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幼名は「十二郎」なんですよw 慶長11年(1606年)父頼久が幕命で駿府城石垣普請工事を務めます! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)父頼久が享年39歳で死去します…この時まだ5歳でした…祖父豊盛は大坂の役を控えた難局を5歳の当主で乗り切る事は難しいと判断します!! 慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長20年(1615年)5月幕府・豊臣の和議が破談となり大坂夏の陣が勃発! その後祖父豊盛は駿府城に常駐し徳川家康の元に出仕しますw 元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…その後祖父豊盛は江戸に戻り2代将軍徳川秀忠の御伽衆となるんですw元和5年(1619年)祖父豊盛が幕命で京都知恩院の普請奉行を務めますw 元和5年(1619年)10月に福島正則が改易されます! 元和6年(1620年)祖父豊盛が京都にて享年67歳で死去します…そんで15歳で元服し従五位下・主膳正に叙任し「豊嗣」と名乗り家督を相続しますwこの頃に直臣の大身旗本松平勝政の娘サンと結婚しますw 元和8年(1622年)8月に山形藩最上家が改易されます… 元和9年(1623年)に本多正純が改易となります! 寛永4年(1627年)7千石を加増されとなり合計1万3千石の大名になりますw そんで陣屋を清富に新築し芦屋から引越しますw でも…実際は江戸に定住し陣屋には代官を4人前後派遣して管理させたんです! さらに岸田川改修の大工事をして耕地の拡大を計り清富陣屋の内堀と外堀を兼ねる工夫もしますw城下を区画整理し直して城下町整備を行いつつ改めて検地を実施してさらに4500石の耕地を!!結局清富藩は実高1万7千石以上もあったんですw
さらに領内の各村落の自立を促したり「奉楞巌寺古文書」保護に尽力するんですw まさに『名君』だったんですよ! 3代将軍徳川家光の信頼も厚く元外様ながら将来を有望視されてたんですw 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永9年(1632年)5月22日加藤忠廣が改易になります…寛永12年(1635年)6月10日義父松平勝政が享年63歳で死去します…寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します!寛永16年(1639年)祖父豊盛が再建した銀閣寺の修理普請工事に務めます! そんで修復が済んだ銀閣寺にて父頼久の33回忌法要を執り行なうんです… 寛永17年(1640年)7月に池田騒動が起きます… だから清富藩宮城家は無嗣断絶にて【改易】となるんですよ… その後旧清富藩領は天領となるんです… ちなみに嫡流は絶えたけど宮城家は傍流が岡山藩池田家や尾張徳川家に仕え存続したんですw ★☆★ちなみに…下画像は最後に仕えた徳川家光の肖像画で豊嗣じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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おはようございます。宮城 豊嗣は今回初めて知りました。それと
大名にとって関ヶ原から大坂の陣までの期間がとにかく生き残る
のに必死ですね。記事を読んでつくづく感じました。ALLポチ
です。
2010/4/25(日) 午前 6:32
名君と呼ばれる御仁だけに惜しいですね…もっと早くに養子縁組等手を打つべきだったと思います!でもあくまで養子を取らず実子を求めたんでしょうか…実際のとこがわかんないんで何とも言えないですが…本当に残念ですw
2010/4/27(火) 午後 10:47