奥山正之は越前国内1万1千石の第2代目(最後)の藩主【織田信長】の実弟【織田信行】の家老【佐久間盛重】の嫡孫ですw【柴田勝家】の元で鬼玄蕃と称された【佐久間盛政】の甥ですw正確な生年月日は不明なんですが…まるこ的仮定で…天正8年(1580年)頃に織田家重臣丹羽長秀の家臣奥山重定の次男として誕生しますw 父重定は元々「佐久間姓」だったんだけど…先祖の縁の地越後国奥山荘の地名を取って「奥山姓」に改姓してますwちなみに…兄重成は生まれつき病弱で嫡子として育てられますw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正11年(1583年)父重定が丹羽長秀に従い羽柴方で賤ヶ岳の戦いに参陣しますwこの時…伯父佐久間盛政は柴田方で戦い享年30歳で討ち死にしています…戦後に丹羽長秀は羽柴秀吉から越前・若狭・加賀2郡約123万石を拝領します!!そんで父重定も大活躍したんで羽柴秀吉に絶賛されてますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに丹羽長重に従い父重定が出陣しますw 天正13年(1585年)4月16日丹羽長秀が享年51歳で死去します…天正13年(1585年)越中征伐に丹羽長重に従い父重定が出陣しますが…丹羽長重が不祥事を起して若狭15万石に大減封されちゃうんです… そんで父重定は羽柴秀吉の直臣となり越前国内1万1千石を拝領しますw 天正15年(1587年)九州征伐に父重定が従軍しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に父重定が従軍しますw 父重定は豊臣秀吉の命令で賤ヶ岳の戦い後に後北条家に仕官してた叔父佐久間安政・勝之兄弟(佐久間盛政の実弟)を探し出して豊臣家に仕えさせてるんですよ!
天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で父重定と一緒に肥前名護屋城に在陣します! この時に同い年で領地も近い越前国金津城主溝江長氏の長男長晴と仲良くなりますw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)伏見城普請工事に参加します! 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日に醍醐の花見が催されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!でも…状況判断が出来る程じゃなかったんで混乱し友人溝江長晴と一緒に丹羽兄弟に従います! そんで丹羽兄弟・溝江長晴と一緒に大谷吉継の誘いで西軍に味方します! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)7月26日東軍前田利長が2万の兵で金沢城を出陣します!!攻撃目標は西軍丹羽長重の小松城だと誰もが思ってたんですが…慶長5年(1600年)8月2日突然前田軍は小松城を避け西軍大聖寺城を攻撃します! 慶長5年(1600年)8月3日大聖寺城が落城し城主山口宗永が享年42歳で自刃します…そんですぐに兵500を率いて加賀国に侵攻し大聖寺城を奪還し守備に徹します!慶長5年(1600年)8月末浅井畷の戦いで丹羽・溝江連合軍が前田軍に大損害を与えます! でも…圧倒的な兵力差(3千vs2万5千)で結局は前田軍に降伏します… 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いで東軍が勝利します!これを知り大聖寺城を放棄して撤退しますが…逃げ切れないと判断し東軍に降伏します…そんで助命の上で西軍加担を理由に【改易】を命じられます! その後…家督は兄重成の長男である甥重次に譲り出家し「宗巴」と名乗りますw 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…その後は京都に引越して公家・俳人らと交流しつつ悠々自適な生活を送るんですw慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長10年(1605年)4月13日に豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! この頃に甥重次が幕府に召し出され1千石の直参旗本となるんですw 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!この頃豊臣方から誘いを受けるけど…「豊家に恩無し」と拒否します! 慶長20年(1614年)からの大坂の陣が勃発します!!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…元和5年(1619年)10月に福島正則が改易されます!元和8年(1622年)8月に山形藩最上家が改易されます… 元和9年(1623年)に本多正純が改易となります! 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永9年(1632年)5月22日加藤忠廣が改易になります…寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…寛永14年(1637年)閏3月6日丹羽長重が享年67歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します!寛永17年(1640年)7月に池田騒動が起きます… 寛永17年(1640年)8月に生駒騒動が起きます… 正保2年(1645年)1月18日に享年65歳位で死去します…その後…甥重次の子孫は1千石の直参旗本として幕末迄家名を存続させるんですw★☆★ちなみに…下画像は伯父佐久間盛政の肖像画で正之じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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赤松則英は阿波国住吉藩の第2代目(最後)の藩主室町幕府の四職の一家である守護大名【赤松家】の嫡流ですw一時衰退した赤松家を再興させた播磨・備前・美作の守護【赤松政則】の来孫ですw正確な生年月日は不明なんですが…まるこ的仮定で…天正8年(1580年)頃に羽柴秀吉の家臣赤松則房の次男として誕生しますw この頃羽柴秀吉は「播磨国の名門」として父則房を最大限利用してたんです! 実際播磨国守護だった赤松家のネームバリューは未だ健在で播磨国内で大きな影響力があったんです!
