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永禄3年(1560年)頃に近江六角氏家臣駒井秀勝の長男として誕生しますw 永禄3年(1560年)六角義賢が浅井長政に野良田の戦いで大敗します… 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄6年(1563年)六角家内で観音寺騒動が勃発します!!これにより父秀勝を始め六角氏家臣団が当主六角義賢と対立します! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…この時に足利義輝の実弟一乗院門跡覚慶(後の足利義昭)が六角義賢の元に逃れて来て保護するけど…三好三人衆に室町幕府管領職等を条件に言い包められ六角義治は一乗院門跡覚慶を追放します!!
永禄10年(1567年)4月28日六角氏式目が制定され六角義賢に当主が代ります! 永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)織田信長が六角領内に侵攻します! 永禄11年(1568年)9月12日観音寺城の戦いで六角氏が大敗し滅亡します… これ以降父秀勝と一緒に織田信長家臣木下秀吉に召出され小姓として仕えます! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…元亀元年(1570年)越前征伐が開始されます!!天正元年(1573年)に木下秀吉が長浜城主となるんですw そんで「木下姓」⇒「羽柴姓」に改姓するんです…そんで… 羽柴秀吉は人材発掘に励み石田三成とか旧浅井家臣団等を多数登用します!! ちなみに…石田三成とは同じ位の年頃で仲良くしてたんですw 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正9年(1581年)鳥取城兵糧攻めに従軍します!!天正10年(1582年)5月8日から備中高松城攻めを従軍します!! この頃羽柴秀吉の馬廻衆として活躍してたんですが…官僚的な仕事も得意でした! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!この戦いで羽柴秀吉に従い出陣して活躍するんです!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方で従軍し活躍します! この頃政治調整能力が優れてる事を羽柴秀吉は高く評価してるんですよ! そんで要職である大津奉行・草津代官・矢橋代官に任命され歴任するんですw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでも羽柴方として活躍します! 天正13年(1585年)7月から四国征伐に出陣し活躍します!! 天正13年(1585年)これ迄の政治手腕を評価され羽柴秀次附の家臣となりますw そんで羽柴秀次の蔵入地の管理や右筆も務め才能を発揮するんです! 天正14年(1586年)12月25日に豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に豊臣秀次配下として参陣します!! 天正19年(1591年)9月1日豊臣秀次に従い九戸の乱に従軍し活躍します!! 天正19年(1591年)12月豊臣秀次が関白に就任しますw この時に従五位下・中務少輔に叙任任官しますw 天正20年(1592年)から文禄の役が開始されます! 元々筆まめで…この頃から書き続けた日記は「駒井日記」として有名で歴史的価値がある資料です!文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw この頃に高く評価してくれた豊臣秀吉に引き抜かれ直臣として仕えます! そんで豊後国大野・直入・大分・海士辺郡内2万5千石を拝領するんですw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命令で享年28歳で切腹します…この時…既に豊臣秀吉の直臣となってたんで連座を免れるんです!!慶長元年(1596年)伊勢国安芸郡1千石の加増を受けてます! そんで越前国内の検地奉行等も務めるんですよ! この頃「武将」というより「文官」として活躍し必然的に石田三成らと親しくなります… 慶長2年(1597年)から慶長の役が起き名護屋城に一時在陣します! 