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最近、吉川弘文館の「大内義隆」(福尾猛市郎著)を読みました。歴史小説などでは知ることのできない詳しい情報を得ることができてたいへん満足できました。 その中で大内氏の滅亡の様子と厳島の合戦について詳しく書かれていたのでご紹介していと思います。 最盛期には周防・長門・石見・安芸・備後・筑前・豊前・肥前と八ヶ国に勢力を振るった大内氏ですが、滅亡はあっけないものでした。明や朝鮮との貿易で上げた莫大な利益でその首都山口の繁栄は極まり文化は栄えましたが、そのために文弱に流れ尚武の気風はすたれました。 大内氏最後の当主、義隆は戦をするにも名分を求め、筑前の少弐氏を攻めるために太宰大弐の官位を求めたり、伊予を攻めるために伊予介の官位を求めるなど不必要なまでな行動を起こします。 このあたり義隆の性格の弱さかもしれません。侵略しているという後ろめたさがあったのでしょう。 大内氏は、戦国時代有数の大大名ですが支配体制は強固とはいえませんでした。領国を国主が直接治めるのではなく、周防は陶氏、長門は内藤氏、筑前は杉氏(豊後守)、豊前は杉氏(伯耆守)というように重臣たちを守護代とし間接支配にとどめていました。 しかも守護代は世襲されたため、彼らの力が各国に蓄積され大内氏は次第に浮き上がった存在となっていきました。当主に器量のある場合はそれでも支配できましたが、器量のない当主が出てくれば手に負えなくなります。その弊害がもっとも現れたのが義隆の時代でした。 義隆は軍事でも出雲の尼子氏を攻めて大敗するなど失点が多く、守護代たちからの信頼をなくしていました。そのことを知ってか知らずか義隆はますます軍事から遠ざかり、文弱に流れていきます。 重臣筆頭で、周防守護代の陶隆房は日ごろからこれを苦々しく思っていましたが、義隆が文官の寵臣相良武任を朝廷に奏上し従五位遠江守に叙せられたことで怒りが爆発します。 武官たちの怒りを恐れた武任は豊前に蓄電しますが、反乱の発端はまさにここだったと考えます。 義隆は、隆房の台頭を抑えるため石見の吉見正頼、安芸の毛利元就など外様の有力者と婚姻関係を結んで対抗しようとします。さらに穏健派の長門守護代内藤興盛に命じてこれら外様と連携させ対抗させました。 ところが信じられないことに義隆の対抗策はこれだけでした。まだこの段階だったら、陶氏以外の守護代たちと外様に命じて隆房を滅ぼすことも可能でした。しかしそれが出来なかったのは、義隆自体、隆房の武勇を恐れていたのかもしれません。 危険を察知した隆房は、着々と謀反の準備を進めていきます。あるいは利を喰らわせあるいは武力で脅し、謀反を起こしても味方しないまでも中立を保つことを守護代たちに約束させました。 それだけ義隆の政治が疎まれていたのかもしれません。 1551年、ついに陶隆房は謀反の兵をあげます。その兵力は五千。山口の大内館には義隆を守るために三千騎が集まったと伝えられますが、一夜のうちに二千騎に減り、その後も減り続けました。長門の内藤氏、筑前・豊前の両杉氏も静観したため、義隆は山口での防戦を諦めます。内藤・杉の軍勢五千騎は逆に陶軍を助けるために来襲したくらいです。 姉婿である石見の吉見正頼を頼ろうとしますが、陶軍に追いつかれ石見行きを断念しました。今度は海路九州に逃れようと長門国大津郡仙崎港から出航します。ところが強風のために港に吹き戻されてしまいました。 事ここにいたって命運尽きたことを知った義隆一行は大寧寺に入り一族ことごとくが自害して果てました。これが名族大内氏の最期です。享年四十五歳。 大内氏の旧領はどうなったのでしょうか?その後の歴史を簡単に振り返ります。 謀反が成功した隆房は、さすがに大内氏にとって代わろうとはしませんでした。豊後の大友氏から血縁の晴英(義隆の姉の子)を大内家の当主として迎え入れ、これを傀儡として操ることで支配しようとします。晴英は大内義長と改名します。隆房も晴英から一時を貰って晴賢と名乗りを変えました。 晴賢は、ライバルとなる可能性のある筑前守護代の杉興運を攻め滅ぼし、石見の吉見正頼の居城津和野城を囲みました。 毛利元就はこのとき去就を明らかにしていませんでした。しかし晴賢の謀反を利用する形で安芸に勢力を拡大していきます。旧大内領の安芸国内の城を次々と奪っていたため対立は必至でした。 吉見正頼の悲鳴のような援軍要請に元就がしぶしぶ応じたのは1554年です。その前に元就は厳島に宮尾城を築き陶晴賢を挑発していました。 安芸一国をようやく統一した元就と、大内氏の旧領の大半を制圧した陶晴賢では実力の違いがありすぎました。そこで元就は得意の謀略を使います。自分の家臣に晴賢への内通の手紙を書かせ、そのなかで「元就は安芸の喉元にあたる厳島の宮尾城を陶軍に落とされることを非常に恐れている」と言わせました。 これを信じた晴賢は二万(三万という資料もあり)の大軍をもって厳島に上陸しました。1555年8月のことです。このチャンスを待っていた元就は嵐を衝いて毛利勢四千を厳島の背後から上陸させます。 夜の明けるのを待って毛利軍は陶軍の背後から襲いかかりました。虚を突かれた陶軍は大混乱します。逃げ場のない狭い島の中、我先にと船に乗り込んで脱出しようとした陶軍でしたが、そこを毛利軍に衝かれ次々と討たれていきました。世にいう厳島の合戦です。 毛利元就は村上水軍にも援軍を頼んでおり、水上に脱出できた陶軍も撃破されます。晴賢は逃げようにも船を失い、万策尽き大江浦(一説では高安原)で自害して果てました。享年三十五歳。 こうして毛利元就は、陶晴賢の領土をそっくり貰うことになりました。のちの大大名、中国の雄・毛利氏はこの戦いによって誕生したといっても過言ではないでしょう。
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名門の盛衰
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「傑作」&TB!
