長船定行は備前国虎倉藩の第3代目(最後)の藩主【宇喜多秀家】の家老【長船貞親】の次男で【長船綱直】の実弟ですw長船氏は備前国の銘刀工【長船】の一族が武士化したものなんですw生年月日とかは不明なんですが…まるこ的仮定で…元亀元年(1570年)頃に宇喜多氏家老長船貞親の次男として誕生しますw 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正2年(1574年)再び宇喜多直家が浦上宗景に対し謀反を起して挙兵します!! この時毛利元就と宇喜多直家は同盟を結んでたんです! 父貞親は宇喜多直家に従い大活躍します! 天正6年(1578年)4月18日からの上月城の戦いで父貞親が黒田孝高を撃破します! 天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)12月浦上残党が反宇喜多の一斉蜂起します!!そんで父貞親らが鎮圧に努め大活躍します! 天正7年(1579年)5月宇喜多直家が織田信長派の後藤勝基らを攻め滅ぼします!! 天正7年(1579年)10月宇喜多直家が毛利家との同盟を破棄します! そんで織田信長に従う事にするんです!! 天正9年(1581年)4月父貞親が伊賀久隆の居城だった備前国虎倉城を拝領しますw 天正9年(1581年)父貞親が羽柴秀吉の鳥取城兵糧攻めに従軍します!! 天正10年(1582年)1月9日宇喜多直家が享年53歳で死去します…その後に宇喜多家の家督を継いだ宇喜多八郎(秀家)に仕え続けるんです!この頃の宇喜多家は宇喜多三老と呼ばれた父貞親と戸川秀安・岡家利の3人の家老衆が主導で宇喜多秀家を補佐してたんですが…戸川秀安が隠居して長男達安に家督等一切を譲ります!!ちなみに…宇喜多家名代として父貞親は安土城に赴き織田信長に謝礼を述べてますw 天正10年(1582年)5月8日からの備中高松城攻めに父貞親が従軍します!! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月4日羽柴秀吉と小早川隆景が休戦しますw天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利します! 天正12年(1584年)羽柴家と毛利家が正式に和睦しますw そんで宇喜多秀家は備中東部から美作・備前を版図とする大大名となるんです!! 毛利氏に対する抑えとして羽柴秀吉より備中国虎倉2万5千石を拝領しますw ちなみに虎倉城は叔母の旦那である石原新太郎を城代として任せてたんですw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが宇喜多家名代として父貞親が参陣します! 天正13年(1585年)7月の四国征伐で宇喜多秀家に父貞親が従い出陣し活躍します!! 天正14年(1586年)宇喜多秀家は羽柴秀吉の養女豪姫と結婚しますw この時前田家より豪姫に中村次郎兵衛と言う家臣が付き添います! 天正14年(1586年)九州征伐に父貞親が従軍し活躍します!! この頃に宇喜多秀家の小姓となりますw 天正18年(1590年)小田原征伐に出陣し活躍します!! 天正19年(1591年)閏1月1日石原新太郎が父貞親を新年祝賀を行う為に虎倉城に招きます! この時…兄綱直も誘われますが叔父石原新太郎と仲が悪かったので…少し遅れて虎倉城に向ったんですが…我慢してまで参加する事を嫌がって引き返すんです…
天正19年(1591年)閏1月5日父貞親は叔父長船源五郎親子らと虎倉城入りしますw 天正19年(1591年)閏1月6日一族の子供達が集まって碁を打ち出しますw それを父貞親ら大人が取り囲んで見物してたんです…その時に… 石原新太郎はその後火を放ち自害します…父貞親の国政に不満を持ってたらしいんです… そんで兄綱直が長船家の家督を継ぎ宇喜多秀家の家老となり大坂に常勤しますw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)宇喜多家執政戸川達安が突然宇喜多秀家に解任されます!! 後任執政に兄綱直がなり…そんで大坂家老となってた中村次郎兵衛と連携しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!慶長2年(1597年)6月12日小早川隆景が享年64歳で死去します…慶長2年(1597年)10月9日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)1月宇喜多秀家が五大老の一人に任命されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…この頃宇喜多秀家が朝鮮出兵で悪化した宇喜多家財政再建の為に重税を課そうとします!これに一門衆宇喜多詮家や家老衆岡越前守・戸川達安・花房正成らが大反対します!! さらに宇喜多秀家は家臣達にキリスト教に改宗するように命じてます! ちなみに…宇喜多氏家臣団の多くは日蓮宗徒だったんで家中は騒然となります!! そんで親長船・中村派と反長船・中村派に分かれて対立し出すんです!! 慶長4年(1599年)1月宇喜多家内で御家騒動を起します!!慶長4年(1599年)1月末頃に兄綱直が反対派により毒殺されます…そんで家督を継ぎ家老衆のひとりとなるんですが…宇喜多秀家は騒動沈静化の為に騒動首謀者を戸川達安と決めてかかり暗殺を謀ります!! でも一門衆宇喜多詮家が戸川達安を庇って大坂玉造邸に篭城します!! 