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大内氏の滅亡と厳島の合戦
名門の盛衰
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/31(水) 午前 0:10
周防大内一族 − 西国の雄 − (前編)
この前尼子氏を紹介したので、今回はそのライバル、周防の大内氏を書きます。 大内家の始祖伝説では、百済の聖明王の王子、琳聖太子が周防国多々良浜に着き、その子孫が周防国大内村に住んだ事から、姓を多々良、氏を大内としたとされています。しかしこれは、よくある家系伝説というべきもので、周防国の在庁官人で勢力を蓄えた一族であろうといわれます。 多々良(大内)氏は、源平合戦の時には源氏に属して戦います。鎌倉時代を通して周防に勢力を扶植し、建武の新政では大内長弘が周防守護に任ぜられます。南北朝
大内氏の滅亡と厳島の合戦
名門の盛衰
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/31(水) 午前 0:10
周防大内一族 − 西国の雄 − (後編)
大内義隆は、自ら先頭に立って戦に赴くタイプではありませんでした。しかし大内家は大国であったので重臣陶興房、杉興連ら重臣たちに戦を任せ、じぶんは本拠山口で安穏の日々をおくれたのです。 戦乱を逃れて京から公家や文人たちが山口に逃げ込みます。義隆は彼らを保護し、ために山口は京文化が花咲きました。 一度は父に倣い、上洛を試みますが情勢はそれどころではありませんでした。もし上洛できても、尼子氏に領国を奪われて本も子も無くなってしまいます。 1550年、義隆に面会したフランシスコ・ザビエルは山
周防大内一族 − 西国の雄 − (後編)
名門の盛衰
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/31(水) 午前 0:09
大内氏の滅亡と厳島の合戦
最近、吉川弘文館の「大内義隆」(福尾猛市郎著)を読みました。歴史小説などでは知ることのできない詳しい情報を得ることができてたいへん満足できました。 その中で大内氏の滅亡の様子と厳島の合戦について詳しく書かれていたのでご紹介していと思います。 最盛期には周防・長門・石見・安芸・備後・筑前・豊前・肥前と八ヶ国に勢力を振るった大内氏ですが、滅亡はあっけないものでした。明や朝鮮との貿易で上げた莫大な利益でその首都山口の繁栄は極まり文化は栄えましたが、そのために文弱に流れ尚武の気風はすた
八幡神と秦氏の謎
名門の盛衰
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/31(水) 午前 0:02
川勝 秀氏
=== 川勝秀氏は丹波国何鹿藩の最初で最後の藩主 === === 【豊臣秀吉】の馬廻衆で江戸時代の直参旗本ですw === === 聖徳太子の元で活躍した秦の【始皇帝】を祖とする【秦河勝】の35代目嫡流子孫ですw === {{{'''弘治元年(1555年)13代将軍足利義輝の奉公衆川勝継氏の長男として誕生しますw'''}}} {{{'''幼名は「彦治郎」なんですw'''...
川勝 秀氏
取潰されたお殿様
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/31(水) 午前 0:00
八幡神と秦氏の謎
先日九州ローカルの旅番組を見ていると、ちょうど宇佐神宮を紹介していて司馬遼太郎の「街道をゆく」の文章の一節を引用していました。 なにげなく聞いてみますと、八幡神はもともと「やはた」神と呼び八とは「八千代」とか「八雲」のように数が多いことの例え。多くの「はた」氏のための神が源流ではなかったか?と推察していました。 「はた」氏とはもちろん秦氏のことです。秦氏とは… 【秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。秦の始皇帝の末裔を称するが明確で
【天正十年夏ノ記】
読み物
[ 平成金沢文庫 ]
2010/3/30(火) 午前 0:49
〓日本初 織田信長敵味方鎮魂地球平和祈願成就
一の宮巡拝会 織田信長敵味方鎮魂地球平和祈願が平成18年5月14日に成就。 織田家の氏神である劔神社において日本初の「織田信長敵味方鎮魂地球平和祈願」が斎行されました。 北陸道の大自然に囲まれた劔神社はヒーリングスポットです。 私が初めて参拝したのは雪の夜でした。雪道を四駆で走り、神社に至る県道の街路灯が照らす雪景色が神秘的で、荘厳な雰囲気の神社に着きました。 越前海岸も近く昨年暮れに撮影した日本海の荒波は感動でした。 織田信長の先祖は劔神社の神官です。織田信長ファンの行き着く
来島 康親
取潰されたお殿様
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/29(月) 午後 5:23
【秀吉と武吉】
『秀吉と武吉』 城山三郎著 新潮社 秀吉は言わずと知れた“豊臣秀吉”ですw 一方の武吉とは…戦国最強と言われた瀬戸内の雄“村上水軍の総帥 村上武吉”ですw 以外とまるこ的にはメジャーな作品と思ってますw 瀬戸内海に浮かぶ能島の海賊村上武吉は瀬戸内海を通過する船から通行料を採る事で生活の糧を得ていたが、無用な殺生や略奪を禁じていた。また、武吉率いる村上水軍は厳しい訓練と優れた指揮の元でその強さは中国・四国地方の大名達から恐れられるものであった。厳島の戦いの際も船
来島 康親
取潰されたお殿様
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/29(月) 午後 5:22
久留島 通靖
=== 久留島通靖は幕末の豊後国森藩の第12代目(最後)の藩主 === 1851年(嘉永4年)5月父第11代目藩主'''久留島通胤'''と母'''黒田長元'''4女毛登子の間に誕生しますw {{{'''1859年父通胤の死去により8歳で家督を継いだんですよ!'''}}}官位は従五位下で伊予守なんです! '''幕末期に...
来島 康親
取潰されたお殿様
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/29(月) 午後 5:22
【高麗秘帖/朝鮮出兵異聞】
= 『高麗秘帖/朝鮮出兵異聞 李舜臣将軍を暗殺せよ』 = = 荒山 徹著 祥伝社 = '''慶長2(1597)年'''再び朝鮮の地に上陸した'''豊臣秀吉の征明軍'''は雪辱に燃えていましたw 5年前(文禄の役)'''亀船'''を操り我が水軍を撃破した'''敵将李舜臣'''を必ずや倒す! ...
来島 康親
取潰されたお殿様
[ 『母を訪ねて3000円』 ]
2010/3/29(月) 午後 5:21
福島 忠勝
=== 福島忠勝は信濃国高井野藩の第2代目(最後)の藩主 === === お父サンは言わずと知れた【賤ヶ岳の七本槍筆頭】福島正則です! === {{{'''慶長3年(1598年)に清洲藩主福島正則の3男として誕生しますw'''}}} {{{'''幼名は父正則と同じ「市松」で初名は「正勝」と言いますw'''}}} ==== 慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀...



