大谷吉継は越前国敦賀藩の最初で最後の藩主【石田三成】の盟友で【関ヶ原の戦い】で壮絶な最期を遂げた人物ですw★記事が長くなったので2部構成で「大谷吉継【1】」の続きです!!慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が享年63歳で死去します…そんで時勢を見極めて徳川家康に接近するんです!慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!! この時武断派加藤清正・福島正則らと一緒に徳川邸を警護してます!! 慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!その後石田三成は失脚して大坂より佐和山城に退去するんです… 慶長5年(1600年)6月2日会津征伐が発動されます!! 慶長5年(1600年)7月会津征伐参陣の為長男吉治と敦賀城を出陣します! ちなみに…徳川家康からも才能を高く評価されてたんです! 会津征伐終結後12万石に加増する内示があったんですよ!! そんで途中で石田三成の居城佐和山城に立ち寄るんですよ!!石田三成と徳川家康を仲直りさせようと自らの監督下の元で石田三成の嫡男重家を会津征伐に従軍させようと考えての行動だったんですw
だけど…石田三成から徳川家康打倒の決意を打ち明けられるんです!! ビックリして親友平塚為広らと一緒に石田三成を説得します! 器量や軍事力全てに関して石田三成の勝てる相手じゃなかったけど聞き入れられず… 逆に石田三成の以前の茶会での行為や熱意に負けて西軍に味方する事にしたんです! そんで一旦帰国し長男吉治と次男頼継らと総勢約8千の大軍勢で石田三成の元に向います!! 当時の兵役は1万石に対して200〜250人が基本だったんで大谷家は総所領11万石として2千〜2500人の兵が相応だったんだけど…総勢約8千となると当時の許容範囲を遥かに超えた大軍勢だったんです!この事を知った徳川家康はとっても狼狽したんです! その後は多くの諸侯を西軍に加担させる事に成功するんです! 慶長5年(1600年)7月末に後輩加賀井重望を呼出し密命は命じます!! それは…徳川家康本人を暗殺する事だったんです!!〜結局は失敗するんです… 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)7月19日伏見城攻防戦が行われ活躍します!! 慶長5年(1600年)8月4日東軍前田利長に備えて北庄城入りします!! 慶長5年(1600年)8月末に長男吉治・戸田勝成と一緒に総勢6千で美濃へ進出します!! 慶長5年(1600年)9月3日に関ヶ原南西の山中村に着陣します!! でも持病のハンセン病が悪化して実際は盟友平塚為広に指揮権を委ねたんです… 着陣早々小早川秀秋の裏切りを見抜き小早川隊の進軍経路に「馬防柵」を築きます! 慶長5年(1600年)9月14日平塚為広と戸田勝成に密命を下します! 「2人で小早川秀秋の動向を探れ!もし小早川秀秋に西軍裏切りの気配が少しでもあれば暗殺しちゃって構わないからっ!」と言うものだったんです…でも事前に暗殺計画を察知されちゃって実行する事は出来なかったんです… 慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!病気が悪化し歩く事も出来なかったんで輿に乗って戦況を見極めてました!そんで東軍の藤堂高虎・京極高知両隊総勢5千を相手に一歩も引かず何度も押し返すんです!! そんで追撃体制に移ろうとしたその時… 脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら総勢4千が突如寝返り側面から攻撃して来ます!! これで前から東軍…側面から裏切諸隊…後ろから小早川隊の猛攻撃を受けます… 壊滅状態になったけど孤軍奮闘しますが… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に宇喜多・石田・小西等西軍主力が壊滅…この時に平塚為広から討取った敵将の首と一緒に辞世の句が届きます…『名のために 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へば』意味は…名前を世に留める事が出来れば命も惜しくなんかない!元々人は永遠には生きれないんだから…読み終えてすぐに平塚為広に返歌を送ってるんですよ! 『契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも』意味は…暫くそこで待ってろよ!出会えるのが少し先になるか後になるかくらいの違いだから…でも…この返歌が平塚為広に届く前に… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に平塚為広が享年57歳位で討ち死にします…この時戦線を離脱し生き延びるように長男吉治と次男頼継を説得します!2人とも親子での討ち死にを決意してたんですが…説得を受けて2人とも逃走します!! 四方からの猛烈な攻撃で大谷軍は防御の限界を超えてついに壊滅しちゃいます…そんで… 小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心也!!3年の間に祟りをなさん!」と言って… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時過ぎに享年42歳で討ち死にします…慶長5年(1600年)9月15日午後2時頃関ヶ原本戦は東軍が勝利します!そんで敦賀大谷家は息子達と一緒に【改易】となるんです…墓所は岐阜県関ヶ原町と滋賀県米原町にあります… 戒名は「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」です… ちなみに…肝心の小早川秀秋なんですが…関ヶ原より3年も経たないで… 慶長7年(1602年)12月1日小早川秀秋が岡山にて享年21歳で死去してます…★☆★ちなみに…下画像は大谷吉継本人の肖像画ですw★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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幼名は「桂松」でお母サンは後年豊臣秀吉の正室高台院の侍女となる東殿サンですw 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)浅井家と織田家が同盟を結びます!!