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義純は、新田義兼の娘と結婚し子まで成していましたがそれを義絶しての婚姻でした。ちなみにこの時義絶された子から岩松・田中氏が出ています。
名族畠山氏の名跡を継いだので、義純の子孫は足利一門の内でも斯波氏に次ぐ家格を与えられました。
もともとの嫡流は、三代時国の長子高国でした。高国は伊勢守護をはじめ幕府要職を歴任し1346年には吉良貞家とともに奥州探題にも補された実力者です。しかし観応の擾乱で直義派についた吉良貞家の攻撃を受け岩切城の合戦で敗北、一族郎党ともども自害して果てます。
国氏(高国の嫡子)の子大石丸だけが逃れて安達太良山に隠れ住んで生き伸びました。のち遺臣らに担がれお家を再興、一族の敵吉良氏と新たに奥州に下向した斯波氏の連合軍に再び敗れ最後は二本松に落ち着きます。これが後に伊達氏に苛めぬかれ義継が伊達輝宗を拉致し、政宗に鉄砲で撃ち殺される二本松畠山氏になりました。
これを見ると吉良氏も結構奥州で頑張っていたようですが、その後奥州においては勢力を失いました。
高国一族が滅んだので、弟貞国系に嫡流が移り貞国の孫国清の時代には関東管領として東国で絶大な権勢を誇るようになります。しかし鎌倉公方足利基氏と対立、同僚の関東武士団からも罷免要求が出されるほど嫌われて、伊豆で挙兵しますが敗北殺されてしまいます。
畠山氏はこれまでの功績で河内、和泉、紀伊、越中の守護に任じられていました。幕府もこれを滅ぼすことはできず国清の弟義深に家督を継がせます。この家系は歴代衛門督や衛門佐の官位を世襲しましたから衛門督の唐名執金吾から、畠山金吾家と呼ばれました。
義深の子基国は、足利三代将軍義満に仕え明徳の乱応永の乱で功を立て将軍の深い信頼を勝ち取ります。功により能登守護も獲得、次男満則(満慶みつのり)に受け継がれました(能登畠山氏)。
一方、基国は斯波武衛家、細川京兆家が対立するなかで第三の勢力として台頭、両家の牽制の意味もあって初めて幕府管領に任じられます。これにより畠山金吾家は斯波武衛家、細川京兆家とともに三管領家の一つとして幕府に重きをなす家柄となりました。
河内、紀伊の守護(和泉国は途中で細川氏に奪われる)を世襲し、河内高屋城を中心に支配を固めました。
基国、満家、持国の頃が畠山金吾家の絶頂期だったかもしれません。持国には子がなく、甥の政長を養子にして跡を継がせるように決めていました。ところが側室との間に実子義就が生まれたためお決まりのお家騒動が起こります。
実は義就の母は当時の高級娼婦だったとも言われ、他に小笠原政康や飛騨江間氏との間にも子を産んでいます。このことから持国の実子だったどうかも疑われ、畠山家中を二分するほどの大紛争になりました。
当時の室町政界の実力者、管領細川勝元は政長を、山名宗全は義就を支援しこれがのちの応仁の乱に発展します。
嫡流畠山金吾家ですが、それぞれの官職から尾州家(政長・尾張守)総州家(義就・上総介)と呼ばれるようになりました。
応仁の乱の間、両者は山城や河内で激しく戦います。一時は1447年持国の死を受けて義就が家督を継ぎましたが、次第に政長方が盛り返し1490年義就の死とともに衰退。一時は息子の義豊が河内守護にもなりますが、政長の子尚順の反撃で1499年戦死、孫の義英の代には完全に管領細川政元の傀儡と化しました。
1532年総州家四代義堯の代に細川晴元、尾州家畠山稙長、義堯の元重臣木沢長政の連合軍に敗北、木沢長政の居城飯盛山城攻撃中に長政支援に現れた一向一揆と戦って敗れ自刃、応仁の乱以来の畠山宗家を二分した争いは総州家の滅亡により終わりました。
一方、尾州家ですが政長が一時管領に就任していたことが大きかったのかもしれません。ただ政長自身は政敵細川政元との争いに敗れ明応の政変で河内国正覚寺城を包囲され自刃しています。
尾州家は政長の嫡子、尚順(ひさのり)が継ぎました。尚の字で分かる通り将軍足利義尚の一字を拝領して元服するなどライバル総州家と決定的な差が付いていました。世間でも政長系の尾州家を畠山嫡流と認めていたのでしょう。
一時は細川政元のクーデターで紀伊に逃亡しますが、この地で力を蓄え1497年河内奪回の兵を挙げます。1499年には高屋城を奪い、十七箇所城に逃れた総州家義豊を殺しました。
1504年には細川政元に対抗するためなんと宿敵総州家義英と和睦、1506年政元の軍勢と戦いますが敗北一時没落します。
中央の混乱で将軍職を追われていた足利義稙を奉じ1507年周防の大内義興が上洛するとこれに通じ勢力を回復、1515年家督を嫡男の稙長に譲ると以後は領国の統治に専念しました。
