『母を訪ねて3000円』

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 kazusa567さんの記事に触発されて、徳川300年の源流とも言うべき三河松平氏について書きたくなりました。ただし、独断と偏見で決め付けているところはご容赦ください。

 松平氏発祥の地である松平郷は巴川(足助川)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたります。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 南北朝末期、この地に一人の漂泊の僧が訪れます。名門新田源氏世良田氏の末裔と称するこの時宗の遊行僧は名を徳阿弥と言いました。
 戦乱の世です。しかし後の戦国時代と違ってかろうじて家柄がものをいいました。もちろん彼が本当に世良田氏の末裔だったかどうかは誰も分かりません。史書によると実際に宗家の新田義貞に従った世良田氏最後の当主政親が、転戦の末この三河の地で没したという伝承がありました。
 その世良田氏を騙るのは、何の後ろ盾もない徳阿弥にとって有利だったのでしょう。得意の弁舌によってこの地を治める土豪松平氏の婿養子におさまった徳阿弥は、還俗して松平親氏と名乗ります。これが松平初代です。

 もともと松平氏は賀茂神社の氏子で葵の紋を使用していました。まさかこの紋所が後に天下で最も高貴な紋章になるとは誰も思わなかったことでしょう。

 松平氏は三代信光のときに南方の平野部に進出し十八松平と称される分家を各地に配し支配を固めます。そのなかで安祥城に拠った次男親忠の家系が有力になり、松平宗家となりました。この安祥松平家はしばらく内紛が続きますが、七代清康の時代に絶頂期を迎えます。

 十四歳で家督を継ぐと、1524年三河守護代であった西郷氏を山中城に滅ぼし西郷氏の所領であった岡崎の地に城を築き本拠と定めました。軍を四方に派遣しほぼ三河を統一する勢いでした。しかし1535年尾張進出をもくろみ守山城を攻めたとき、家臣の阿部弥七郎に斬りつけられ殺されます。(守山崩れ)
 享年二十五歳。英雄になったかもしれない男のあっけない最後でした。癇癖であったため家臣の信望がなかったとも言われています。このあたり後の織田信長にも似ていますね。

 大黒柱を失った松平家は、息子の広忠があとを継ぎますがわずか十歳であったため隣国駿河の太守、今川義元に庇護を頼みました。今川氏はこれを好機として三河支配を固めます。松平主従の苦難は広忠の息子、元康の時代まで続きました。ようやく独立を勝ち取ったのは1560年、今川義元が桶狭間で信長に討ち取られた後でした。
 
 松平元康、後に天下を統一する徳川家康その人です。

 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

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伊勢平氏の発祥



 以前、八幡太郎義家以降の源氏の歴史について紹介したので、今度は平清盛を出した伊勢平氏について書こうと思います。参考文献はいつものごとく中公文庫「日本の歴史6武士の登場」です。

 関東における平将門の乱を平定した藤原秀郷と平貞盛はそれぞれ従四位下、従五位上に任ぜられ東国の受領、鎮守府将軍を歴任します。これによって彼らは軍事貴族として隠然たる実力を養いました。
 関東に確固たる地盤を築いた彼らでしたが、1028年平氏一族の平忠常が乱を起こすと追討使に任ぜられた源頼信(義家の祖父)がこれを鎮圧し、これに従った彼らは次第に源氏の家人化します。関東に源氏が基盤を築いたのは、まさにこの時でした。

 それまで関東の主人であった平氏は、一族から反逆者を出した手前源氏の台頭に従うしかありませんでした。では平氏はいつから伊勢に地盤を築いたのでしょうか?時代を数十年遡ります。

 貞盛の四男に平維衡という人物がいました。ただ系図では四男となっていますが彼の活躍した年代と父とされる貞盛の年代が50年ほど隔たっているので、貞盛の子というのは疑問が残ります。晩年の子だったのか、孫か不明ですが、一応系図通り四男として話を進めます。

 貞盛の嫡流は長男惟将(北条氏の祖)が継ぎますが、維衡はよほど才覚があったのか諸国の受領を歴任します。998年下野守になったのを手始めに1013年ころには上野介、1021年常陸介に次々に就任しました。貞盛の他の子供たちの子孫が振るわぬ中、維衡は次第に平氏の主流となっていきます。

 そんな中1006年に維衡は伊勢守に就任しています。古くから開け豊かな伊勢国に目を付けた維衡はこの地に所領を開発し根拠地を築きました。これが伊勢平氏の発祥だといわれといます。
 政治力に長けた維衡は、時の権力者藤原道長に取り入り伊勢の地に強固な地盤を築き上げました。貞盛の他の子孫が次第に源氏の家人化していったのとは逆に、伊勢平氏は繁栄していきました。
 
