多賀秀種は大和国神楽岡藩の最初で最後の藩主織田信長の側近だった【堀秀政】の実弟ですw【多賀大社】の神官だった【多賀氏】の末裔ですw永禄8年(1565年)尾張織田氏家臣堀秀重の次男として誕生しますw幼名は「源千代」でこの時兄秀政は13歳で織田信長の小姓になりますw 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄11年(1568年)兄秀政が15代将軍足利義昭の仮御所の普請奉行に就任しますw元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正3年(1575年)兄秀政が越前一向一揆討伐に参陣し活躍しますw天正5年(1577年)兄秀政が紀伊雑賀討伐戦に参陣し活躍しますw 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)兄秀政が有岡城の戦いで鉄砲隊を率い活躍します!この頃より兄秀政に従い従軍します! 天正9年(1581年)兄秀政が伊賀攻めで信楽口侵攻部隊大将となり活躍しますw 天正9年(1581年)兄秀政が織田信長より近江国坂田2万5千石を拝領しますw 天正10年(1582年)3月兄秀政に従い織田信長本隊として武田征伐に従軍します!! 天正10年(1582年)5月兄秀政が徳川家康の堺での接待役を務めます! 実は…明智光秀が織田信長に接待役を罷免され後任として兄秀政が就任したんです! 接待終了後に羽柴秀吉の援軍として兄秀政に従い中国戦線に向います!! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…この際兄秀政と一緒に羽柴秀吉に従い中国戦線より引返します!!天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! その際兄秀政も大活躍し以後羽柴秀吉の家臣となります! 天正10年(1582年)6月27日清洲会議が行われますw この時に兄秀政が織田三法師(織田秀信)の蔵入地代官と守役を務める事になるんです! 天正10年(1582年)7月羽柴秀吉の薦めで近江の国人多賀貞能の婿養子となりますw 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方として兄秀政と従います!! 戦後兄秀政が羽柴秀吉より近江国佐和山9万石を拝領しますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起き兄秀政に従い参陣します!! その際徳川方の大須賀康高・榊原康政らを撃破し敗走させる活躍をします! 天正12年(1584年)6月兄秀政より3千石を拝領し佐和山城守備役を命じられます!! 天正13年(1585年)8月兄秀政が羽柴秀吉より越前国北ノ庄18万石を拝領しますw その際に兄秀政より4500石を拝領するんですw 天正13年(1585年)9月兄秀政より堀家の奉行職に任命されますw 天正14年(1586年)2月に兄秀政より1500石加増されます! 天正14年(1586年)九州征伐が行われ兄秀政に従い参陣し活躍します!! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)2月に兄秀政より4千石加増されます! 天正15年(1587年)4月20日豊臣秀長の家臣となってた義父貞能が死去します…そんで多賀家の家督を22歳で継ぎ豊臣秀長の家臣となるんです!天正18年(1590年)小田原征伐が行われ参陣し活躍します!! 天正18年(1590年)5月27日兄秀政が小田原征伐陣中にて享年38歳で死去します…天正19年(1591年)1月22日豊臣秀長が享年52歳で死去します…その後も引続き養子秀保の家臣として仕えるんですw天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で豊臣秀保に従い渡航し活躍します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)4月16日豊臣秀保が享年17歳で死去します…その後は豊臣秀吉の直臣となり大和国神楽岡2万石を拝領しますw文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!この時は渡航せず名護屋城に在陣します!! 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月甥秀治が越後国春日山30万石へ加増移封されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされるけど…無視します! この時…周囲が西軍支持の大名だらけだったんでやむを得ず西軍に加担します… 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)9月3日立花宗茂らと大津城攻めに参陣します… でも…城主京極高次は粘りに粘って城攻めは難航するんです… そんで西軍加担を理由に【改易】となり浪人し甥秀治の元に厄介になるんです… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長11年(1606年)5月26日甥秀治が享年30歳で死去します…慶長13年(1608年)2月26日堀一門重鎮堀直政が享年62歳で死去します…この後…堀宗家の主導権を巡り堀家内部で内紛が起こります…当事者は堀直政の長男直清(越後三条城主)とその異母弟直寄(坂戸城主)です!! 