天正9年(1581年)父則房が羽柴秀吉の鳥取城兵糧攻めに従軍します!! 天正10年(1582年)5月8日から父則房が羽柴秀吉の備中高松城攻めを従軍します!! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月4日羽柴秀吉と小早川隆景が和睦しますw天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! この戦いで父則房は羽柴秀吉に従軍して活躍するんです!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方で父則房が従軍します! 天正12年(1584年)羽柴家と毛利家が正式に和睦しますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起く羽柴方で父則房が従軍します! 天正13年(1585年)7月からの四国征伐で父則房が出陣し活躍します!! 戦後に父則房は播磨国置塩(旧領)と阿波国住吉に各1万石の合計2万石を拝領しますw 阿波国には代官を置き本拠地は旧領置塩城に置いたんです! 天正14年(1586年)12月25日に豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に父則房が参陣します!! 天正20年(1592年)からの文禄の役で父則房は福島正則の五番隊に編成されます! そんで忠清道に進撃して活躍してます! 慶長2年(1597年)からの慶長の役で父則房と一緒に名護屋城に在陣します! 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…父則房からは「何かあった際は徳川殿を頼るように」と言い聞かされてたんですw慶長3年(1598年)7月17日父則房が享年39歳で死去します…そんで名門赤松宗家の家督を18歳で継ぎ従五位下・上総介に叙任しますwでも…この時旧領播磨国置塩1万石は没収され阿波国住吉1万石のみ相続を許されます!! この頃宇喜多秀家や石田三成や大谷吉継らに説得されます! 説得の際…要所要所で「播磨の名門」「播磨守護」を連発されていい気になっちゃいますw そんで早々に西軍加担を表明しちゃうんです! 慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされます! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! これに併せ挙兵し大坂天王寺から平野口にかけての警備を受け持ちます! 慶長5年(1600年)8月末に佐和山城に移動し守備を行います! 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!佐和山城内は激しく動揺し石田三成の実父正継を主将とし篭城策を取ります!慶長5年(1600年)9月17日佐和山城が東軍小早川秀秋ら総攻撃を受けます!! 必死で戦うんだけど…城方2800 vs 攻方1万5千では話にならない状況でした… 慶長5年(1600年)9月17日深夜に佐和山城を脱出し逃亡します!! 慶長5年(1600年)9月18日早朝に佐和山城が落城します… 東軍による落武者狩りの目が厳しくて逃げ切れないと判断!! そんで近くに駐留してた東軍福島正則を頼って行って降伏します! そんで西軍加担を理由に【改易】になります… その後身柄は京都戒光寺に送られ沙汰が降りる迄謹慎を続けるんです… 福島正則は自身を頼って来た者を見捨てず徳川家康に助命嘆願するんだけど… 徳川家康は助命を許さず「切腹」を命じるんです! 慶長5年(1600年)10月1日京都戒光寺にて享年20歳位で自害します…同じ日に…慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…ちなみに…宗家は滅亡しちゃいますが…分家の赤松家は江戸時代に5千石の交代寄合(大身旗本)として存続して明治維新後は男爵に叙任されてますwまた…庶流の有馬家にいたっては関ヶ原の戦いで東軍に加担し大坂の陣でも幕府方として活躍し筑後国久留米21万石の藩主として明治維新を迎えてますw宗家と分家で明暗が大きく分れちゃいました… ★☆★下画像は高祖父の父赤松政則の肖像画で則英じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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永禄八年(1565年)5月19日、清水寺詣でと称する一万二千もの大軍が京に入りました。率いるのは松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)らです。 この軍勢は清水寺には向かわず足利十三代将軍義輝の住む二条御所に向かいます。ひたひたと御所を囲む三好、松永らの旗印を見て義輝は死を覚悟しました。 実力者、三好長慶の死後幕府の権威復活を目指していた義輝と、引き続き幕政を牛耳ろうとしていた松永・三好三人衆(長慶の家老)との対立は先鋭化していました。