 伊勢に土着した平氏の中から、維衡四世の孫、正盛が登場します。この頃には伊勢・伊賀にまたがった所領の経営で平氏はかなり富裕になっていました。1097年には伊賀国鞆田村、山田村の田畑あわせて二十町余りを六条院に寄進したほどです。

 武勇一辺倒の源氏と違い平氏は歴代当主が政治力に長けていました。六条院は時の権力者白河上皇と繋がりを持っていました。所領を寄進することで上皇とつながりを持った正盛は院のお気に入りとなります。どちらかというと摂関家と繋がりがあった源氏は上皇にとって煙たい存在でした。
 源氏に代わる武力を欲していた上皇と利害が一致したのです。

 正盛台頭のきっかけとなったのは源義親追討でした。義家の次男で早世した長男に代わって嫡流を継いだ義親は、粗暴の振る舞い多く対馬守在任中に人民を殺害したり官物を横領したため大宰府より朝廷に告発されました。隠岐国流罪に決まった義親でしたが、出雲国でふたたび乱暴を働き隣国因幡守であった正盛に1108年、義親追討令が下ります。
 正盛はこれを一ヶ月で平定しました。義親の首をとり都に凱旋した正盛は功により但馬守に転出します。さらに子の盛康は右衛門尉、盛長は左兵衛尉に任ぜられました。

 後三年の役で、私闘とされなんら恩賞の沙汰がなかった源義家とは大違いでした。平氏は院政の武力として源氏と並ぶ存在に成長していきます。その子忠盛、孫清盛の時代に源氏を圧倒して平氏は政権を担うほどになりました。

 一方、源氏はその政治力のなさから次第に追い詰められ保元、平治の乱でほぼ滅亡する事となりました。しかしただ唯一生き残った、源頼朝は皮肉にも歴代平氏当主に勝るとも劣らない政治力の持ち主でした。
 その頼朝によって平氏は滅ぼされることとなります。
 

 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

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 最近、アマゾンで注文する日本史関係の本は大当たりばかりなのですが、これも良書でした。

 『薩摩・大隅守護職』(西山正徳著 高城出版)という本なんですが、地元鹿児島の出版社、鹿児島在住の作家の作品だけに、地元の研究者でなければ分からない詳しい記述でした。


 一般に南北朝期の九州の歴史は、懐良親王の征西府、足利幕府の九州探題を中心に北九州の記述が大半で、南九州の歴史は日向国大将の畠山直顕、水島陣がらみの島津氏久と今川了俊の対立くらいしか出てきませんでした。


 しかし、この本は南北朝期の薩摩・大隅守護職島津貞久が足利尊氏に味方した経緯から始まり、嫡男、次男の戦死、貞久が三男師久に薩摩守護職を、四男氏久に大隅守護職を与えたことによる総州家(師久の官位上総介から)と奥州家(氏久の官位、陸奥守から)の対立、島津の内紛に乗じて滅ぼそうとした九州探題今川了俊の大軍を氏久が日向の地で撃破した蓑原の合戦、最終的に奥州家が内紛を制し、幕府に薩摩・大隅守護職を認めさせ嫡流となる動きなど、私が知らない歴史を描いており、夢中になって読みました。


 私が驚いたのは、島津氏は初めから鹿児島を根拠地にしていたのではなく、当初薩摩北部の出水市高尾野町江内木ノ牟礼にある木牟礼(このむれ)城に守護所があったという事実です。


 島津氏は鎌倉幕府から薩摩・大隅・日向の守護に任ぜられたものの、南薩摩の反島津武士団の力が強く南部に力を及ぼすことができなかったといいます。その後貞久の代に川内市天辰町碇山の碇山(いかりやま)城に守護所を移したそうです。


 島津氏は、一族を各地の所領に配することで薩摩に浸透を図りますが、そのために勢力が分散され有力庶家の伊集院忠国のように宗家に反発し南朝方につく者もでてきました。


 鹿児島が島津氏の拠点になったのは、貞久が南朝方から東福寺城(鹿児島市出水町、現在の多賀山公園あたり)を奪って四男氏久に与えたことが発端だったそうです。

 東福寺城は島津内紛の間も奥州家氏久に受け継がれ、氏久は大隅守護になってもこの城を手放さなかったといいます。というのもこの城は薩摩のほぼ中央に位置し、大隅や日向に進出するにも都合の良い、いわゆる交通の要衝に位置していたからでした。これがのちの鹿児島市に発展していきます。