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日醍醐の花見が催されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! そんで伏見城の戦いに従軍し活躍してます! そんで西軍加担を理由に一命は助けられ【改易】となるんです… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長7年(1602年)に許されて前田利長に仕えるんですwこの時に前田家客将だった高山右近と知り合い意気投合しますw 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城を追放されます…再三豊臣方から大坂城入りを誘われるけど前田家仕官済を理由に拒否します! 慶長19年(1614年)5月20日前田利長が享年53歳で死去します…慶長19年(1614年)8月高山右近がキリシタン追放令を受けて国外へ退去します…慶長19年(1614年)11月大坂の陣が勃発します!!慶長20年(1615年)1月8日高山右近がフィリピンにて享年64歳で死去します…慶長20年(1615年)5月前田利常に従い真田丸の戦いで活躍します!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します… 元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永12年(1635年)に加賀にて享年75歳位で死去します…その後子孫は加賀藩士として存続するんですw★☆★ちなみに…下画像は豊臣秀次の肖像画で重勝じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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お母サンは5代目秋月藩主黒田長邦の娘此子サンですw 安永3年(1774年)11月18日伯父6代目秋月藩主黒田長恵が享年21歳で死去します…この時伯父長恵には跡継ぎがいなかったんで…秋月藩は【改易】の危機に立ちます!!そんで急遽末期養子として幕府に届けられ許可され4歳で家督を継ぐんですw 重臣達はひと安心し今迄通り重臣達が藩政を代行してたんですw でも元々生まれながら虚弱体質だったんで寝込む事が多かったんですよ… 安永7年(1778年)に浅間山が噴火を起します!! 天明3年(1783年)3月12日に陸奥国の岩木山が噴火します… 天明3年(1783年)7月6日には浅間山が大噴火を起すんです!! この時点で将軍拝謁もまだ済んでなかったよぉ… それにまだ結婚もしてなかったんで勿論子供(跡継ぎ)もいなかったんです… だから幕府が養子縁組を許可する見込みはなく秋月藩黒田家は【無嗣断絶】となります…重臣達は「この死」を隠し福岡藩黒田宗家に「何とかならないか?」と泣きつくんですよ!!そんである計画が生まれたんです!!それは… 義曽祖父である4代目藩主黒田長貞の娘サンが正二位権大納言唐橋存家と結婚してました! その3男豊煕を長堅の身代わりにするって計画だったんです!! 将軍拝謁前だし誰も気がつかないって事だったんですが…バレた時の事を考え中止になります!
天明4年(1784年)3月24日江戸城内にて田沼意知が旗本佐野政言に襲撃されます!! この頃幕府内は田沼意次派と松平定信派の権力闘争でドタバタしてたんですよ!! だから外様の支藩の事なんて正直幕閣達の眼中には無かったんです… 再び討議は振り出しに戻って別の計画が生まれたんです!!それは… 「この死」を隠し通して幕府に隠居願いを提出し養子を迎える… そんで幕府の許可が出たところで「この死」を公表するって計画だったんです! 義曽祖父である4代目藩主黒田長邦の外孫にあたる高鍋藩主秋月種茂の次男長舒(ナガノブ)を養子に迎えたい旨を重臣達は幕府に届出ます!それと並行して長堅自身は重病で歩く事もままならず将軍拝謁も出来ない状況だと申告してるんですよ!さらに…福岡藩黒田宗家を継いだ黒田斉隆はまだ8歳と幼かったんで補佐出来る人材が急ぎ必要でもあったんです!重臣達は田沼派の幕閣等いろいろなところに働き掛けて頑張ります! 天明5年(1785年)3月1日幕府の許可が下り長舒が24歳で養嗣子となりますw 重臣達は大喜びしたんですよwそんで早速… 天明5年(1785年)3月17日長堅が隠居した事にして… 養嗣子黒田長舒が即日秋月藩黒田家の家督を相続するんです! その後養嗣子長舒は福岡藩黒田宗家の補佐役となり長崎警備等も務めてるんです! その後…秋月藩黒田家はトータル12代続き明治維新を迎えるんですw ちなみに…【改易】はされてないけど…一時的でも「無嗣断絶」したので今回記事にしてみましたwそんでもって…この一件は以後前例となり秋月藩黒田家は若くして亡くなる藩主が多く藩主の死を隠したり…死亡日をズラす事が頻繁に行われたんですよ!
