『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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真田 昌幸 【1】

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真田昌幸は信濃国上田藩の最初で最後の藩主

【徳川家康】の侵攻を2度も撃退した戦国時代きっての謀将ですw

宇多頼忠】の娘婿で【石田三成】の義兄で【真田幸村】の実父ですw

天文16年(1547年)上田城主真田幸隆の3男として誕生しますw

お母サンは信濃国の国人河原隆正の妹恭雲院サンですw

天文17年(1548年)2月塩尻峠の戦いで武田軍が小笠原軍を撃破します!

天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…

天文19年(1550年)7月小笠原長時が武田信玄に信濃を追放され越後に亡命します…

天文22年(1553年)武田信玄の元に人質として送られます…

だけど…優秀だったんで武田信玄にとっても気に入られて奥近習衆になりますw

そんで武田信玄に兵法をみっちりと学んでいるんですよ!

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…

永禄4年(1561年)武田家一門である武藤家の養子となり「武藤喜兵衛」と名乗ります!!

永禄4年(1561年)第4次川中島の戦いが行われます!!

その時に足軽大将として武田家奉行人にも加わり初陣し活躍するんですw

永禄7年(1564年)遠江国の国人宇多頼忠の娘山手殿サンと結婚しますw

永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…

永禄9年(1566年)長男信之(幼名:源三郎)が誕生しますw

永禄10年(1567年)次男幸村(幼名:源次郎)が誕生しますw

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄12年(1569年)「武田vs後北条氏」の三増峠の戦いで使番を務めます!

元亀元年(1570年)6月28日浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!!

元亀元年(1570年)7月武田信玄が再び駿河侵攻を開始し従軍し活躍します!

元亀2年(1571年)9月30日織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちします!

元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始し従軍します!

元亀3年(1572年)12月22日三方ヶ原の戦いにも従軍し活躍します!

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…

そんで西上作戦は中止となり武田軍は撤退する事になりその後は武田勝頼に仕えます!

天正元年(1573年)9月1日浅井長政が享年29歳で自刃します…

天正2年(1574年)5月19日父幸隆が享年62歳で死去します…

天正3年(1575年)5月21日長篠の戦いが行われ武田軍が完敗します!

この戦いで…長兄信綱(享年39歳)と次兄昌輝(享年33歳)が討死します…

そんで急遽「武藤姓」⇒「真田姓」に復姓して真田氏の家督を相続するんです!

ちなみに…義父宇多頼忠は所領を捨てて織田信長家臣羽柴秀吉の弟秀長に仕え出します!

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正6年(1578年)甲越同盟成立を受け上野国に侵攻し沼田城や名胡桃城を攻め落します!

天正7年(1579年)長男源三郎が武田勝頼嫡男信勝と一緒に元服を許されますw

そんで通字の「信」を拝領し「信幸(関ヶ原後は信之)」と名乗りますw

天正8年(1580年)従五位下・安房守を叙任しますw

天正8年(1580年)に石山本願寺が織田信長に降伏します!!

天正9年(1581年)武田勝頼の命令で新府城の作事奉行を務めます!

天正10年(1582年)3月織田信長が武田征伐を開始します!!

戦術上不利を補う為武田勝頼に新府城から岩櫃城に移動する事を進言し準備をします!

でも…武田勝頼は途中で小山田信茂の裏切りに遭うんですよ…

天正10年(1582年)3月11日武田勝頼が享年37歳で自刃します…

この報せを聞いて早々に織田信長に降伏して信濃国上田7万石を安堵されます…

そんで織田氏重臣滝川一益の与力となるんです!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

天正10年(1582年)6月19日神流川の戦いに滝川一益配下で参陣し大敗します…

滝川一益は所領を捨てて逃亡しちゃったんで北条氏直に従属の使者を出します!!

そんで後北条家の信濃国侵攻の先手を務めるんです!

これに乗じ長男信之に川中島方面へ度々出陣させ上杉領海津城付近を撹乱させます!