 はじめ嫡流であった総州家は師久の子伊久(これひさ)の時代に、その子守久と合戦騒ぎまで起こして対立していたのを、奥州家の氏久の嫡男元久に仲裁されたことを恩に感じ元久に薩摩守護職と島津宗家の家督を譲ったことが没落の始まりでした。

 これでは守久にとってはたまったものではなかったでしょう。おかげで幕府帰順後も薩摩守護職を奥州家に持って行かれ、事実上嫡流なのに庶流扱いされたのですから。


 奥州家は、薩摩・大隅守護職を得たことによりそれまでの拠点志布志から東福寺城に移します。さらに元久は内陸に清水城(鹿児島市清水町)を築き移ります。その後十四代勝久まで清水城が島津氏の本拠でしたが、1550年十五代当主貴久はまた海岸に近い内城を築き移転しました。

 島津氏が鹿児島鶴丸城に拠点を移したのは、義弘の子家久(忠恒)の代で1604年のことでした。



 調べていくと面白いですね。これほど拠点を移した大名はあまりいないかもしれませんね。それだけ歴史が古いという証明かもしれません。そういえば奥州の伊達家も梁川城(福島県伊達市)→桑折西山→米沢→黒川→岩出山→仙台と移してますもんね。


 この本では、奥州家が薩摩・大隅両国守護職を得たところで終わっていますが、その後の歴史を調べたくなるほど興味を与えてくれました。


 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

池田 政直

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池田政直は播磨国福本藩の最初で最後の藩主

「西国将軍」と呼ばれた【池田輝政】の孫で【徳川家康】の曾孫ですw

寛永11年(1634年)山崎藩主池田輝澄の4男として誕生しますw

兄達は早くに幼くして亡くなってたんで…嫡子として扱われますw

お母サンは高松藩主生駒高俊の姉天正院サンですw

寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…

寛永14年(1637年)7月に母天正院の実家で「生駒騒動」が起きます!!

寛永14年(1637年)10月25日島原の乱が勃発します…

寛永15年(1638年)藩内で小頭と足軽による些細な金銭上の喧嘩が起きます!

この喧嘩が引金となり新家老小河四郎右衛門と譜代家老伊木伊織の対立が表面化します!!

この対立はだんだんと激化してくんですよ…

寛永16年(1639年)弟政武が誕生しますw

寛永17年(1640年)藩内の対立が御家騒動(池田騒動)に発展します!!

親戚の林田藩主建部政長の調停も失敗して伊木派藩士2千人以上脱藩します…

見かねた幕府が仲裁に入り…結局は伊木伊織以下20名に切腹が命じられます!!

寛永17年(1640年)7月26日家中不取締りを理由に父輝澄が【改易】になります…

そんで父輝澄の身柄は鳥取藩主の従兄弟池田光仲預かりとなるんです…'

一応父輝澄は「徳川家康の外孫」なんで堪忍料として鳥取藩鹿野に1万石を与えられますw

その後父輝澄は剃髪して「石入」と号して悠々自適な生活を送るんですw

寛永17年(1640年)8月叔父生駒高俊が「生駒騒動」の為【改易】されます…

寛永18年(1641年)弟政済が誕生しますw

正保2年(1645年)弟武憲が誕生しますw

慶安4年(1651年)4月20日3代将軍徳川家光が享年48歳で死去します…

寛文2年(1662年)4月18日鹿野にて父輝澄が享年59歳で死去します…

そんで家督を継ぐけど…寂しい毎日でした…

一応徳川家康の曾孫なんで「松平姓」を与えられてるんですよw

徳川家康の曾孫って事もあるし池田宗家の尽力もあってついに念願が叶います!!

寛文3年(1663年)播磨国福本1万石を拝領し大名に復活しますw

そんで従五位下・能登守に叙任し従二位権大納言姉小路公景の娘サンと結婚しますw

ちなみに…奥サンのお姉サンは「伊達騒動」で有名な伊達宗勝の長男宗興の奥サン(正室)ですw

夫婦仲は良かったけど男子は出来ず女の子2人しか子供がいなかったんです…

寛文5年(1666年)12月6日に享年32歳で死去します…

跡継ぎがいなかったんで福本藩は【改易】となります…

そんで遺領は弟政武に7千石…弟政済に3千石が分与されるんです…

そんで両家は交代寄合となり幕末まで存続するんですw

その後弟政武の家系は約200年後の慶応4年(1868年)に7代目当主池田喜通が鳥取藩池田宗家から藩蔵米3500石の支援を受け石高直しにて10573石となりギリギリで大名に復活(福本藩)するんです!!