★☆★ちなみに…下画像は藩祖黒田長興の肖像画で長堅じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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武田信玄を描いた小説などでやられ役として登場する信濃守護小笠原長時。たしかに小笠原氏は信濃守護でありながら強固な支配権を築いたわけでもなく、同族が争い大塔合戦で信濃国人連合との合戦で大敗したことで衰退し、塩尻峠で武田軍に完敗したことで一時滅亡しました。
しかし甲斐源氏の名門で鎌倉以来信濃に勢力を張った一族であるのは事実。調べていくと小笠原氏は不運が重なって守護から守護大名に成長できなかった面もありました。私はこういう味のある一族が大好きだったりし
ます(笑)。
小笠原氏は、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのに始まるそうです。甲斐源氏の嫡流は武田氏ですが、小笠原氏も庶流でありながら鎌倉初期にうまく立ち回り甲斐源氏の中でも有力な一族になりました。
ちなみに小笠原初代長清の弟、光行が陸奥南部氏の祖です。
鎌倉初期小笠原氏は源氏の名門として頼朝に推挙されて1185年信濃守に補されるなど有力な一族でした。しかし頼朝の死後比企氏に接近したことから、比企の乱に巻き込まれ一時没落します。
承久の変で長清・長経父子が戦功をあげ阿波守護の地位を得るものの本拠地信濃の守護は北条氏に独占され逼塞を余儀なくされました。
信濃小笠原一族が再び興隆するのは南北朝時代です。小笠原氏の惣領宗長は足利尊氏の誘いで足利方に転じ1335年信濃守護に任ぜられました。ところが北条方の多い信濃では、中先代の乱で守護所を北条方の諏訪氏に攻撃されるなど散々でした。
南朝勢力も南信濃を中心に活動するなど小笠原氏の統治は困難を極めました。1355年桔梗ヶ原の合戦でようやく南朝方を撃破、これを機に南朝勢力は衰退し小笠原氏の信濃支配が固まることになります。
そして1400年信濃守護に任命された小笠原長秀が、信濃に入国した時に事件が起こります。当時バサラ大名として有名だった長秀は善光寺で国人たちと対面した時非常に無礼で横柄な態度をとったそうです。
京の都では良くても信濃のような田舎でもそれが通用すると思った長秀ば愚かでした。もともと心から小笠原氏に信服していたわけではない国人たちは当然烈火のごとく怒ります。
長秀が川中島で強引に年貢を取り立てようとしたのがきっかけで、村上氏、仁科氏、海野氏、高梨氏などおもだった国人が連合(大文字一揆)して守護小笠原氏に対して立ち上がりました。守護方に付いたのは信濃南部の国人のみ。両軍は善光寺平南部で激突します。いわゆる大塔合戦です。
守護方は800騎、対して連合軍は3000騎とされますから劣勢は明らかでした。当然守護方が大敗、守護代大井氏の仲裁で辛くも窮地を脱し、長秀は京に逃げ帰ってしまいます。
長秀はこの失態で信濃守護を罷免されました。あまりにも愚かな失敗でした。1416年上杉禅秀の乱で功を上げたことにより長秀の弟政康が信濃守護に返り咲きますが、信濃は国人勢力が台頭しかつてのような強力な支配は築けませんでした。
小笠原氏は惣領の地位を巡って一族で相争います。そしてそのまま戦国時代に突入。その後はご存知の通り。隣国甲斐の武田信玄の侵略を受け1548年塩尻峠の合戦で大敗、時の信濃守護小笠原長時は本拠林城を追われ村上氏を頼ります。しかし村上氏も武田氏に滅ぼされたため最後は京都に逃げました。
ここに信濃守護、小笠原氏は一時滅亡するのですが、長時の三男貞慶が織田信長、次いで徳川家康に仕えたことから再び運が向いてきます。
1582年本能寺の変後の混乱を受けて徳川軍が信濃侵攻した時に同行、悲願の府中回復を果たしました。長時は息子の府中回復を見届けて死にます。貞慶の子秀政が1590年下総古河三万石を与えられたのを皮切りに徳川家の譜代大名となり秀政の次男忠真が豊前小倉十五万石に封じられたのをはじめ子孫が多くの大名になっています。
何度も滅亡の危機にありながら不死鳥のごとく蘇ってきた小笠原一族。考えてみれば不思議な一族です。ただ小笠原氏は父祖の地である信濃復帰を最後まで望んでいたそうですが、さすがにこれだけは許されなかったようです。一時的には信濃松本城主になっているんですけどね(笑)。
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足利一門の名家吉良氏。「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われながら本拠三河の守護でさえ定着せず、興隆する他の一門を眺めながら緩やかな衰退の道を辿りました。