慶長15年(1610年)2月内紛は激化し遂に徳川家康の裁断を受ける事になります!! 堀宗家の堀忠俊と堀直清が御家騒動が理由で【改易】となるんです… これで再び浪人となり厳しい生活を送ります… 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!弟利重が連座し改易になります…慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!! この頃に大坂方より誘いを受けるけど拒否して加賀藩主前田利常に仕官します!! 慶長20年(1614年)からの大坂の陣が勃発します!!そんで幕府方である前田軍として参陣し大活躍するんです!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…そんで戦後に改めて前田利常に6千石を拝領し家臣となるんですw元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…元和2年(1616年)11月に享年51歳で死去します…家督は長男秀誠が継ぐんですが…以降の多賀家に関してはきっと加賀藩士となったと思うんですが…実際のとこ不明なんです…中途半端でごめんなさい m(_ _)m
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最近、室町時代に興味が湧いています(笑)。 突然ですが皆さんはこのような伝説を聞いたことはないですか? 「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」 よく戦国ものの小説に書かれているんで、昔は私も素直に信じていました。ところが調べてみると吉良氏は確かに足利一族ですが、それほど家格が高いとも言えないような気がします。 まあ細川、畠山から見ればより足利嫡流家に近いのかもしれませんが、それをいうなら南北朝時代まで足利氏(尾張足利氏)を称していた斯波氏の方がはるかに家格が高いのです。むしろ斯波氏が将軍位に就いても誰も文句が言えないほどです。 しかしもし吉良氏が将軍位を継いだとしてどこからもクレームが出ないかといえば、そうとも言えません。まず斯波氏が黙っていないでしょう。加えて吉良氏よりより嫡流に近い一色、渋川(家格は別として)などから文句が出るはずです。さらにそれを言い出すなら、足利将軍家の一族である鎌倉公方がキレるでしょう。 吉良氏はたしかに足利家の第二の故郷とも言うべき三河に所領を持っていますがおそらく一度も三河守護にさえなったことがありません。ウィキペディアから歴代三河守護を拾ってみると 鎌倉幕府 1194年〜1199年 - 安達盛長 1221年〜1252年 - 足利義氏 ?〜1331年 - 足利貞経? 室町幕府 1337年〜? - 高師兼 1341年〜1342年 - 高南宗継 1345年〜1351年 - 高師兼 1351年〜1360年 - 仁木義長 1360年〜1373年 - 新田義高 1379年〜1388年 - 一色範光 1388年〜1406年 - 一色詮範 1406年〜1409年 - 一色満範 1415年〜1440年 - 一色義貫 1440年〜1449年 - 細川持常 1449年〜1478年 - 細川成之 ご覧の通りです。吉良貞経が一回だけなってますね。 吉良氏は、一時奥州探題になっただけで幕府で要職を占めたとも言えないのです。まあ、家格が高すぎて(徳川幕府の御三家のように)、将軍の家来にすぎない幕府の官職に就くわけにはいけないと強弁できないことはありませんが。 ただこれも吉良氏の分家の今川家が駿河・遠江の守護を歴任し一族の今川了俊が九州探題として一時絶大な権勢を誇ったことから否定されます(苦笑)。 鎌倉末〜南北朝時代の吉良氏歴代当主によっぽど傑物がいなかったのか、あまり足利尊氏に協力的でなかったのかどちらかでしょう。 ではなぜ上記のような伝説が生まれたかですが、カギは吉良氏ではなく分家の今川氏にあったのではないかと私は想像します。 三河の一地方領主に落ちぶれた吉良氏とは違い駿河・遠江に強固な地盤を築いた今川氏は、もともと南北朝の争乱でも足利宗家に付き従い一族の多くが討ち死にするなど幕府成立に大きな貢献をしています。 また歴代当主が有能で、幕府との関係(特に三管領家のうち細川家)が良好でした。今川義元の時代に三河を抑え、天下を狙える位置に立った時、大義名分として自己を正当化させるためにあえて流させた噂だったのかもしれません。 もともとそのような噂があったとしてもです。幕府に何の権限もない吉良氏がどんなに主張したところで世間は「世に容れられない不平貴族が何かほざいているな」くらいにしか見てなかったはずです。 もし本当に家格が足利将軍家に匹敵する斯波氏あたりが言いだしたら洒落にならなかったに違いありません。吉良氏がそう称したからこそ無害だったのでしょう。 それが今川義元が本当に天下を狙える実力を持った時、冗談が冗談でなくなったのだと思います。 皆さんはどう思われますか?
