史のたった一場面であってもいろんな
ドラマがあった事を改めて実感しました。
2010/3/30(火) 午後 11:10 [ わんこ ]
本当にマイナーだったんですね…是非覚えて下さいませw戦術的に勝利して戦略的に負けたって一戦は他には…「小牧・長久手の戦い」もそうですねw戦術的に勝ったのが徳川家康で戦略的に勝利したのが豊臣秀吉ですw
2010/3/30(火) 午後 11:56