しかし吉良氏とて決してチャンスがなかったのではありません。信濃守護にもなっているし、奥州探題として一時は絶頂期さえ迎えているのです。それでも守護大名として成長しなかったのは歴代当主が凡庸だったのでしょう。運もあったと思います。
ところで吉良氏はちょっと複雑で、通常吉良氏の初代と言えば足利義氏の庶長子、長氏ですが義氏の四男義継も同じ吉良庄を貰って吉良氏を名乗っています。吉良氏は発祥当時から長氏流と義継流のニ家があったわけです。
なぜこうなったかと言うと吉良庄自体がもともと西条、東条と二つに分かれていたので西条庄を長氏が、東条庄を義継が賜ったというわけです。
ただ長氏の四代後の満貞の時代、弟の尊義が東条吉良庄を横領し勝手に東条吉良氏を名乗ったので義継流はそれと区別するために任地の名を取って奥州吉良氏と呼ばれました。
ちなみにどうでもよいことですが、上の系図は間違っています。斯波氏の初代家氏は足利泰氏の子です。
ですから奥州吉良氏と三河吉良氏を同族扱いするのはやや抵抗があるのですが(苦笑)、同じ吉良なのでまあ良しとしましょう(笑)。
大飛躍する可能性があったのは奥州吉良氏のほうでした。義継の曾孫、貞家は1345年畠山国氏とともに奥州管領に任命され下向します。貞氏は畠山国氏とともに奥州を鎮定し一応足利幕府の統制化に置きます。
ところが1350年、観応の擾乱が起こると貞家は東国で優勢だった足利直義派に付き、尊氏派に残った畠山国氏を高師直一派討伐という名目で攻撃します。不意を討たれた畠山一族が一時滅亡したことは前回書きました。
せっかく静まっていた奥州でしたが、足利幕府内の内紛でガタガタになったところを南朝の北畠顕信(北畠親房の次男。顕家の弟)に衝かれ国府(多賀城)を奪われるという失態を演じました。
間もなく奪回には成功したのですが、1353年死亡。子の満家が奥州管領職を世襲します。中央での混乱が収まると、幕府は吉良氏に奥州を任せることに不安を感じ、新たに斯波家兼を奥州管領に任じ下向させました。
石塔義憲もこれに前後して奥州に赴任していたため、吉良、畠山(国氏の孫国詮)、斯波、石塔と互いに奥州管領を称する足利一門四家が並立するいわゆる奥州四大将時代が到来します。
しかし次第に斯波氏が優位に立ち、他の三家を圧倒するようになって行きます。陸奥大崎五郡を中心に支配を固めたので以後家兼の子孫は大崎氏を名乗りました。
奥州吉良氏は満家の死後、子の持家が後を継ぎますが幼少のため後見人を巡って大叔父貞経(貞家の弟)と叔父治家(満家の弟)が争い、斜陽の家がますます衰えていくようになります。
一時は事態を憂慮した幕府から、治家に追討軍が送られるまでになったのですが、これは治家が吉良氏の勢力拡大を目指して将軍足利義詮に謀反を起こしたからだとも言われています。1367年追討軍の大将結城顕朝の軍に敗れた治家は没落し、奥州吉良家の勢力はほとんど失われました。
このままでは歴史に埋もれて消えていく運命にあった奥州吉良氏でしたが、捨てる神あれば拾う神ありで、鎌倉公方足利基氏に1390年治家が招かれ上野国飽間郷に領地を与えられたことで滅亡を免れます。
奥州吉良氏は、「鎌倉公方の御一家」ということで別格の扱いを受け 「足利御一家衆」「無御盃衆」と呼ばれて優遇されました。
この世田谷吉良氏は、山内、扇谷両上杉の争い、北条氏の侵略を上手く泳ぎ切ります。驚くことに北条氏は一度も吉良氏を攻撃したふしがないのです。むしろ姻戚関係を結ぶことで取り込もうとしました。世田谷吉良氏がそれなりに権威を有していた証拠かもしれません。
北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入ると世田谷吉良氏は家格の高さから家康に召しだされ蒔田氏として高家に取り立てられます。
江戸時代有名な元禄赤穂事件が起こると三河吉良氏が断絶したのを受けて吉良氏に復姓しました。以後幕末まで続きます。
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父義昭には正室がいなかったんで『嫡子』とされ将軍世継として育てられたんです! この頃…父義昭と織田信長の対立が激化して来るんです!そんで武田・上杉・浅井・朝倉・石山本願寺・三好等の有力諸大名・諸勢力に対して信長討伐令発布します!これが「第一次信長包囲網」なんです!元亀3年(1572年)9月武田信玄が2万7千の兵をもって上洛開始! 元亀3年(1572年)10月1日織田信長が父義昭に「17条の意見状」を提出します!! 元亀3年(1572年)12月22日武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川軍を撃破します! 