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薩摩島津一族  後編


 久豊の後は、嫡男忠国が九代を継ぎます。そしてここでまたしても家督を巡る兄弟喧嘩が巻き起こりました。読者のみなさんもうんざりだとお思いでしょうが我慢してお付き合い下さい。

 私だってうんざりしてるんです!(苦笑)


 ことの発端は、1432年に起こった国一揆でした。これは島津氏の領国支配を覆しかねない危機だったと伝えられます。忠国は弟の用久(薩州家の祖)を守護代に任じ一揆鎮圧にあたらせました。

 一揆は用久によって無事に鎮圧されたのですが、そのために用久に人望が集まり忠国は嫉妬します。兄との争いを避けるために領地の出水に引っ込んだ用久でしたが、忠国が自分を追放しようとしたためついに立ち上がります。島津家中は大混乱となり、1448年に兄弟和解するも痛手は後々まで尾を引きました。


 和解後、忠国は弟用久に薩州家を立てさせます。一族最大の実力者だった伊集院家を滅ぼし1470年に没しました。享年68歳。


 家督は嫡男立久が継ぎました。彼の時代は中央で応仁の乱が巻き起こる時でしたが、比較的平穏に過ごせたようです。


 戦国時代に入ると守護大名島津氏の領国支配も陰りが見え始めます。国人勢力の台頭、一族の領地分割による宗家の弱体化でただ鹿児島周辺を治めるだけの地方勢力にまで落ちぶれました。


 代わって台頭してきたのが分家、伊作島津家です。伊作家自体は三代久経の次子、島津久長から始まりますが室町時代に断絶、九代忠国の子島津久逸が継承していました。伊作家は薩摩半島西岸に領地をもちますが、久逸の孫忠良(日新斎)の時、他の島津庶家を抑え鹿児島に入って息子に島津宗家を継承させました。

 
 日新斎の子が有名な貴久、一五代当主です。実は日新斎はあくまで一五代当主になった貴久の後見という立場でした。利発な貴久を当主にすえ自らはそれを支えます。それほど島津家は危機だったのでしょう。


 しかし貴久の宗家継承に不満も持つ有力庶家、薩州家の島津実久は自分に味方する伊集院などの一族を引き連れ反乱をおこします。一時は鹿児島を脱出するほどの劣勢に陥りますが、父日新斎とともに次第に盛り返し、1539年反乱軍との決戦に勝利、ほぼ薩摩統一に成功します。

 貴久は、1550年それまでの本拠だった清水城(鹿児島市)から内城(これも鹿児島市)を築いて本拠を移しました。


 ついで貴久は、肝付氏などの国人勢力に乗っ取られた旧領国大隅へ本格的に進出します。蒲生氏を攻め西大隅を手に入れたところで安心したのか、1566年嫡男義久に家督を譲り隠居しました。

 
 伯囿と号した貴久は、1570年57歳で死去します。


 島津家一六代義久は、自身も有能でしたが兄弟にも恵まれていました。島津四兄弟を祖父の日新斎は
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と評しています。


 義久は、菱刈氏、東郷氏、祁答院氏などを降し1570年薩摩を完全に統一、1574年には大隅で反抗していた肝付氏を降伏させます。

 義久が次に狙うのは日向国でした。大隅平定の前1572年に日向真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と関係が悪化。木崎原の合戦が起こります。このとき島津軍は劣勢でしたが武勇で名高い義久の弟義弘の活躍で大勝利を収めました。


 余勢をかって日向に侵攻、伊東義祐はたまらず領国を捨て豊後の大友宗麟を頼って亡命します。1578年にはその大友宗麟6万の大軍を日向耳川で大破、大友氏に代わって台頭してきた肥前の竜造寺隆信も肥前島原の沖田畷の合戦で撃破しました。


 九州に敵なしの島津軍は、その後竜造寺氏を降し、大友氏を滅ぼすため北九州に攻め入ります。ところが戦は下手でも外交では島津の上を行く大友宗麟は、日の出の勢いだった豊臣秀吉に泣きつきます。