永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し六角氏を撃退します!これに怒った浅井長政は織田家との同盟を破棄し全面対決をします!! 父吉房は浅井家に召集されて各地で織田軍と戦ってたんです!! 元亀元年(1570年)6月28日姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!!元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江侵攻を開始します!!元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します! 元亀3年(1572年)12月突然援軍である朝倉軍が撤退します… 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!! 天正元年(1573年)9月1日浅井長政が享年29歳で自刃します…天正2年(1574年)長浜城主羽柴秀吉は近江国内で人材発掘に励みますwその際に父吉房・母東殿と親子3人一緒に羽柴秀吉に仕え出すんです! この時に同郷の石田三成と一緒に小姓となってます! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)三木城攻めに馬廻として従軍します!!天正9年(1581年)鳥取城兵糧攻めに馬廻として従軍します!! 天正9年(1581年)長男吉治が誕生しますw 天正10年(1582年)5月8日から備中高松城攻めを従軍します!! この時には羽柴秀吉より文武に優れてて高く評価されてたんですw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉配下で山崎の戦いに従軍します!!天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉配下で従軍します!! この時柴田勝豊を調略し内応させます! そんで「七本槍」に匹敵する「三振の太刀」と賞賛される大活躍をするんです! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起き黄母衣衆として従軍します!! 天正13年(1585年)7月から四国征伐に出陣します!! 天正13年(1585年)7月11日豊臣秀吉が関白に就任しますw これと同時に従五位下・刑部少輔に叙任されますw 天正14年(1586年)次男頼継が誕生しますw 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw この頃には既に『ハンセン病』を発症していたんですよ…天正14年(1586年)九州征伐の際に石田三成と一緒に兵站奉行に任じられ活躍します!天正15年(1587)大坂城内で茶会が開かれ出席します…その席で… 招かれた諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回してたんです!こん時吉継が口をつけた茶碗を「病気が感染する」って誰もが嫌い飲むふりをするだけだったんです…でも石田三成だけ普段と変わりない素振りで茶を飲みほしたんです!そんで気軽に話しかけてくれたんです♪そんな石田三成に感激して以後2人は大親友となるんですw 天正18年(1590年)小田原征伐に参陣して活躍します! この頃から長男吉治と次男頼継が一緒に豊臣秀吉に仕え出し可愛がられますw そんで長男吉治と次男頼継にそれぞれ越前国内に2万5千石を拝領するんですw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で船奉行・軍監を務め活躍します! 石田三成と違って武断派からも慕われてたんですw さらには豊臣秀吉に「100万の軍勢を与え自由に軍配を指揮させてみたい」と迄言わせたんです! 文禄2年(1592年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)伏見城築城に参加して活躍しますw 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長2年(1597年)9月豊臣秀吉が大谷家を訪問します!!でもハンセン病が進行して重症化してたんで長男吉治に接待役を務めさせます… この頃長女竹姫(竹林院)が真田昌幸の次男幸村と結婚しますw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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元亀元年(1570年)頃に元土岐氏家臣松野重定の長男として誕生しますw この頃父重定は織田信長家臣安藤守就配下として活躍してたんです! 元亀元年(1570年)4月織田信長が越前征伐を開始します!! これに怒った浅井長政は織田家との同盟を破棄し全面対決をします!! 元亀元年(1570年)6月28日姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!!元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します!!元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!! 天正元年(1573年)9月1日浅井長政が享年29歳で自刃します…天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正5年(1577年)羽柴秀吉の中国攻めを開始します!天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正8年(1580年)8月織田信長の勘気を被り安藤守就が追放されます!!