稙長の代に総州家義堯を討ってやっと悲願の河内統一を達成するも、その支配は細川、三好の争いに巻き込まれ不安定なものでした。
稙長の後、政国、高政と続きますが河内・紀伊の領国を維持するのが精一杯でしかもその支配も安定を欠き三好長慶の侵略を受け続けます。
本国河内を三好勢に追い出される苦境にも陥りますが、近江の六角氏と結び逆襲、1562年の久米田合戦で長慶の弟、義賢を敗死させ高屋城を奪還しました。しかし続く教興寺合戦で敗れ河内を失い紀伊に逃げ込みます。
以後畠山氏は振るわず、三好義継(長慶の養子)と和睦、織田信長に従いますが重臣の遊佐信教に河内を追放され、高政は1576年失意のうちに死去しました。晩年はキリスト教に救いを求めていたとか。享年50歳。
ここに管領畠山氏は滅亡しました。高政の弟政尚の子貞政はのちに秀吉に従い、最後は徳川家で高家として残ったそうです。
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細川氏は早くから分かれたため決して家格は高いとは言えず、例えば足利一門で最も家格の高い斯波氏などからは家来扱いでした。南北朝時代の斯波氏の当主高経が将軍から管領就任を要請されたとき「管領といえども足利家の家来にすぎない。細川などと同列に扱われてたまるか」と断ったという有名なエピソードがあります。
斯波氏のプライドの高さには呆れるばかりですが、例に出された細川氏にとってはたまったものではありません(苦笑)。だからといって細川氏が斯波氏に復讐したという話は聞かないので、一門の中でもそういうものだと思われていたのでしょう。ただし細川頼之と高経の子義将は政敵でしたが…(苦笑)。
細川家が足利幕府で権勢をふるうようになったのは、家格ではなく一族の献身的奉仕が理由でした。公頼の子、和氏・頼春と頼貞の子顕氏・定禅(じょうぜん)は足利尊氏を助けて各地を転戦します。
尊氏が奥州から攻めのぼった北畠顕家に敗れ九州に落ちると、和氏、顕氏は尊氏の命で四国に渡ります。二人は四国の兵をまとめ、九州から捲土重来した尊氏の軍と合流、湊川合戦勝利に大きく貢献しました。
幕府が成立すると、この功により細川一族は各地の守護に任じられます。嫡流の和氏が引付頭人、ついで侍所頭人そして初代阿波守護に任じられたのをはじめ、弟の頼春は阿波、備後守護、その下の弟師氏は淡路守護に、従兄弟の顕氏は讃岐・河内・和泉三カ国の守護、その弟定禅は土佐守護と実に一族で7カ国もの守護を兼ねる大勢力になりました。
しかし1350年尊氏の執事高師直と弟足利直義の対立から尊氏・直義の兄弟対立に発展した観応の擾乱が起こると、細川氏も安泰ではいられなくなります。和氏は1342年47歳で急死、嫡子の清氏が後を継いでいました。
清氏、頼春らが尊氏方に付く中、顕氏は直義派につき、再び尊氏方に帰順するなど目まぐるしく動きます。1352年南朝方の攻撃で京が失陥すると将軍足利義詮を奉じて撤退しますが、このとき頼春は戦死しました。
再び足利方が京を奪還した事を見届けて顕氏は1352年7月病死。顕氏の系統は陸奥守の官位から奥州家と呼ばれました。
細川一族の有力者が次々と戦死、病死するなか次第に権力は清氏に集まってきます。1358年管領(当時は執事)に任じられた清氏でしたが、その強引な施策から政敵も多く讒言を受けて失脚します。清氏は本拠の四国へ下ると腹いせとばかり南朝に帰順、従兄弟の頼之(頼春の嫡子)が阿波守護として現地にいたためこれを攻撃、公然と幕府に反旗を翻しました。
清氏には讃岐(塩飽)水軍なども味方に付いてたため、頼之は苦戦しますが激戦のすえこれを撃破、清氏を滅ぼしました。
こうして権力は生き残った頼之のもとに集まります。清氏に代わって頼之が嫡流となったのです。頼之の正室が三代将軍義満の乳母になったことも大きかったともいます。
細川頼之は二代将軍義詮の絶大な信頼を受け、遺言により三代義満が将軍に就任すると管領になってこれを補佐しました。頼之は名管領として南北朝合一に力を尽くし、途中政敵による失脚もありましたが細川家の権力を確立します。頼之には子がなかったため弟の頼元が後を継ぎました。
頼元の家系は、代々細川家嫡流として摂津・丹波の守護を持ち管領を歴任したことから細川京兆家と呼ばれるようになります。これは世襲の官位右京大夫の唐名「京兆尹」からきています。
頼元から数えて四代後が有名な細川勝元です。応仁の乱では東軍の総大将として舅の山名宗全と日本を二分する大戦争を戦います。これで幕府権力は地に落ち戦国時代が始まったといわれます。
この養子三人が家督を争い、政元自身もそれに巻き込まれて1507年殺されました。