しかし世間の人は、まさか将軍は襲いまいと考えていましたし、義輝自身もそうでした。しかし、彼らに世間の常識など通用しませんでした。 義輝は日頃から剣を好み、剣聖塚原卜伝から秘剣「一の太刀」を授けられたほどの剣豪です。このときも秘蔵の名刀20ふりばかり、畳に突き刺します。これは人を斬ると刃こぼれや、人の脂が付いて日本刀といえど何人も斬れなくなるからです。 次から次へと襲い掛かる敵兵を、義輝は畳に刺した名刀を次々と替え斬って斬って斬りまくりました。しかし多勢に無勢です。ついに力尽き数人がかりで襲い掛かった敵兵の手に落ちました。十三代将軍足利義輝の最期でした。 義輝が個人の武勇に頼らざるを得なかったのは、足利将軍の権威がそれだけ衰えた証拠でした。ここに悲劇があったと思います。 なお、将軍を討つという大逆を犯した三好、松永らですが結局天下を統べることなどできず、上洛してきた織田信長の勢力に滅ぼされるだけでした。
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戦国時代中期、京の主人は三好長慶でした。最盛期には五畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉)と淡路、讃岐、阿波の八ヶ国に勢力を張りざっと250万石を領する大勢力でした。 とうぜん、天下を取る実力があったにもかかわらず何故かあっけなく滅びます。畿内の覇者でありながら天下を取れなかった男、三好長慶をご紹介します。 三好氏は、一時阿波の守護だった甲斐源氏小笠原氏の流れだと伝えられます。管領細川氏に仕え代々阿波の守護代でした。長慶の父、元長も幼君細川晴元を補佐し、管領就任に大きく貢献しました。 しかし、長ずるにつれ晴元は元長の実力に恐れをいだくようになります。そして元長と同族の政長に命じ、謀殺させました。 このとき幼少だった長慶は許されます。長慶は国許阿波に帰って雌伏のときを過ごしました。国許で力を蓄えた長慶は、天文八年(1539年)二千五百の兵を率いて上洛します。 管領細川晴元は、これを恐れ長慶が父元長の遺領を受け継ぐことを認めました。時の将軍足利義晴でさえ一時近江に身を隠す有様です。 天文十七年(1548年)、ついに復讐の時がきました。長慶は晴元と敵対していた細川氏綱側に突如寝返ります。長慶を自分の軍事力として利用していた晴元にとっては寝耳に水の出来事でした。しかし、長慶は虎視眈々と復讐の時を待っていたのです。 長慶は晴元と将軍足利義輝を近江に追放しました。そして父の敵、三好政長を討ちます。これにより細川京兆家による政権は崩壊、義輝と和睦した長慶は、将軍を操って事実上、三好政権を打ち立てます。 長慶には優れた弟たちがいて兄を補佐しました。三好義賢(阿波)、十河一存(讃岐)、安宅冬康(淡路)です。 これほどの勢力をもったら天下も夢ではありません。しかし、長慶は天下を狙うこともなく幕府内の実力者で満足しました。これが彼の限界でした。しかも、晩年彼を不幸が襲います。 永禄四年(1561年)十河一存死去、永禄五年三好義賢死去。翌六年には嫡男として将来を期待していた義興までもが亡くなります。これは家宰、松永久秀による毒殺説もあります。 これにより、すっかり意気消沈した長慶は無気力になり、久秀の言いなりになります。久秀はお家乗っ取りをたくらみ、唯一生き残っていた安宅冬康のことを長慶に讒言しました。長慶はこれを信じ弟冬康を殺します。これが引き金になったのでしょう。精神に異常をきたした長慶は永禄七年(1564年)河内飯盛城で世を去ります。 晩年、長慶は言うことを聞かなくなった将軍義輝と対立します。しかし、将軍殺害だけは断固反対しました。彼の死後、歯止めの効かなくなった松永久秀は、長慶の重臣、三好三人衆と語らい、二条城に義輝を攻め殺すという大逆をしでかします。 しょせん、彼らは天下を動かす器ではなかったのでしょう。長慶個人の力量に頼っていた三好政権は、これにより統治能力を失います。 数年後、織田信長が六万の大軍を率いて上洛すると、風を食らって逃げるより他能のない者達でした。
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永禄3年(1560年)頃に淡路水軍菅某の長男として誕生しますw 当時淡路水軍は阿波三好家に従ってたんですが… 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…この頃には村上水軍と共に安芸毛利家に従えたりもしてたんです!永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…元亀元年(1570年)織田信長が越前征伐を開始します!!元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…天正4年(1576年)7月15日第一次木津川口海戦では毛利方として参陣します!天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…この頃より四国で長宗我部元親が土佐・阿波を統一し勢力を拡大します!