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お母サンは継室三次一任の養女で兄定昭や2人の姉とは異母兄弟なんですw お母サンはみんな違うけど…とっても仲の良い兄弟だったんですw 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永11年(1634年)父定芳が4万1千石に加増され丹波亀山藩へ移封されますw寛永12年(1635年)7月4日異母弟定房が享年5歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します…この時は異母兄定昭には奥サン(正室)もいなくて側室・妾も確認されてないんですよ… さらに余りに突然の死で幕府に対し事前に定実ら弟達を継嗣として届出もなかったんで… 亀山藩菅沼家は無嗣断絶で【改易】となるんですよぉ… そんで異母弟定賞と一緒に分与されてた分(合計3100石)も没収されちゃうんです… 理由は不明だけど…異母兄定昭の不審死に伴う明らかな連座だったんです… でも…幕閣内で菅沼家断絶を惜しむ声が日に日に大きくなるんです! 神君徳川家康を支え続けた祖父定盈の功績を鑑みた幕府は寛大な処分を言い渡しますw 正保5年(1648年)閏正月に幕府より1万石拝領し菅沼家の名跡相続を許されますw 封地は祖先に縁ある三河国設楽郡新城だったんですw そんで従五位下・摂津守に叙任し19歳で家督を継ぐんです! さらに松本藩主水野忠職(水野勝成の甥)の妹サンと結婚するんですよーw だけど…仲が良い異母弟定賞に3千石を分与しちゃうんです!! ……そんで……残りは7千石となったんで再び菅沼家は大名じゃなくなります… その後は「交代寄合」として存続するんです… 領内の整備や新田開発等を積極的に行う一方で茶道の道も究め風流を愛したんです! 陣屋に近い豊川の畔に桜の木を植樹したりもしてるんです!! 現代そこは桜淵公園として桜の名所となってるんですよw 慶安2年(1649年)長男定易が誕生しますw 慶安4年(1651年)4月20日3代将軍徳川家光が享年48歳で死去します…慶安4年(1651年)7月慶安の変が起きます!明暦4年(1658年)1月9日叔父田中吉官が享年59歳で死去します…寛文11年(1671年)伊達騒動が起きます!延宝2年(1674年)福井騒動が起きます! 延宝8年(1680年)5月8日4代将軍徳川家綱が享年40歳で死去します…延宝8年(1680年)6月26日鳥羽藩主内藤忠勝が芝増上寺殺傷事件が起こします!!延宝8年(1680年)12月9日大老酒井忠清が失脚します! 貞享元年(1684年)8月28日江戸城内で大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に暗殺されます! 元禄4年(1691年)11月4日に享年63歳で死去します…その後は子孫は代々「交代寄合」として存続し明治維新を迎えるんですw★☆★ちなみに…下画像は義伯父水野勝成の肖像画で定実じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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菅沼定盈・・・野田菅沼のほうか
菅沼定盈の2・3代くらいまえに富永の名跡というか領地ごと受け継いだんだっけ?
武田信玄が野田城に来るって報告が来たときに
菅沼定盈はトイレで手拍子とって謡曲歌ってそうです
家臣が怒って「早く出て!」と言ったら、やっと出て手水で手を洗おうとしたら
菅沼定盈は「これは水ではないか。ワシはいつも湯で洗ってる。敵が来たからといって水で洗う方があるか。いつも通りにせよ」
と言い、新たに用意した手水で悠々と手を洗い
それから甲冑を身に着けて退却した
という肝の据わった逸話がある
兄弟で分け合って、しかも家はキチンと繋ぐって見事だなぁって思います^−^
菅沼6家を主題にした小説があるんだけど、タイトルが思い出せない〜〜><;アウチ☆
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2010/8/4(水) 午後 10:27 [ - ]
菅沼定盈の祖父菅沼定則ですねwでも…富永氏に菅沼姓のまま養子入りするってある意味で異常な事なんですよ…実際富永氏家臣は家格が下の菅沼家よりの養子を嫌い菅沼定則の入城を拒んでるんですよ!!大人の事情が絡んでるみたいですが…詳細は不明です…基本的に肝が据わった一族なのかもしれませんねw
2010/8/6(金) 午後 10:59
「菅沼6家を主題にした小説」…思い出したら教えて下さいませw
2010/8/6(金) 午後 11:00
「風は山河より」宮城谷氏どすえ。
2011/4/10(日) 午前 2:21 [ ぱちー ]