甲斐・信濃・上野の空白地帯を巡り徳川家康・北条氏直・上杉景勝らが激戦を行います!

これが「天正壬午の乱」です!

でも…時勢を読んで突然後北条家を裏切り徳川家康に従属するんです!!

結果徳川家康と北条氏直は和睦するんですが…その和睦条件が…

「上野国沼田領(真田領)を後北条家が徳川家に譲渡する!」だったんです!!

折角自力で手に入れた沼津領を取られて代替地も未定…納得出来ず激怒します!

そんで突然徳川家を裏切り上杉景勝に従属するんです!!

この時に次男幸村を上杉景勝の元に人質として送るんです!

天正11年(1583年)上田城を築城し同時に城下町も整備しますw

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが行われ羽柴秀吉が勝利します!!

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが行われます!!

天正13年(1585年)7月徳川家康が上田城に北条氏直が沼田城に其々侵攻して来ます!!

これが第一次上田合戦で3倍以上の兵力を持つ徳川軍を撃破しちゃうんです!!

そんで上杉景勝の勧めにより次男信繁を豊臣秀吉の元に人質として送るんです!

天正13年(1585年)四国征伐が行われます!

天正13年(1585年)10月関東・奥羽に豊臣秀吉が「惣無事令」を発布します!

天正14年(1586年)九州征伐が行われます!

天正14年(1586年)信濃国佐久郡に侵攻します!

この時には徳川家康も豊臣秀吉に従属してて…宿敵徳川家康の与力となるんです!!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)駿府城で徳川家康と…大坂城で豊臣秀吉と其々謁見します!

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これにより正式に室町幕府は終焉を迎えます!

天正17年(1589年)徳川家康と和睦し長男信之と本多忠勝の娘小松姫が結婚しますw

天正17年(1589年)豊臣秀吉が沼田領問題の裁定を行います!内容は…

後北条氏は利根川以東が割譲され真田家は沼田領代替地の伊那郡箕輪領を得ます!

天正17年(1589年)11月後北条氏家臣猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃します!

この攻撃が「惣無事令違反」とみなされれるんです!

天正18年(1590年)小田原征伐が行われ参陣します!

戦後に沼田領3万石は正式に真田領となり長男信之に任せるんです!

記事が長くなっちゃったので「真田昌幸【2】」に続きます!!

★☆★ちなみに…下画像は真田昌幸本人の肖像画ですよw★☆★

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お待たせ〜〜
まず景勝が沼田城主に矢沢さんに宛てた手紙

未だに上手く書き表せないが、書状を送る。
まず、貴殿が紛争地帯の沼田に在城するのは仕方ない事である。
問題は貴殿の主君、真田昌幸だ。
彼奴は去年、上杉に臣従しておきながら、時を経ずして当方と疎遠になった。
何を考えているのか、疑わしい事この上ないと思ったほどだ。
(中略)この部分は2チャンに投稿した人が省略したんで媛もワカラン
今後はこれまでの罪を赦し親密になるが、その関係に少しも支障があってはならない。
これらの趣旨を、そちらの家臣一同にも広く知らせるべきである。
詳しくは、使いの僧が申し上げる。 謹んで申す。

天正十三年 七月十三日 景勝

2010/5/14(金) 午後 7:25 [ - ]

手紙を聞いて 昌幸はすぐさま人質として次男・源次郎(信繁)を送って来た。
これに応じた景勝は、徳川軍と対峙した昌幸に援軍を派遣。
横腹に上杉軍をにらんだ徳川軍は
八月二日の一度しか上田城を本格的に攻めることが出来ず、十一月に撤退した。

だが、昌幸はこの行動を「消極的に過ぎる」として不服を申し立て、上杉領に嫡男・信幸を送り、
放火するなど破壊活動を行なわせた。さすがに怒った景勝は、天下人・秀吉に抗議した。。

2010/5/14(金) 午後 7:27 [ - ]