★☆★ちなみに…下画像は祖父池田輝政の肖像画で政直じゃないです!★☆★


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織田 長則

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織田長則は美濃国野村藩の第2代目(最後)の藩主

【織田信長】の弟【織田長益(有楽斎)】の孫なんですよw

正確な生年月日はわからないんですが…まるこ的仮定で…

天正19年(1591年)御伽衆織田長益(有楽斎)の長男長孝の長男として誕生しますw

父長孝は長男だったんだけど…お母サンが側室なんで正室の子供である叔父頼長が嫡子だったんです!

天正19年(1591年)2月28日千利休が享年70歳で賜死します…

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では父長孝と祖父長益が名護屋城に在陣します!!

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生します!!

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀吉の命令で豊臣秀次が享年28歳で切腹します…

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日五奉行石田三成襲撃事件が勃発します!

慶長4年(1599年)五大老宇喜多秀家家中で御家騒動が発生します!!

慶長5年(1600年)6月会津征伐に父長孝と祖父長益が一緒に従軍します!!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

関ヶ原本戦に東軍として兵450で父長孝と祖父長益が一緒に参陣します!

小早川秀秋の東軍への寝返り行為等があって…戦況は西軍有利から東軍優勢に変ります!!

そんで父長孝は白兵戦の中で西軍武将戸田勝成を家来と一緒に討取る大活躍をします!!

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦で東軍が大勝利します!!

慶長5年(1600年)10月1日西軍石田三成(享年41歳)・安国寺恵瓊(享年64歳)らが斬首されます…

この活躍で父長孝は美濃国野村1万石を拝領し大名となり別家を興しますw

祖父長益も大和国内に3万2千石を加増され大名になるんですw

叔父頼長は豊臣秀頼の家臣として大坂城入りしています!

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍になりますw

慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣になりますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生じます…

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍になります!

慶長10年(1605年)5月8日織田宗家の織田秀信が享年26歳で死去します…

淀殿が徳川家康と豊臣秀頼の会見を反対し続けてたんで説得します!!

慶長10年(1605年)松平忠輝豊臣秀頼が面会します!!

慶長11年(1606年)7月5日父長孝が享年36歳位で死去します…

そんで15歳で家督を継ぎ美濃国野村藩主となり従五位下・河内守に叙任しますw

慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

この会見後に加藤清正・堀尾吉晴・浅野長政・幸長父子・池田輝政ら豊臣恩顧大名が相次いで死去…

慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!

慶長18年(1613年)9月9日安房藩里見家が【改易】になります…

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き大坂城から片桐且元が追放されます!!

この頃祖父長益や叔父頼長より豊臣方に味方するように勧められますが…拒否します!

理由は…「特別豊家に対して特別恩は無いので…」…

慶長19年(1614年)10月大坂冬の陣で祖父長益と叔父頼長が大坂城に篭城します!

藩兵は率いて幕府方として参陣しますが…目立った活躍はしていません…

慶長19年(1614年)12月20日に幕府方と豊臣方の和議が成立しますw

でも…幕府方と豊臣方との和議内容解釈のズレから再び対立が起きます…

必死に祖父長益は大坂城内で主戦派を説得するけど…一向に収まらず悩み続けます…

慶長20年(1615年)4月祖父長益と叔父頼長が豊臣方を見切り大坂城を退去します!

そんで京都に隠棲し祖父長益と叔父頼長が一緒に茶道に専念しますw

大坂夏の陣にも幕府方として藩兵は率いて参陣します!

慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

元和元年(1615年)8月祖父長益が叔父の長政・尚長に其々1万石を分与しますw

これが後の大和芝村藩大和柳本藩各藩なんですよw

元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…

元和2年(1616年)9月11日宇喜多詮家が享年53歳で自害します…

元和5年(1619年)福島正則が【改易】されます…

元和6年(1620年)から行われた大坂城再建工事の普請助役を命じられてます!

元和6年(1620年)9月20日叔父頼長が京都にて享年39歳で死去します…

元和7年(1621年)12月13日祖父長益が享年75歳で死去します…

そんで味舌藩織田家は無嗣断絶にて【改易】となるんです…

元和8年(1622年)8月に山形藩最上家が【改易】されます…

元和9年(1623年)本多正純が【改易】されます…

寛永3年(1626年)3代将軍徳川家光が上洛する際に供奉してます!

寛永7年(1630年)4月30日織田信雄(常真)が享年73歳で死去します…

寛永8年(1631年)7月4日享年40歳位で死去します…

墓所は東京都港区高輪の「泉岳寺」です…

生涯正室(奥サン)を持たず子供(跡継)がいなかったんで無嗣断絶にて【改易】となります…

★☆★ちなみに…下画像は祖父織田長益(有楽斎)の肖像画で長則じゃないです!★☆★


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