今にも戦さが起りそうな一触即発の状況となるんですが… 徳川家康や大谷吉継の仲裁で御家騒動は終結し多くの家臣が宇喜多家を出奔します… 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)5月宇喜多秀家が石田三成・上杉景勝らと密かに挙兵を計画します!! 慶長5年(1600年)6月2日会津征伐が発動されます!! 慶長5年(1600年)7月1日宇喜多秀家が豊国神社で出陣式を行います!慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!!この際宇喜多秀家は西軍副大将として挙兵し従軍します!! 慶長5年(1600年)7月19日伏見城攻撃に参陣します! 慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!そんで東軍福島正則・加藤嘉明・井伊直政・本多忠勝ら総勢1万3千を何度も押返すんです!! 慶長5年(1600年)9月15日正午頃に小早川秀秋が西軍を裏切ります!! 脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら総勢4千も突如東軍に寝返ります!! 大谷吉継隊が壊滅し裏切隊がそのまま宇喜多軍に猛攻を掛けて来ます!! 宇喜多秀家自ら槍を振るって踏ん張るけど…3万もの敵を抑える事が困難になり… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に宇喜多隊は壊滅します… その際宇喜多秀家は小早川秀秋の裏切りに激怒し単身小早川隊へ切り込もうとしますが… 明石全登と一緒に宇喜多秀家を制止し戦場を脱出させるんです… 慶長5年(1600年)9月15日午後2時頃に西軍が壊滅します!でも…その後の長船定行の行方を誰も知らないんです…その後子孫は帰農し代々「吉兵衛」を名乗り邑久郡長船村の名主として存続したんですw★☆★ちなみに…下画像は主君宇喜多秀家の肖像画で定行じゃないですw★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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さすが まるこさん〜詳しい^^
後藤勝基の奥方って宇喜多直家の娘なんだよね^^
逸話
「籠城しているときに家臣が宇喜多方の誘いに乗って裏切ろうとした
それを察知した後藤勝基は奥方に相談し奥方が自分が何とかしますと返事した
奥方は裏切り者の家臣を戦の慰労のためと奥に招き
裏切り家臣たちが囲碁をして和んだところで
女中が奥方からの酒肴ですと室内へ入った
と同時に奥方が刀を持って乱入。裏切り家臣3名を切り倒し内々に片付けると
翌日城外に首をさらして城内の空気を引き締めたそうです」
まぁ結果てきには城は落ちて後藤勝基も奥方も自害するけど
さすが富田信高の妻と血縁なだけあるわ〜〜(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/6/9(水) 午後 6:46 [ - ]
宇喜多直家は娘達を政略の道具としか思ってなかったんでしょうかね…やっぱり当事は男尊女卑的な考え方が一般だったんでしょうか…でもそうであったとしても男女問わず自分の分身たる子供の事を想わない親っているんでしょうか…でも…そんな親だったからこそ娘達はみな気丈に育ったんでしょうか?今…ふとそう思っちゃいましたw
2010/6/9(水) 午後 9:27
おはようございます。長船と聞くと刀工のイメージが有ります。
その中から武家したのは知りませんでした(^ー^) とても
勉強になりました。 ALLポチ☆です。
2010/6/10(木) 午前 6:52
宇喜多家は没落し父はヘタレで母が必死に働き仕官させて
直家も幼少期は安全のためウツケの振りをしたりのゼロからスタート
初めて城主になった時は超貧乏で家臣と隣村で強盗したり
家中一同で月の内に数日は絶食して、つもり貯金の苦労をしてるから
生き残るため何でも有りになると思う
三浦桃君、容姫様や八郎ちゃん、あたりの時期に普通に子供を可愛がるって経済面+軍事面+気持ちのゆとりが出たと感じる
2010/6/10(木) 午前 11:34 [ - ]
武家は野生の王国に似てる
弱い子は淘汰されるように小勢力は潰れる
生き残り家名を残すには我が子も犠牲にするけれど割り切って出来る親はいない
だからこそ一族から誰かが仏門に入り後生を祈る
自分の罪障消滅と犠牲にした子供や家臣の冥福
願うことならば次の世は白髪になるまで天寿を全う出きるようにって
戦国時代に宗教に熱心なのは罪悪感があるからだと思う
宇喜多と家臣達は法華宗に熱心だった(*´∇`*)
2010/6/10(木) 午後 2:28 [ - ]
伊達殿>宗教団体等が外敵より身を守ったり…自身の利益追求の為武装化してった経緯と同じ感じですw商人もそうですよねwこの時代…やむを得ない事だったのかもしれませんねw
2010/6/11(金) 午後 11:02
保科媛サン>やっぱり…第一は家名存続!!これですよね!普通の事を普通に出来る状況じゃなかったんでしょうね…ちなみに子沢山だったりした際に末の子供とかを仏門に入れるのは後々の御家騒動の原因となるであろう要因を消す事だとばかり思ってました!姫サンの言葉でまさに「目から鱗」ですw有難うございます!もしまるこ説だと…仏門に入っても…その後帰俗しちゃえば何の意味も無いし…出家させるのはあくまで気持ちの問題って事になりますね!
2010/6/11(金) 午後 11:09