その後父重定は羽柴秀吉に仕え出します! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日父重定が羽柴秀吉配下で山崎の戦いに従軍します!!天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉配下で父重定が従軍します!! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに父重定が従軍します! 天正14年(1586年)7月より九州征伐が行われ父重定と一緒に従軍します! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)父重定が享年40歳位で死去します…そんで17歳で家督を継ぎ豊臣秀吉の直臣となり丹波国内に300石を拝領しますw天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!天正18年(1590年)小田原征伐が行われ従軍し活躍します! そんで戦後に豊臣秀吉より加増を受け馬廻衆として合計7千石を拝領しますw 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では名護屋城に在陣しますw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命令で享年28歳で切腹します…そんで小早川秀秋が秀次事件に連座し丹波国亀山から筑前国名島に移封されます…その際に小早川秀秋附の家臣に命じら鉄炮頭を務めます! さらに従五位下・主馬首に叙任し「豊臣姓」を拝領しますw 慶長元年(1596年)7月12月深夜に慶長伏見地震が起きます!!慶長2年(1597年)からの慶長の役では小早川秀秋に従い渡航し大活躍します!慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)1月29日小早川秀秋に従い帰国します!でも…朝鮮出兵時の不手際にて小早川秀秋が越前国北ノ庄に減封の上で移封されます… 慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)小早川秀秋の北ノ庄移封処分が取消され筑前国名島に復帰します!慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! この際に小早川秀秋は西軍に加担し伏見城攻め等に参加してるんです! 実はこの前後に既に東軍にも小早川秀秋は内通してたけど知らなかったんですよ… 慶長5年(1600年)9月14日関ヶ原を見下ろす松尾山に小早川軍1万5千が布陣! 慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!当初西軍有利の状況で戦いが進みます…
何度も西軍方より出撃の狼煙や使者が訪れますが…一向に小早川秀秋が出撃しません… 慶長5年(1600年)10月21日正午頃に徳川軍が小早川軍に向け発砲します! これを受けて鉄砲隊を前面に繰り出して小早川秀秋に徳川軍との応戦を進言しますが… 小早川秀秋は躊躇しながらも「大谷吉継」軍への総攻撃を命じるんです!! 「えっ!?」慶長5年(1600年)9月15日正午過ぎ小早川軍1万5千が大谷軍へ総攻撃します!!「太閤殿下の御恩を忘れたのか!?今更寝返ってどうなる!寝返りが悪いと言う訳じゃない…戦国の世の常だけど…この期に及んでの寝返り等卑怯極まりない!!寝返るんなら最初からどうして態度を明らかにしなかったんだー!!」 激怒して戦線を離脱して関ヶ原をあとにするんです!
そのすぐ後に脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱らも東軍に寝返り大谷隊へ攻撃!! 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に宇喜多・石田・小西等西軍主力が壊滅… 慶長5年(1600年)9月15日午後2時頃関ヶ原本戦は東軍が勝利します!そんで武装解除をして東軍に降伏し小早川家を出奔します…この一連の行為が『主家を裏切らなかった忠義者』として高評価を受けるんです!! 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長6年(1601年)柳川藩主田中吉政に1万2千石で松延城番家老として仕えますw慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長14年(1609年)2月18日田中吉政が享年62歳で死去します…慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月6日大久保長安事件が起きます!慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件が起き豊臣家家老片桐且元が追放されます!!この頃から大坂方より豊臣陣営から誘いを受けますが断固として拒否します! 慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…元和6年(1620年)8月7日田中忠政が享年36歳で死去します…跡継ぎがいなかったので柳川藩田中家は改易となります…そんで…元和6年(1620年)9月より徳川忠長の元に仕官しますw 元和9年(1623年)7月27日徳川家光が征夷大将軍に任官します!! 寛永元年(1624年)7月徳川忠長が駿府藩55万石を領有しますw 寛永8年(1631年)5月徳川忠長が甲府へ蟄居を命じられちゃうんです… 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永9年(1632年)10月20日徳川忠長が改易を命じられます!!そんで以降し細々と各地を流浪する暮しをするんですよ… 寛永14年(1637年)10月25日島原の乱が勃発します… 慶安4年(1651年)4月20日3代将軍徳川家光が享年48歳で死去します…慶安4年(1651年)7月慶安の変が起きます!