天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!天正10年(1582年)香宗我部親秦を通じて長宗我部元親と同盟を結びます! 天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いが起きます! この直前に柴田勝家と長宗我部元親が同盟を結ぎ羽柴秀吉と対抗します! そんで羽柴方の洲本城主仙石秀久が賤ヶ岳本戦に出陣の合間を狙って洲本城を攻めます!! 城主不在の洲本城を陥落させ一時駐留するんですが… 引返した仙石秀久に破れ洲本城を奪還されるけど長宗我部家に従い続けるんです! 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが起きます! その際に長宗我部元親は織田信雄・徳川家康らと同盟を結び再び羽柴秀吉と対抗します! 天正13年(1585年)長宗我部元親が四国を統一しますw 天正13年(1585年)5月より羽柴秀吉による四国征伐が開始されます!! 圧倒的な兵力の前に早々に羽柴軍に降伏しその家臣となるんです! そんで羽柴軍の先鋒として淡路水軍を率いて長宗我部軍を攻め活躍します! 天正14年(1586年)7月より始まった九州征伐にも淡路水軍を率いて参陣します! 天正18年(1590年)小田原征伐に参陣し九鬼嘉隆・来島通総らと水軍を形成します!! 戦後に淡路国岩屋1万石を安堵され正五位下に叙任しますw その後は船手奉行として豊臣水軍の中核をなすんです! 天正20年(1592年)からの文禄の役で水軍を率いて渡航し活躍します! その際に藤堂高虎と意気投合するんですw 慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参陣します! 慶長2年(1597年)7月16日漆川梁海戦で大活躍しますw 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長2年(1597年)9月16日鳴梁海戦では朝鮮海軍に苦戦します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下り帰国します!帰国後は…全く状況の把握が出来なくて困ってしまうんです… 朝鮮の役の活躍で伊予国内に1万5千石を加増されるんですw 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされます! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! この頃より毛利家の軍勢が四国に侵攻してやむを得ず西軍に加担します!! そんで堀内氏善・九鬼嘉隆らの誘いもあり連合水軍を編成し伊勢・志摩方面で活躍します!! そんで西軍加担を理由に赦免の上で【改易】になります… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長6年(1601年)に許されて友人藤堂高虎に誘われ5千石で家臣となるんですwこの時に同じく元西軍方で藤堂家に仕える渡辺勘兵衛了・池田秀氏らと仲良くなりますw 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 藤堂家も外堀埋立普請に参加が決まりその際の普請奉行に任命されるんですw そんで早急な普請工事を要請されます! 慶長19年(1614年)12月21日早朝に普請現場を藤堂高虎が見回ります… だけど各担当普請場責任者が誰もいなかったんで藤堂高虎の機嫌が悪くなります… 朝食を取った後で藤堂高虎が再び普請現場を見回ったら全員現場に出て働いてます!! 「(藤堂高虎より)現場に来る事が遅い」と藤堂高虎が片っ端から怒鳴りつけ出します! 面倒臭い奴だなと思い適当な返事をしたんですよ… 逆に藤堂高虎は激怒しちゃい刀を抜き切り掛って来るんです!! なんなくかわします…そんで藤堂高虎は「この腰抜け!!」とさらに激昂します! この言葉にキレて「私の腰が抜けるのをいつご覧になったのか?」と言い返して 脇差に手を掛け藤堂高虎の攻撃第二波に備えます! 怒りが収まらぬ藤堂高虎は「主に対して脇差しに手を掛けるとは何事か〜!」 そんでその勢いで藤堂高虎に切腹を命じられるんです…この時仲良しの同僚渡辺勘兵衛が… 「家臣の前だし赦免して然るべきだと思いますが…」と藤堂高虎に意見し庇ってくれます! でも…藤堂高虎は「無礼者を庇うとは何事だー」と渡辺勘兵衛にも謹慎を命じるんです… 多くの家臣が助命嘆願を藤堂高虎に行ったんですが叶う事もなく… 慶長19年(1614年)12月26日に享年54歳で切腹します…この後…菅達長に同情的な考えを持ってた者達がたくさん藤堂家を去るんですよ…だから藤堂家の大坂の陣出兵数は冬の陣より夏の陣の方が少なくなるんです… 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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