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室町時代から戦国時代にかけて、管領細川氏の家宰、阿波守護代として台頭してきた三好氏。一時は長慶のとき阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・大和・山城の八カ国にまたがる大勢力を誇りましたが、その滅亡もまたあっけないものでした。
三好氏は小笠原一族だと伝えられています。阿波と信濃守護で有名な甲斐源氏小笠原氏となぜ関係が?と疑問に思ったのですが調べてみると鎌倉時代小笠原氏は阿波守護を歴任していました。
もともと鎌倉時代初期、阿波守護には近江源氏佐々木経高が任じられていました。この経高もどこかで聞いたことのある武将だと思ったら、京極佐々木氏の記事で出てきた六角・京極氏の祖信綱の父定綱の弟(信綱の叔父)でした。
経高は阿波の他に土佐、淡路の守護も兼任する鎌倉幕府の要人だったようです。しかし1221年承久の変が起こると鎌倉方ではなく宮方に転じます。彼がなぜ宮方に付いたのか謎ですが、京と佐々木氏の本国である近江の関係、頼朝亡き後専横を極める北条氏に対する反感があったのだと思います。
ただ佐々木氏嫡流の甥、信綱は子供たちとともに最初から幕府方として参戦していますから、もしかしたら一族間の確執もあったのかもしれません。調べてみると信綱の兄広綱も宮方に付いています。承久の変では他の豪族と同じく一族相争ったのでしょう。
承久の変が幕府側の勝利に終わると、佐々木一族でも宮方に付いた者はことごとく処刑されます。幕府の総大将として京に乗り込んでいた北条泰時は、経高の命だけは助けるつもりだったと伝えられます。「降伏して謹慎していろ」という命を自害しろということだと受け取った経高は切腹し泰時のいる六波羅に向かいました。
泰時は、瀕死の経高に会い本意ではなかったと詫びたそうですが、真相は分かりません。宮方の有力武将でしたから生かされることは考えにくいと思います。他の武将も公家も厳しい処断でしたから。泰時が許しても父義時は絶対に許さなかったでしょう。
ともかく、佐々木経高の一族は承久の変でことごとく滅びました。幕府は空白になった阿波の守護として小笠原長清を入れます。長清は信濃小笠原氏の祖でもありますが、長清の孫長忠の代に弟の長房に阿波守護職を譲り、以後長房の子孫が阿波守護家として続きました。
一族は阿波各地に分布し、そのなかで三好郡に土着した一族が三好氏を名乗ったようです。ただしはっきりとした系図が残っていないため本当に血縁関係があったのかは謎ですが…(苦笑)。
南北朝時代、阿波守護小笠原氏は南朝方に付いたため足利尊氏は阿波守護に一族の細川氏を任命し以後阿波は細川氏の領有となります。旧守護小笠原家がどうなったのか不明ですが、分裂した小笠原一族のうちいくらかは細川氏に従ったみたいです。その中に三好氏の名前も出てきます。
三好氏がはっきりと歴史の表舞台に登場したのは、三好義長の時代でした。細川氏の阿波守護代として文献に登場しています。
三好氏は阿波守護代だけではなく細川氏の家宰として応仁の乱以後畿内での権力争いに登場し、あいつぐ戦乱で衰えた主家細川氏を凌ぐようになっていきます。
義長6世の子孫、長慶のときには主君であった管領細川晴元を将軍足利義晴ともども京都から追放するほどの実力者になりました。
長慶は、追放した晴元に代わって細川氏綱を擁立しこれを傀儡政権として幕政を壟断します。将軍義輝も長慶の権力には逆らえませんでした。この時が三好氏の絶頂期です。しかし権勢を誇った長慶の死後、一族が相争い家老の三好三人衆と松永久秀が争うようになり衰えました。
1668年、織田信長が上洛してくると長慶の後を継いでいた養子の義継と松永久秀は早々と信長に降伏し、対立した三好三人衆は織田軍と戦って滅ぼされました。義継と久秀も心から信長に信服していたわけではなく、後に反逆し滅ぼされます。義継の死を持って三好家嫡流は途絶えました。
三好一族では、三好康長(出家して笑岩)と十河存保(そごうまさやす)だけが信長に仕えて生き残りました。ところが泣きっ面に蜂、今度は土佐の長宗我部元親に三好一族に残された阿波・讃岐を侵略され1582年中富川の合戦で大敗します。
この時は本能寺の変後政権を取った羽柴秀吉に臣従し、秀吉の四国征伐で救われました。が戦後処理で十河存保に認められたのは讃岐十河3万石のみ、三好笑岩も河内の所領だけで他は阿波一国が蜂須賀正勝など豊臣恩顧の武将に分割されました。
その後笑岩は武将としての野心は捨てたようで茶人として余生を過ごしひっそりと死んだとされます。十河存保は三好家最後の生き残りとなりましたが、九州征伐の折かっての宿敵長宗我部元親の嫡男、信親を巻き添えにして戸次川の戦いで戦死します。
存保の子、存英(ながひで)は秀吉から所領相続を認められず改易という憂き目にあいました。
幼くして流浪し最後は大坂夏の陣で豊臣方として参戦、摂津尼崎で戦死したそうです。享年40歳。
あと、三好三人衆最後の生き残り、三好政康も大坂の陣で豊臣方として戦死しています。三好氏の傍流は他の大名家に仕えて生き残ったようですが、大名としての三好家は十河氏の改易によって完全に滅びました。