明暦元年(1655年)に享年86歳位で陸奥国白河にて死去します…★☆★ちなみに…下画像は旧主小早川秀秋の肖像画で重元じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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田中吉官は近江国野洲藩の第2代目(最後)の藩主武田信玄の最後の戦い「野田城の戦い」で敵対した【菅沼定盈】の8男ですw関ヶ原直後【石田三成】を捕らえた【田中吉政】の3男吉興の養子ですw文禄2年(1593年)上野国阿保藩主菅沼定盈の8男として誕生しますwお母サンは松平家次の娘普厳院サンで最初は「定官(サダスケ)」と名乗ってましたw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命令で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長4年(1599年)3月10日石田三成は職を辞して佐和山城に戻り隠居します… 慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされ父定盈と次兄定仍が従軍します! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで父定盈が江戸城留守居役を務めます!! そんで次兄定仍は駿河国の興国寺城・駿府城や美濃国岐阜城の守備を務め本戦には参加してません! 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦いで東軍が勝利します!!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…慶長6年(1601年)6月次兄定仍が1万石加増の上で伊勢国長島藩2万石に移封されますw慶長7年(1602年)10月22日田峯菅沼氏当主の菅沼定利が享年48歳で死去します…これにより宗家である田峯菅沼氏が無嗣断絶で【改易】となります…慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長9年(1604年)7月18日父定盈が享年63歳で死去します…慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!!慶長10年(1605年)10月25日次兄定仍が京都で享年30歳で死去します…そんで6兄定芳が家督を継ぐんです!慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長15年(1610年)頃から2代将軍徳川秀忠の近習として仕え出しますw 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起こります…慶長18年(1613年)5月6日大久保長安事件が起こります!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)11月からの大坂の陣で幕府方として参陣し大活躍しますw 慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…元和6年(1620年)8月7日柳川藩主田中忠政が享年36歳で死去します…無嗣断絶で柳川藩田中氏は【改易】となるんですが…田中吉興により再興を許されます!!元和7年(1621年)6兄定芳が近江国膳所藩3万1千石に加増移封されますw 元和8年(1622年)8月2代将軍徳川秀忠の命令で野洲藩主田中吉興の娘婿となります! そんで「定官」から「吉官(ヨシスケ)」と改名し家督を相続し近江国野洲藩2万石を相続しますw そんで従五位下・主殿頭に叙任任官しますw 元和8年(1622年)9月小姓頭に昇進し順調に出世街道を歩き出したんだけど… 元和9年(1623年)7月27日徳川家光が征夷大将軍に任官します!! 元和9年(1623年)9月18日配下の三宅藤五郎が罪を犯して処罰されます!! そんで監督責任を問われちゃって連帯責任を負い所領を没収され【改易】となるんです… 寛永2年(1625年)赦免され蔵米2千俵を給され御書院番として復帰します! 寛永4年(1627年)大番頭に昇進し3千石を加増され合計5千石になりますw 寛永6年(1629年)5月6日義父田中吉興が享年47歳で死去します…寛永8年(1631年)子供(跡継ぎ)がいなかったんで6兄定芳の3男定房を養子にしますw寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永11年(1634年)6兄定芳が1万石加増され丹波国亀山藩4万1千石に移封されますw寛永12年(1635年)7月4日養子定房が享年5歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日島原の乱が勃発します…寛永16年(1639年)待望の長男が誕生しますw その時に…田中氏の通字「吉」を使用せず実家菅沼氏の「定」を使い「定格」と名付けますw 寛永19年(1642年)寛永の大飢饉が発生します! 寛永20年(1643年)1月17日6兄菅沼定芳が享年57歳で死去します…正保4年(1647年)9月21日甥菅沼定昭が享年23歳で死去します…そんで実家である亀山藩菅沼家(野田菅沼氏)が無嗣断絶で【改易】となるんです…慶安4年(1651年)4月20日3代将軍徳川家光が享年48歳で死去します…慶安4年(1651年)7月慶安の変が起きます!明暦4年(1658年)1月9日に享年59歳で死去します…その後子孫は…長男定格が2千石を加増され7千石の大身旗本となります!そんでその後を定格⇒定賢⇒定安と続きます!!でも…曾孫にあたる定安が乱心により【改易】となっちゃうんです…その後は一門の田中定堅が名跡を相続して以後500俵の直参旗本として存続したんです… ★☆★ちなみに…下画像は義祖父田中吉政の肖像画で吉官じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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通称は「茂助」って言うんですよw 永禄6年(1563年)三河一向一揆で父俊吉が徳川家康に反抗します!! 