その後、澄元が澄之を討ち管領になりますが、政元に追放されていた前将軍義尹(義稙)が1507年周防の大内義興の支援を受けて上洛してくると、高国はこれと結び、澄元と将軍足利義澄は近江に逃れました。
大内、高国と澄元は戦い続けますが1518年大内義興が帰国するとついに京都を奪回、高国を近江に追放して再び管領に返り咲きました。しかしまもなく高国の反撃を受け、政権は崩壊、家宰の三好之長は捕えられて処刑され、自身も播磨、そして本拠地の四国阿波に逃亡します。1520年澄元は阿波勝瑞城で失意のうちに病死しました。享年32歳。
澄元の死後嫡子の晴元が継ぎます。三好之長の孫三好元長とともに再び畿内へ進出、高国を討ちますが高国の子氏綱と争っているうちに、元長の子三好長慶が氏綱方に付いたため敗北、勢力を失い最後は出家して摂津普門寺に隠棲したそうです。
晴元の嫡子、昭元はすっかり没落し、信長、秀吉に近臣として仕えます。秀吉のもとでは山名豊国、斯波義銀とともに没落した元名門としてお伽衆になったそうです。1592年病没。子孫は三春藩秋田家に仕え家老として続きます。
庶流の細川藤孝(頼之の弟頼有の子孫)、忠興が織田・豊臣・徳川政権を上手く泳ぎ切り最後は肥後54万石の大封を得たのと比べるとあまりにもさびしい晩年でした。
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鎌倉、室町時代を通じて美濃(現在の岐阜県)に勢力をはり、室町時代には美濃守護として幕府に重きをなした土岐氏。その末期には権臣斉藤道三に乗っ取られます。
土岐氏はどのようにして誕生し、滅んだのでしょうか?私はややマイナーながらこの一族に興味を覚えました。
土岐氏は、酒呑童子伝説で有名な摂津源氏源頼光五世の子孫、光信が美濃国土岐郡土岐郷に居住して土岐氏を名乗ったのが始まりとされます。
鎌倉初期の当主、光衝は源頼朝に協力し御家人となります。土岐氏は鎌倉時代には美濃守護にはなりませんでしたが、この地に勢力を扶植したのは間違いないでしょう。
そして鎌倉末期、土岐一族はいち早く後醍醐天皇と通じ幕府に謀反を起こしますが六波羅探題の攻撃で敗れます。しかしまもなく足利尊氏、新田義貞らの活躍で幕府が倒されたため、土岐氏は生き残ることができ、足利方の有力武将として美濃守護に任じられます。
南北朝初期の当主が、バサラ大名で有名な土岐頼遠です。足利将軍家を助け大功を上げたためか、驕慢で傍若無人な振る舞いが多かったそうです。同じバサラ大名でも佐々木道誉と決定的に違っていたのは、道誉がバサラをあくまでポーズとして取っていたのに対し、彼は本気でバサラを貫いたところです。
頼遠のバサラがある日決定的な事件を起こしました。ある時光厳上皇の牛車に出会った頼遠は道を譲らなかったばかりか、酒に酔った勢いもあってあろうことか弓を射かけたのです。
さすがにこれは幕府も見逃すことはできませんでした。激怒した尊氏の弟直義は、1342年頼遠を逮捕し六条河原で処刑します。
美濃守護職は、頼遠の甥、頼康が継ぎました。三代将軍義満の時代になると、彼の有力守護圧迫政策のあおりを受けて土岐康行が謀反を起こしますが、これも簡単に鎮圧されました。
守護は、叔父の頼忠に持って行かれ、以後彼の子孫が土岐氏の嫡流となります。
応仁の乱に入ると、美濃守護土岐家は守護代斉藤妙椿(みょうちん)が力をつけ、守護家を凌ぐようになります。斉藤氏は美濃目代として越前から移り住んだ一族ですが、土岐家の守護代として美濃国内で勢力を扶植し妙椿の時代についに力関係が逆転します。
このあたり越前の斯波氏・朝倉氏の関係とそっくりですが、妙椿の死後斉藤氏は家督争いを繰り返すうちに衰え、かろうじて土岐家は守護として存続しました。
斉藤氏が衰えるにつれ、その家宰であった長井氏が台頭し美濃は下剋上の風潮が蔓延します。戦国時代、この長井氏のもとに一人の男が流れ着きました。油商人とも浪人とも称する怪しげな男でしたが、持ち前の才覚で長井氏の信任を得、まず家臣の西村氏の名跡を継いで西村勘九郎、次いで長井氏から名字を貰い長井新九郎と名乗りました。
これが下剋上の代表ともいうべき斉藤道三の若き日の姿ですが、最近の研究では彼一代の成果ではなく親子二代で成し遂げた美濃乗っ取りだったといわれています。
当記事では、あえて道三一人の業績として記しますが、長井氏は新九郎の異才に驚き守護家の部屋住み頼芸(よりあき)に推挙しました。新九郎は巧みに頼芸に取り入り、本来なら守護になれない主君を謀略の限りを尽くして美濃守護職につけます。
こうして頼芸は守護であった兄政頼を追放し美濃を奪いました。この時には長井新九郎は名門斉藤氏を継いで斉藤新九郎利政となっていました。だいたい1539年ころの話だといいます。翌1540年には居城として有名な稲葉山城を築きます。