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天文19年(1550年)頃に織田氏家臣中江某の長男として尾張で誕生しますw 天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…天文20年(1551年)3月3日織田信秀が享年42歳で死去します…永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄4年(1561年)に木下秀吉が墨俣一夜城建設で大活躍します!!永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…この頃より織田信長に仕え木下秀吉の配下となるんですw永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…元亀元年(1570年)越前征伐に従軍してます!!元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中の陣中にて享年53歳で死去します…天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!これ以降は羽柴秀吉に仕え馬廻衆になるんです! 天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いに参陣し活躍しますw 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参陣し活躍します! 天正13年(1585年)8月に行われた越中征伐に参陣します! 天正14年(1586年)7月より始まった九州征伐にも参陣します! 天正18年(1590年)小田原征伐に石田三成を総大将とした忍城攻めに参陣します! この頃に同じ馬廻衆となった同僚川口宗勝とは歳も近く大親友となるんですw 基本的には馬廻衆なんで常に大坂城にいたんです! この頃に従五位下・式部大輔に叙任任官しますw 天正18年(1590年)10月8日建部高光・長束直吉らへの豊臣秀吉の使者を務めます! 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では名護屋城に在陣します!! そんで名護屋城東二の丸御後備衆や本丸裏表御門番衆を務めるんです! 文禄2年(1592年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)伏見城普請工事に参加します! 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日に醍醐の花見が催されますw入口は山中長俊と一緒に生熊長勝を配下に警備全般を務めてるんですよ! 慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!この時…親友川口宗勝と一緒に徳川家康を支持してたんです!! 慶長4年(1599年)閏3月3日五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日五奉行石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600年)6月16日に会津征伐が開始されます!! これに参陣しようと親友川口宗勝と一緒に大坂城を出陣します!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! そのため意思に反してやむを得ず西軍に加担する事になるんです… その間も親友川口宗勝と一緒に行動をしてたんです… 慶長5年(1600年)8月安濃津城攻めに参加して活躍します!! そんで落城後は伊勢周辺の東軍掃討作戦に参加します! だから…関ヶ原本戦には参加していないんですよ… 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!これを知り親友川口宗勝と一緒に早々に東軍に降伏し高野山に蟄居します…慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…このため【改易】となり所領は没収されちゃうんです…そんで身柄は親友川口宗勝と一緒に仙台藩主伊達政宗に預けられます!! 慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw そんで親友川口宗勝より先に赦免され暫く仙台藩に客将として逗留しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長11年(1606年)親友川口宗勝が赦免されますw 2人とも関ヶ原前に徳川家康支持を表明してるし西軍加担も増田・長束両名の会津征伐参陣阻止行為によるものだったし…いち早く高野山入りし恭順蟄居してる点が良かったと思いますw
その後親友川口宗勝は2500石を幕府より拝領し直参旗本として存続しますが… 中江直澄のその後の消息については…一切わかってないんです…★☆★下画像は…晩年お世話になった伊達政宗の蝋人形で直澄でないです!ちなみに…みちのく伊達政宗歴史館内にあって実際の骨格に肉付けする手法で作られた実物に近いものと言われてるんですよw★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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天正8年(1580年)頃に越前国金津城主溝江長氏の長男として誕生しますw 元々溝江氏は越前守護朝倉氏の分家筋にあたるんですwそんで天正元年(1573年)朝倉義景が織田信長に攻め滅ぼされた時に祖父長逸と父長氏は早くから織田信長に内通して仕えてたんで本領を安堵されたんです!その後は柴田勝家の与力として活躍してます!天正10年(1582年)3月11日から父長氏が柴田勝家に従い魚津城攻めに参陣します! 天正10年(1582年)5月19日上杉景勝が魚津城東側に陣を張り織田軍と対陣!! 天正10年(1582年)5月27日上杉景勝が春日山城ピンチの報せを受け撤退します!! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…でも…この事を魚津城攻撃中の織田軍が知るのは2日後の6月4日だったんです…天正10年(1582年)6月3日ついに魚津城が落城します!