永禄7年(1564年)父俊吉が享年24歳で死去します…そんで急遽3歳で家督を継ぎますが…叔父俊信に引取られ厳しく養育されるんです!永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が享年53歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が享年49歳で死去します…この頃叔父俊信と一緒に徳川家康の家臣として仕え出しますwそんで徳川家康から駿河国葛谷に300石の所領を与えられるんですw ちなみに…同期に3歳年下の本多正純がいて年齢も近かったんで仲良しでしたw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴秀吉が勝利します!! 天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いに参陣します! 天正18年(1590年)小田原征伐後に徳川家康が関東に移封されます! そんで近江国城田・武蔵国入間・武蔵国多摩に合計1千石の所領を拝領するんです!! 智謀家だったんで徳川家康の信任を得て重用されるようになりますw 基本的に裏方に徹し表に出る事はなかったんで…超マイナーな徳川氏家臣だったんです! でも豊臣秀吉には高く評価され引き抜きの誘いを受けたりもしたんです!! 天正20年(1592年)から文禄の役で名護屋城に一時在陣します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)から慶長の役が起きます!慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)5月会津征伐が発動されます! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)7月25日小山評定が開かれ西上が決定します!!そんで西軍打倒に向け諸大名が陣を引き払い西上を開始するんです!!慶長5年(1600年)8月11日〜14日には東軍諸将が清洲城に着陣します!だけど… 福島正則や黒田長政ら豊臣恩顧の諸大名が清洲城に集結して家康の到着を待つけど… 一向に徳川家康は江戸に留まり出陣しなかったんですよ… 慶長5年(1600年)8月20日徳川家康の使者として清洲城に行くんです!! イライラしてた豊臣恩顧諸大名達が怒り狂って詰め寄って来るんです! 『何で内府(徳川家康)は出陣しないんだぁ!!』 これに対して冷静にこう言っちゃうんです… 『各々方が未だに出陣されないからですよ!だってここ清洲城は福島殿の居城ですよね?まさか篭城してるんじゃないでしょうね?上様(徳川家康)に味方するとか言っちゃって実際は待ち伏せしてる訳じゃないですよね?各々方が出陣して敵と戦い態度を明らかにしてくれれば上様(徳川家康)も出陣されるでしょう!』福島正則と黒田長政はこの発言にすぐに納得しちゃいます!そんでついに… 慶長5年(1600年)8月21日東軍諸将が清洲城より美濃国に侵攻します!! 慶長5年(1600年)8月23日東軍諸将が岐阜城を落城させます!! その後西上して来た徳川家康と合流します! 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いで徳川家康に従い本戦にも参加しますw 関ヶ原直後松尾山に本陣を置く小早川秀秋の陣に徳川家康の使者として訪れます! 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らが捕らえられます… そんで徳川家康の元に引き出される際3人に徳川家康より小袖がプレゼントされます! その小袖を3人に渡す担当になり「上様からのご配慮である」と其々に言うんです!
小西行長と安国寺恵瓊は「有難たい」と礼を述べ小袖を受け取るんだけど… 石田三成は「上様とは誰の事だ?」と質問して来るんですよ…そんで… 何気なしに「徳川内府様の事である」と答えた途端に石田三成が怒り狂って… 「愚か者!!上様とは豊臣秀頼公のみである!内府は貴様の主君に過ぎない!!小袖等いらぬ!持って帰れ!!」 仕方なく小袖を持って引き返すんですよ… 慶長5年(1600年)10月1日に石田三成が京都六条河原で享年41歳で斬首されます…慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… この頃本多親子が「本多派」を形成していきます! そんで大久保忠隣・大久保長安らが形成する「大久保派」と対立してくんです… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!! そんで徳川家康は駿府城に移り二元政治が始まるんですw 自らは本多正純と一緒に駿府の徳川家康に補佐として従います! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長13年(1608年)武蔵国内で4千石加増され1万石の大名になります! 慶長17年(1612年)12月22日駿府城が火災で焼失します!! 慶長18年(1613) 2月安藤重信と一緒に播磨国姫路に赴きます! そんで幼い池田利隆を補佐して国政を監督するんです!! 慶長18年(1613年)4月25日大久保長安が享年69歳で死去します…これを好機として本多親子が大久保派に攻勢をかけてくんです!慶長18年(1613年)5月6日大久保長安事件が起こります!慶長19年(1614年)大久保忠隣ら大久保派が失脚し本多親子が幕政を牛耳ります!この頃より体調を崩して寝込む事が多くなります… 慶長19年(1614年)1月15日に享年53歳で死去します…家督は次男吉勝が継ぐんだけど…武蔵国内の加増地4千石を没収され大身旗本となるんですw★☆★ちなみに…下画像は主君徳川家康の肖像画で直吉じゃないですw★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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