利政の野望はここに止まるはずもありません。傀儡政権としての価値もなくなった美濃守護土岐頼芸は1552年ついに追放されました。ここに美濃守護家土岐氏は滅びます。利政は出家して道三と名乗ります。有名な斉藤道三の誕生でした。
頼芸は各地を放浪したそうですが、その子頼次が秀吉、家康に仕え旗本として残りました。
斉藤道三とその子義龍、織田信長の間には面白いエピソードもあるんですが史実かどうか自信がないのでここでは紹介しません。詳しくは司馬遼太郎『国盗り物語』を見てね!(笑)
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幼名は「十二郎」なんですよw 慶長11年(1606年)父頼久が幕命で駿府城石垣普請工事を務めます! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)父頼久が享年39歳で死去します…この時まだ5歳でした…祖父豊盛は大坂の役を控えた難局を5歳の当主で乗り切る事は難しいと判断します!! 慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長20年(1615年)5月幕府・豊臣の和議が破談となり大坂夏の陣が勃発! その後祖父豊盛は駿府城に常駐し徳川家康の元に出仕しますw 元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…その後祖父豊盛は江戸に戻り2代将軍徳川秀忠の御伽衆となるんですw元和5年(1619年)祖父豊盛が幕命で京都知恩院の普請奉行を務めますw 元和5年(1619年)10月に福島正則が改易されます! 元和6年(1620年)祖父豊盛が京都にて享年67歳で死去します…そんで15歳で元服し従五位下・主膳正に叙任し「豊嗣」と名乗り家督を相続しますwこの頃に直臣の大身旗本松平勝政の娘サンと結婚しますw 元和8年(1622年)8月に山形藩最上家が改易されます… 元和9年(1623年)に本多正純が改易となります! 寛永4年(1627年)7千石を加増されとなり合計1万3千石の大名になりますw そんで陣屋を清富に新築し芦屋から引越しますw でも…実際は江戸に定住し陣屋には代官を4人前後派遣して管理させたんです! さらに岸田川改修の大工事をして耕地の拡大を計り清富陣屋の内堀と外堀を兼ねる工夫もしますw城下を区画整理し直して城下町整備を行いつつ改めて検地を実施してさらに4500石の耕地を!!結局清富藩は実高1万7千石以上もあったんですw
さらに領内の各村落の自立を促したり「奉楞巌寺古文書」保護に尽力するんですw まさに『名君』だったんですよ! 3代将軍徳川家光の信頼も厚く元外様ながら将来を有望視されてたんですw 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永9年(1632年)5月22日加藤忠廣が改易になります…寛永12年(1635年)6月10日義父松平勝政が享年63歳で死去します…寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します!寛永16年(1639年)祖父豊盛が再建した銀閣寺の修理普請工事に務めます! そんで修復が済んだ銀閣寺にて父頼久の33回忌法要を執り行なうんです… 寛永17年(1640年)7月に池田騒動が起きます… だから清富藩宮城家は無嗣断絶にて【改易】となるんですよ… その後旧清富藩領は天領となるんです… ちなみに嫡流は絶えたけど宮城家は傍流が岡山藩池田家や尾張徳川家に仕え存続したんですw ★☆★ちなみに…下画像は最後に仕えた徳川家光の肖像画で豊嗣じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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幼い時から利発で「神童」と家中でも評判だったんですw 永禄3年(1560年)六角義賢が浅井長政に野良田の戦いで大敗します… 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄6年(1563年)六角家内で観音寺騒動が勃発します!!これにより六角氏家臣団が当主六角義賢と対立します! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…この時に足利義輝の実弟一乗院門跡覚慶(後の足利義昭)が六角義賢の元に逃れて来て保護するけど…三好三人衆に室町幕府管領職等を条件に言い包められ六角義治は一乗院門跡覚慶を追放します!!