翌年八月、秀吉から返事が来た

(真田は)オモテウラのある卑怯者なので、成敗する事が決まった
そのために多分、徳川軍が動く事になるだろうが、貴殿から絶対に(真田へ)援助してはならない。
(原文:表裏比興者に候間、成敗を加えらるべき旨仰せ出され候間、定めて家康人数相働くべく候
の条、其の方より一切見続ぎ等これあるまじき由候。)

2010/5/14(金) 午後 7:28 [ - ]

「………♪」喜んだ景勝だったが、わずか1ヶ月後、秀吉からこんな書状が届いた。

(前略)
さて、真田昌幸の事だが、先の書状で申し渡した通り、卑怯者なので成敗する旨決定していたが、
とりあえずこのたびは中止にしておく。次いで関東他諸国の面々について、臣従したらすぐ取り次ぎ
命を伝えてほしい。

2010/5/14(金) 午後 7:29 [ - ]

しかも、なぜかまた真田が臣従して来たと思ったら、景勝が上洛しているスキに「景勝の命」と称して
春日山城から人質の信繁を連れ去り、大坂城へ送ってしまった。
激怒した景勝が秀吉に抗議すると、これまたなぜか、昌幸が直接秀吉に臣従する仲介を取らされ、
信幸が家康のもとに出仕することになっていた。

逸話ベースだから 事実関係に 微妙にズレがある感じ^^;

でも きっと景勝には 真田昌幸のことは理解不能

2010/5/14(金) 午後 7:31 [ - ]

天正14年(1586年)8月のお手紙は豊臣秀吉の手紙じゃなくて…それに添えてある添書の方に書いてあったんですよ!手紙自体は五奉行石田三成と増田長盛が連名で上杉景勝宛に出してますw書いたのは祐筆だと思いますwちなみに…「表裏比興者」は現在では「卑怯者」だけど…当時は「喰わせ者」とか「老獪」って意味で褒め言葉なんですよ!だから真田昌幸を良い意味で評価してる言葉なんですよwちなみに意味合いとしては…

「(真田昌幸は)地方の小勢力に過ぎないのに周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力拡大をした知謀・策略と大勢力との衝突でも一歩も譲らぬ戦略・武勇を兼ね備えた梟雄だから今後の憂いを絶つ為に(豊臣秀吉が真田昌幸を)成敗すると仰られてました!!そうなればまず徳川軍が先陣を切って攻め込むだろう〜」って感じですw

でも…石田三成もこの時既に真田昌幸の事は買ってたんですよね♪だから後日は親密になり親戚付合いもしてるんですよ!これに津軽家とか伊達家も絡んで来るんですよね!

2010/5/14(金) 午後 11:51 まるこ

まるこの知ってる真田話をひとつ…

慶長16年(1611年)6月4日九度山にて享年65歳で死去しますが…当時誰もがそれを「嘘」だと疑ってたんです…だから大坂の陣の時徳川家康は【真田が大坂城入り】の情報を得ると「親の方か?それとも子供の方か?」と尋ねたんです!!実際は真田昌幸(親)じゃなくて当時無名の真田信繁(子供)と知って安心したみたいなんです!「謀将」の誉れ高く2度迄も苦汁を舐めさせられた真田昌幸の存在を半端無く徳川家康が恐れていたかって事でした…ちなみに…「親か?子か?」と尋ねてた徳川家康の手は恐怖の余りガタガタ震えてみたいです!

2010/5/15(土) 午前 0:02 まるこ

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うまくゆけば上田の会社が弊社の環境製品の代理店になってくれる段階になりました。川中島は行きましたが、いまだ真田史跡は探訪していません。
本日のmpポチです。

2010/5/30(日) 午前 0:09 熱田北条

お仕事が順調に行く事を心よりお祈り申上げますwでも…史跡のあるところでお仕事に関連するなんて羨ましい限りですwいつも有難うございますw

2010/5/30(日) 午後 10:26 まるこ


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