 1587年秀吉は20万ともいわれる大軍を派遣、さしもの島津軍も多勢に無勢。本拠薩摩まで攻め込まれて義久はついに降伏しました。


 剃髪して名を龍伯と改めた義久は川内の泰平寺で秀吉に謁見します。降伏後、薩摩を義久、大隅を義弘の領有とされ島津氏は豊臣政権に組み込まれました。


 その後の島津氏の活躍は皆さんご承知の通り。朝鮮の役泗川の戦いで20倍の明の大軍を撃破、関ヶ原での退き口、巧みな外交を駆使しての本領安堵をへて島津家は薩摩77万石の大大名として江戸期を生き残りました。


 幕末には将軍家御台所(天璋院篤姫)まで出すようになりました。そして維新の主役となり長州藩とともに徳川幕府を倒す原動力となります。




 島津の活躍には驚かされるばかりです。これだけ長い間続きながら時には時代の主役となって活躍するのですから。ただ明治に入り西南戦争が薩摩隼人最後の輝きだったのかもしれません。

 その後薩摩が歴史の主役になることはありませんでしたから。

 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

薩摩島津一族  前編



 鎌倉以来江戸幕末に至るまで家名を保つことは容易ではありません。東の代表が佐竹氏なら西の代表は文句なく薩摩の島津氏でしょう。

 島津氏は鎌倉、南北朝、室町、戦国、織豊期、江戸の各時代を通して有力守護、有力大名として存在します。その生命力には驚嘆するばかりですが、一方「島津に暗君なし」と言われるように、少なくとも時代の要所要所において凡庸な当主が一人も出なかったことは特筆できます。


 島津氏初代忠久は、もと惟宗氏を称していました。近衛家領島津庄(都城を中心に薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大の荘園)の家司でありながら源頼朝の寵遇を受け、鎌倉幕府が成立すると薩摩・大隅・日向三カ国の守護に任じられ、同じく筑前・肥前・豊前守護少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後守護の大友氏とともに九州三人衆と称されました。


 島津氏が薩摩に下向したのは三代久経の時代でした。これは元寇後の九州警備のためで、同じく多くの関東御家人が西国の自分の領地に下向しました。

 しかし、元寇後の動揺を抑えるため九州では三人衆の本国(薩摩、豊後、筑前)を除いて北条得宗家が守護を独占するようになり、権力を奪われた彼らの不満は高まります。


 各地の御家人の不満は、後醍醐天皇の討幕運動を渡りに船として大きな力となっていきます。元寇で大きな被害を受けながら、外国が相手で恩賞の土地を得られなかった御家人たちは窮乏していたのです。


 五代貞久は、1333年他の九州御家人とともに鎮西探題を攻撃、これを滅ぼします。鎌倉幕府滅亡後、恩賞として悲願の大隅・日向守護職を回復した貞久でしたが、その後足利尊氏が反逆すると島津氏も武家方としてこれに従います。

 少弐・大友とともに尊氏の上洛作戦に同行し湊川の勝利に大いに貢献しました。


 ところが、九州に懐良親王が下向しこれを肥後の有力豪族菊池氏が助けるようになると島津氏も国元薩摩に帰ってこれに対抗しなければいけなくなりました。


 島津貞久は、戦乱の中で嫡男宗久を失い次子頼久もまた犠牲にしていました。1363年、死の床にあった貞久は島津氏の基盤を固めるため三男の師久を薩摩守護、四男の氏久を大隅守護とし兄弟協力して難局に当たるよう遺言します。両家はそれぞれの官位から総州家(師久の官位、上総介から)、奥州家(氏久の官位、陸奥守から)と呼ばれます。


 当初は兄弟協力し合って戦乱に立ち向かっていましたが、兄弟の領地が微妙に入り組んでいたのが原因で紛争が絶えませんでした。

 というのも薩摩を貰い、嫡流として守護所碇山城(鹿児島県川内市)を居城とした師久に対し、弟の氏久は大隅のほかに、薩摩の重要拠点ともいうべき東福寺城(鹿児島市)を手放さなかったからです。


 兄弟が南北朝をどのように生き抜いたのかは不明ですが、国外遠征は主に氏久が担当していたようです。

 氏久は、九州を席巻していた懐良親王の征西将軍府に対抗するために幕府が送り込んだ九州探題、今川了俊に従い各地を転戦します。


 ところが1374年事件が起こります。九州南朝主力菊池氏の軍勢を追い詰めた北朝軍は、本拠菊池の玄関口台(うてな)城にこもった敵を撃滅するため、水島に主力を集めます。了俊はここに九州における北朝方をことごとく集めるつもりでしたが、九州探題と利害がぶつかる筑前守護少弐冬資は参陣を渋ります。