永禄10年(1567年)4月28日六角氏式目が制定され六角義賢に当主が代ります! この頃同じ六角氏重臣宮城賢祐の娘サンと結婚し婿養子に入りますw 永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)織田信長が六角領内に侵攻します! 永禄11年(1568年)9月12日観音寺城の戦いで六角氏が大敗し滅亡します… これ以降織田信長家臣木下秀吉に仕え…義父賢祐は織田信長に仕えます! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄11年(1568年)10月18日足利義昭が15代征夷大将軍に就任します!!元亀元年(1570年)越前征伐に木下秀吉配下として従軍します!!元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正9年(1581年)鳥取城兵糧攻めに従軍します!!天正10年(1582年)5月8日から備中高松城攻めを従軍します!! この頃羽柴秀吉の馬廻衆として活躍してたんですが…比較的官僚的な仕事も得意でした! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!この戦いで羽柴秀吉に従い出陣して活躍するんです!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方で従軍します! この頃元六角氏家臣山崎片家と再会し意気投合しますw そんで子供(跡継ぎ)がいなかったんで山崎片家の3男頼久を養子にしますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます! 天正13年(1585年)7月から四国征伐に出陣し活躍します!! 天正14年(1586年)義父賢祐が黒田如水と一緒に西国諸大名との交渉役を担当します!天正14年(1586年)12月25日に豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)北野大茶会で養子頼久が前田玄以と一緒に奉行を務めます! 天正20年(1592年)から文禄の役で名護屋城に一時在陣します! 文禄元年(1592年)豊後国日田に蔵入地代官として赴任し日隈城を築城します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)豊後国玖珠の蔵入地代官も兼任しますw 合計すると4万石程を実質支配してたんです! この頃「武将」というより「文官」として活躍し必然的に石田三成と親しくなります… 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)から慶長の役が起きます!慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日醍醐の花見が催されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下ります!その際に徳川家康の命令で徳永寿昌・山本重成と一緒に渡海し日本軍の撤兵を指揮します!! 慶長4年(1599年)1月これ迄の功績で従五位下・丹波守に叙任しますw 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 養子頼久と一緒に挙兵し西軍に加担し人質が逃げないよう大坂城平野橋を警護します! そんで西軍加担を理由に一命は助けられ【改易】となるんです… 家督は養子頼久に譲り出家し「宗広」と名乗りますw 慶長6年(1601年)積極的西軍加担じゃなかったんで徳川家康に許されます! そんで養子頼久と一緒に徳川家康に仕え出しますw 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長10年(1605年)養子頼久が実兄山崎家盛から但馬国内6千石程を分地されます! そんで但馬国芦屋に陣屋を構え家族で引越しますw 慶長10年(1605年)初孫豊嗣が誕生しますw そんで徳川家康に特別の許しを得て再び家督を相続します! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長20年(1615年)5月和議が破談となり大坂夏の陣が勃発! その後…孫豊嗣が15歳で家督を継ぐんです!そんで… 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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