天正10年(1582年)6月4日本能寺の変の一報が入り急遽魚津城を放棄し撤退します!そんで父長氏は金津城に戻って篭城して状況把握に努めるんです!! 天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! そんで父長氏は羽柴秀吉の元に駆け付けて仕え出すんです! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方として父長氏が参陣します!! 天正11年(1583年)4月24日柴田勝家が享年62歳で自刃します…戦後父長氏は羽柴秀吉に越前国金津1万7百石を安堵され丹羽長秀の与力となります!!そんで丹羽長秀の息子達(長重・長正)と兄弟のように仲が良かったんですw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに父長氏が出陣し活躍しますw 天正13年(1585年)4月16日丹羽長秀が享年51歳で死去します…そんで丹羽長秀の長男長重が14歳で家督を継ぐんです!!でも…天正13年(1585年)8月越中征伐時の不手際で丹羽長重が大減封されます… これ以降父長氏は豊臣秀吉の直臣となり馬廻衆を務めるんです! 天正18年(1590年)小田原征伐に父長氏と一緒に参陣します!! 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で父長氏と一緒に肥前名護屋城に在陣します! この時に同い年で領地も近い奥山重定の次男正之と仲良くなりますw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月小早川秀秋が越前国北ノ庄に減移封されます…その際に父長氏が小早川秀秋の附家老に一時任命されるんです!! 慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)五大老による合議制となり小早川秀秋の北ノ庄移封が取消れます!!これで父長氏も附家老職を解任されるんですが…激務続きで体調を崩します… 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!慶長5年(1600)4月父長氏が享年60歳位で死去します…そんで20歳で家督を継ぎ従五位下に叙任します!慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされます! でも…状況判断が出来る程じゃなかったんで混乱し友人奥山正之と一緒に丹羽兄弟に従います! そんで丹羽兄弟と奥山正之と一緒に大谷吉継の誘いで西軍に味方します! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 慶長5年(1600年)8月末浅井畷の戦いで丹羽長重と一緒に前田利長に大損害を与えます! でも…圧倒的な兵力差(3千vs2万5千)で結局は前田軍に降伏します… その際前田利長は誓書を書いて助命と本領安堵を保障したんですw 実は前田利長は徳川家康に関ヶ原本戦参加を命じられたんですが…浅井畷の戦いのせいで結局は本戦には間に合わなかったんです!信濃国上田城主真田昌幸・信繁親子といい西軍にとっては大変に大きな仕事をしたんです!両者により前田軍2万5千と徳川秀忠軍3万8千の合計6万3千が関ヶ原本戦に間に合わなかった事は西軍にとり結果は変らなかったとしても意義は大きかったと思います!もし間に合っていたら東軍7万5千vs西軍10万の兵力差は逆転していたでしょう!今考えると…大津城及び田辺城攻撃に割いた西軍4万5千って関ヶ原本戦に間に合わずとっても勿体無かったですよね…
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いで東軍が勝利!前田利家の誓書を徳川家康は反故にして西軍加担を理由に【改易】を命じられます!でも…命だけは助けてもらえ京都で浪人として辛く厳しい生活を送ってたんです… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長8年(1603年)丹羽長重が許され常陸国古渡1万石を拝領し大名に復帰します!! 慶長10年(1605年)4月13日に豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!この頃豊臣方から誘いを受けるけど…時勢を読み拒否するんです!成長しましたw 慶長20年(1614年)からの大坂の陣が勃発します!!慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…元和2年(1616年)に許され井伊直孝の客分となり近江国坂田郡箕浦村に住みますw元和9年(1623年)に本多正純が改易となります! 寛永5年(1628年)正式に500石で井伊直孝の家臣となり彦根城下に引越しますw 寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永9年(1632年)5月22日加藤忠廣が改易になります…寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…寛永14年(1637年)閏3月6日丹羽長重が享年67歳で死去します…寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します!寛永17年(1640年)7月に池田騒動が起きます… 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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