 困り果てた了俊は、同じ九州三人衆の一人ということで、島津氏久に依頼して冬資を呼び寄せることにしました。ほかならぬ島津氏久の頼みということでやってきた冬資でしたが、酒宴の席であろうことか了俊は冬資を暗殺してしまったのです。


 これには氏久も烈火のごとく怒りました。面目丸潰れでした。「このような卑怯な大将に従ういわれはない」とさっさと陣払いし、本国へ帰ってしまいました。


 以後氏久は、九州探題と敵対します。了俊の身から出た錆でしたが、これで早期の九州統一は不可能になりました。

 今川了俊は、島津の内紛を誘うため兄師久を懐柔しようとしますが、さすがに島津一族、これを撥ねつけます。内部では争っても外敵には共通であたるという強い決意を持っていたのでしょう。総州家・奥州家の協力関係は師久が死んで子の伊久が継いでも変わりませんでした。

 1376年今川了俊は、島津氏を討伐するため日向に侵入しました。が、氏久は寡兵をもって蓑原の合戦で今川の大軍を撃破(一説では痛み分け、ただ今川軍は損害が大きく撤退したとも?)、領国を守り抜きます。
 
 了俊は氏久の大隅守護を解任、嫡男義範を派遣して大隅国に侵攻させました。氏久は粘り強く抵抗しますが島津氏と旧来から敵対していた国人が今川方に付く状況をみて、ようやく和睦します。


 これで一安心した島津家でしたが、外敵の脅威がなくなると内輪もめをするのは歴史の習いかもしれません。

 1376年、氏久60歳で死去。嫡流総州家は伊久、奥州家は元久が当主となりました。嫡流総州家は当主伊久とその子守久が家督を巡って骨肉相食む争いを始めていました。

 元久はこれを調停すべく奔走しましたが、あろうことか伊久は憎っくき息子に継がせるよりはと、従兄弟の元久に総州家の家督を与えたのです。

 驚くべき親子喧嘩でした。これで嫡流の地位を失った守久は激しく怒り、抗争を激化させます。一方棚ぼたで嫡流を継いだ元久は、室町幕府からも薩摩・大隅両国守護に任じられます。

 泣きっ面に蜂の守久は、戦いに負け出水に引きこもり失意のうちに世を去りました。ただ長生きはしたみたいで1422年元久の弟久豊の子で宗家九代を継いだ忠国に攻められ海路肥前に逃れるという事件もありました。彼がどこで死んだのかは不明ですが、1430年守久の孫久林が忠国の急襲を受け自殺、ここに元嫡流、島津総州家は滅亡しました。


 総州家に代わって嫡流になった奥州家でしたが、元久も1411年陣没し彼の死後またしても家督争いが起こります。元久が後継者に指名していた甥の伊集院熙久を元久の弟(異母弟?)の久豊が追放し家督を継ぎました。


 島津宗家は以後、久豊の系統が続きます。この時代に島津氏の守護領国制はほぼ固まったとされます。幕府は強引な久豊を嫌いましたが、ほかに薩摩・大隅の守護適任者がいなかったので渋々認めた形でした。

 後編では恒例の島津兄弟の争い、その後の宗家の弱体化、伊作島津家の台頭、島津四兄弟の活躍を描きます。

 


 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

奥平 昌能

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奥平昌能は下野国宇都宮藩の第2代目(最後)の藩主

【奥平信昌】【本多忠勝】【鳥居元忠】の曾孫で【徳川家康】の玄孫ですw

出羽国山形藩の初代藩主でもあるんですよw

寛永10年(1633年)7月21日宇都宮藩主奥平忠昌の長男として誕生しますw

お母サンは山形藩主鳥居忠恒の妹桂岳院サンで幼名は「千福丸」なんですw

ちなみに…我が儘放題に育てられ正確は粗暴で…「暴君」的だったんです!

寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します…

寛永17年(1640年)10月28日父忠昌と一緒に3代将軍徳川家光に拝謁しますw

正保3年(1646年)11月9日に元服し「昌能」と名乗りますw

正保5年(1648年)12月12日将軍世継徳川家綱の傅役に命じられます!!

この時白河藩主榊原忠次(榊原康政の孫)も一緒に任命されてます!

ちなみに…昌能は15歳で…榊原忠次は43歳…この年齢差は何なんでしょう?

慶安4年(1651年)4月20日3代将軍徳川家光が享年48歳で死去します…

明暦3年(1657年)正月18日明暦の大火で上屋敷と中屋敷が焼失します…

寛文3年(1663年)幕府が「殉死」を禁じます!!

寛文8年(1668年)2月19日父忠昌が享年61歳で死去します…

そんで35歳で家督を継ぎ従五位下・大膳亮に叙任します!!

生涯正室(奥サン)を持たなかったんです…
この時の奥平家は長篠の戦いで武勲を挙げた曽祖父奥平信昌や幕府創成期に幕府宿老として活躍した大叔父松平忠明の多大な功績で「将軍家御連枝」と言う譜代中の譜代とも言える家柄だったんで影響力はかなり大きいものがあったんです!!
寛文8年(1668年)3月2日父忠昌の法要を菩提寺興禅寺で営みます!

その時に事件が起るんです…

重臣の奥平内蔵允(文治派)と奥平隼人(武断派)が些細な事から口論となります!!

実は普段から奥平隼人は奥平内蔵允を馬鹿にしてて仲が悪かったんですよ…

この時も屈辱的な事を言われても最初は我慢してたんですが…我慢も限界に達して

怒り爆発の奥平内蔵允が大勢の目の前で奥平隼人に抜刀して切り掛ったんです!!

でも…武断派の奥平隼人はかなりの腕前で奥平内蔵允を返り討ちにしちゃうんです!!

2人は其々親戚宅に預けられる事になったんです…ちなみにこの2人…従兄弟同士です!!

でもその日の夜に…奥平内蔵允は切腹しちゃいます…

重臣達からは「喧嘩両成敗」に基づく早期の「処分言渡し」を要請されるんです…

でも普段から武断派の奥平隼人の事を贔屓してたから処分を先送りにしてたんです!

この処分を下す事に正直…面倒臭いって思ってたんですよ…

そんな中でまた別の事件が起きます!!

父忠昌の忠臣杉浦右衛門兵衛が父忠昌の死去に際して「殉死」しようと思ったんですが…

当時幕府は「殉死」を禁じてたんで思い留まったんですが…ある日…

御前に罷り立た杉浦右衛門兵衛に悪い冗談をポロっと言っちゃいます!!

『あれ?まだ生きていたのか…』

杉浦右衛門兵衛は号泣の末その日の内に切腹しちゃうんです!

幕府が禁止する「殉死」を行ったと言う事で杉浦一族には斬刑・追放等厳しい処分が断行!!

この一件でさらに家臣達の不満が積もり出すんです…

寛文8年(1668年)9月2日ついに刀傷事件の処分を言い渡します!!処分内容は…

奥平隼人は国外追放…奥平内蔵允の長男源八と弟正長は家禄没収の上で即日国外追放…

本来喧嘩両成敗なら奥平隼人は切腹じゃないとつりあわないんです!

それに奥平源八らは持つ物も持たぬ状態で即日追放したんだけど奥平隼人には厳重な護衛を付けて直参旗本大久保助右衛門の屋敷迄送り出したんです!

この処分に多くの家臣が不満が爆発し…ついには多数の家臣が立ち去ってます…

寛文9年(1669年)4月幕閣の耳に入り…出羽国山形9万石に減移封されるんです…

普通なら改易だけど将軍家御連枝で4代将軍傅役だったんで軽い処分で済むんです!

寛文9年(1669年)7月3日奥平源八一党が奥平隼人の弟主馬允を暗殺します!!

襲撃を予想してた奥平隼人は市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭戸田七之助の屋敷へ身を隠します!!

山形移封後…慣れない気候に体調を崩し寝込む事が多くなります…

寛文11年(1671年)に伊達騒動が起きます!
寛文12年(1672年)2月3日未明に奥平源八一党42名が奥平隼人の戸田屋敷へ討ち入ります!!
そんでチャンチャンバラバラの末に奥平源八が奥平隼人を討ち果たすんです!