私も以前、「厳島合戦」の記事を書きましたので、それをTBしますね。
>大内氏は、戦国時代有数の大大名ですが支配体制は強固とはいえませんでした。領国を国主が直接治めるのではなく(中略)重臣たちを守護代とし間接支配にとどめていました。
>しかも守護代は世襲されたため、彼らの力が各国に蓄積され大内氏は次第に浮き上がった存在となっていきました。当主に器量のある場合はそれでも支配できましたが、器量のない当主が出てくれば手に負えなくなります。
要するに大内家を頂点とした中央集権体制を確立させようとしなかった訳ですね。
毛利元就は重臣だった井上氏を滅ぼして、毛利家の中央集権体制を確立しましたし、尼子晴久も叔父の尼子国久ら新宮党を粛清して、尼子家の中央集権体制を築こうとしたんですよね。そうでないと時代に適応出来ず、潰れたでしょうから。
本来は中央から派遣された代官である筈の守護代が、世襲状態になっていたというのは、要するに彼らが実態は封建領主化していたという事でしょう?世襲化など許すべきじゃなかったかも。
2010/3/31(水) 午前 9:27 [ - ]
似たような話はヨーロッパにもありますね。最近主に中世ヨーロッパ史の本を読み通しているのですが、シャルルマーニュ(カール大帝)が拵えた「伯」なんか、この守護代みたいなものですね。
シャルルマーニュの臣下とは言っても、元々外様勢力で、シャルルマーニュの実力に捻じ伏せられて、渋々臣従するようになり、腹の中じゃ反抗的な「公」たちに対抗する為に、自分の子飼いの臣下たちを代官としてあちこちに派遣したのが伯だそうで。これらが爵位の「公爵」「伯爵」のルーツだと言いますね。
元は公爵が封建領主で、伯爵は世襲が許されない一代限りの代官だったのが、すぐに有名無実化して、公爵と同じ封建領主化してしまいました。それで公爵と同様、伯爵までもが中央に従わなくなったという、皮肉な結果になりました。大内家の守護代も、この伯爵みたいなものでしょうか。
2010/3/31(水) 午前 9:27 [ - ]
義隆は もったいないという印象が強い
陶は 自分が下克上するつもりはない印象がある
義隆の周辺には 都を落ちてきた公家たちがいて領地も貰ってた
陶たちには 我慢できなかっただろうし 自分たちの主張を通してくれる神輿が欲しかったんじゃないかなぁ
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/3/31(水) 午後 9:11 [ - ]
ZODIAC12サン>大内氏は実質国人領主の連合体ですよね!名目的には大内の神輿を実質国人領主を支配してその上に立つ守護代が担いでる感じがするんですよね…その後を下克上で継いだ陶も結局はそのスタイルを継承するんですが…結局は自身が神輿を担ぎ続ける事になるのは…何か三好長慶と同じですね!世界中に似たようなお話があるんですね!!やはり支配する上で支配者側は楽したが故に誰かに一切を任せ利益のみ吸い上げるんでしょうね!今…「荘園」って言葉を久々に思い出しましたw
2010/3/31(水) 午後 11:52
保科媛サン>やはり大内氏の支配体制自体が既に時代遅れとなってたんですよね…守護大名から戦国大名への脱皮が出来なかった典型的な例じゃないでしょうか…残念ですよね…
2010/3/31(水) 午後 11:56
中国地方での権力移行の様子がわかり易いですね。
本当にいつも勉強になります。
2010/4/1(木) 午後 11:03 [ わんこ ]
元々鳳山サンの文才が優れてるからですよw
2010/4/3(土) 午後 4:25
相良さんだけど嫡流の多良木・上相良の系統だそうです
南北朝で南朝に味方したせいで下相良に宗家の地位を取られちゃった
陶は後一歩が踏み出せなかったんだなぁ
それが限界だったかもだけど・・・トラバします
2010/6/6(日) 午後 8:54 [ - ]
陶に大内に取って代わる気迫があれば中国地方のその後は大きく変わったでしょうね…でも…毛利元就存命中はやっぱり同じ結果になったでしょうかね…
2010/6/6(日) 午後 10:38