元亀3年(1572年)12月突然織田軍と対峙してた朝倉軍が北近江より撤退します… 元亀4年(1573年)1月織田信長が父義昭に和睦を申し入れるけど拒否します! その後も父義昭は織田信長に抵抗するけど… 幕臣細川藤孝や荒木村重らが織田信長側に寝返るんです… 元亀4年(1573年)4月5日父義昭が勅命により織田信長と和議を結びます… 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!!天正元年(1573年)7月3日父義昭が和議は破棄し織田信長に対し挙兵します! そんで山城国槙島城に立て籠もるんです!でも…織田信長の猛攻により… 天正元年(1573年)7月18日父義昭は織田信長に降伏するんです… そんでその際に人質として織田信長の元に送られるんです… 織田信長の命令ですぐ出家させられ興福寺大乗院に入れられちゃうんです… 父義昭は京都を追放され三好義継の元に引越したんです… ここで再び諸大名・諸勢力に信長討伐令発布し「第二次信長包囲網」を形成します! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正8年(1580年)閏3月石山本願寺が織田信長に全面降伏します…これによって事実上「第二次信長包囲網」は崩壊します… でも父義昭は懲りずに諸大名・諸勢力や織田家臣団らに対して信長討伐令発布し続けます!! 天正10年(1582年)3月羽柴秀吉が備中攻めを開始します!! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月4日羽柴秀吉と小早川隆景が和睦しますw天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起きます! 天正12年(1584年)羽柴家と毛利家が正式に和睦しますw そんで父義昭は再び流浪の生活を送るんです… 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます! この頃羽柴秀吉が父義昭に「養子にしてほしい」と言って来ますが…拒否してます!狙いは「征夷大将軍職」だったんですよ…それをわかってたからこそ断固拒否ったんです!天正13年(1585年)7月四国征伐が行われます!! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)から九州征伐が行われますw その後父義昭は出家し「昌山」と号し朝廷から准三后の待遇を受けたんですw この頃…大乗院門跡になっててその後「興福寺大僧正」に迄なってますw 天正18年(1590年)小田原征伐・奥羽征伐が行われ豊臣秀吉が天下統一します!! この頃に父義昭は豊臣秀吉の御伽衆となり山城国槇島1万石を拝領するんですw 天正20年(1592年)から文禄の役で父義昭は豊臣秀吉に従い名護屋城に在陣します! その際200人の藩兵を率いての参陣だったんです! 慶長2年(1597年)からの慶長の役でも父義昭は名護屋城に在陣します! でも…父義昭は体調を崩す事が多くなり父義昭の要請で還俗して「高山」と号したんです! でも…利用される事を避ける為に常に中立の立場を取ってたんです! そんで徳川家康に謁見して「不要」との理由で山城国槙島1万石を返納します! 東西両軍から味方要請の使者が来ますが…全て拒否し最後迄中立を貫きます!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いで東軍が勝利します!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…慶長6年(1601年)長男義尊が誕生しますwでも…自身の経験から政争に巻き込まれぬように実相院に預け出家させます! 慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 慶長8年(1603年)次男常尊が誕生しますw でも…長男義尊と同じように円満院に預け出家させます! この頃から体調を崩し寝込む事が多くなります… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長10年(1605年)4月13日に豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! その後…奥サンの胤子は後陽成天皇の後宮(側室)となってるんですよ!そんで明暦4年(1658年)6月27日に享年73歳で死去します…2人の息子はその後も僧籍を離れずともに大僧正となって一生を終えるんです…ちなみに寛文11年(1671年)に次男常尊が亡くなった時点で足利氏嫡流は断絶となります!
★☆★ちなみに…下画像は父足利義昭の肖像画で義尋じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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