その後源八一党は幕府に出頭します!

大老井伊直澄は奥平源八の殊勝な態度に感銘して死一等を減じて伊豆大島流罪を命じます!

これが有名な『浄瑠璃坂の仇討』です!

ちなみに…奥平源八はこの6年後に天樹院(千姫)13回忌追善法要による恩赦で彦根藩井伊家に召抱えられてるんです!

寛文12年(1672年)閏6月25日危篤に陥るんです…

でも…この時長男千福丸は生後すぐ亡くなったんで跡継ぎがいなかったんですよ…

断絶してた重臣の名跡を継がす為に貰い受けてた甥小次郎(5歳)に白羽の矢が!!

寛文12年(1672年)7月1日家臣島田某が甥小次郎を伴い老中へ養嗣子願いを内申!

この時点で末期養子の条件を満たしてなかったんだけど…

裏取引的な事とかいろいろ大人事情もありつつも何とかその日の内に内諾を得ます!!

寛文12年(1672年)7月2日享年41歳で死去します…

でも…まるこ的には…危篤に陥った時点で実は死去してたと思います…

甥小次郎は「昌章」と改名し3女菊姫(9歳)の婿養子となって家督を継ぐんです…

実際【改易】にはならなかったけど嫡流が断絶してるんで今回アップしました!

★☆★ちなみに…下画像は曽祖父奥平信昌の肖像画で昌能じゃないです!★☆★


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日向伊東一族



 日向伊東氏は、鎌倉時代、曽我兄弟の仇討ちで殺された工藤祐経の子孫と言われています。鎌倉時代、日向の地頭職を得て下向、土着したそうです。ただ宗家は関東に残っており、南北朝時代、足利尊氏の正室赤橋(北条)登子の所領である穆佐院を守るため、尊氏の命で伊東祐持が下向。都於郡三百町を賜ったのが日向伊東氏初代となった経緯だそうです。

 南北朝時代の1336年、足利一門の畠山直顕が日向守護として下向します。伊東氏ら日向の豪族もこれに従い南九州の南朝勢力と戦いました。しかし、1351年中央で尊氏・直義対立(観応の擾乱)が起こると事態は複雑怪奇な方向に進みます。
 直義支持派の畠山直顕と、尊氏支持派の薩摩守護島津氏が対立し戦端を開きます。両派は生き残りのために南朝に付いたりして離合集散を繰り返しました。こうなってくると、それぞれが自分の所領を守るための戦いとなってしまい、北朝・南朝は関係なくなってしまいました。

 1352年、畠山直顕は日向諸将と大隈南部の豪族肝付氏を従え島津氏を討つべく大隈国に侵入します。一時は滅亡寸前に追い込まれた島津氏久は、なんと懐良親王の南朝に降伏しました。これによって宮方の援軍を得た島津軍がようやく加治木城から畠山勢を追い出すことに成功しました。

 幕府は、畠山と島津のどちらが味方か分からず豊後の大友氏や、九州探題の一色氏に問い合わせたそうです。これに対して大友氏は「文和元年以後はどちらが敵でどちらが味方かわからない」と答えたほどでした。

 このとき直顕は、飫肥城の伊東氏に援兵を求めますが、落ち目の畠山氏に反応は冷ややかでした。直顕は本拠の穆佐院高城に帰って再起を図ります。しかし、弱り目に祟り目で1358年、宮方の菊池武光が薩摩の島津氏久に参陣を促して、日向に侵入しました。宮方の大軍を見て支えきれぬと見た直顕は三俣院高城に籠城します。これを宮方が猛攻しついに城は落ちました。畠山直顕父子は行方をくらまします。

 畠山氏没落後、日向守護には島津氏が補されました。しかし日向諸将はこれに反発し伊東氏は露骨に敵対します。伊東氏五代、祐尭は日向中部から島津氏の勢力を撃退しました。島津氏と結んでいた土持氏を下すと伊東氏は日向において急速に強大化します。その子、六代祐国の代にはほぼ日向一円を制圧、幾つかの内訌の末、1536年十代義祐が佐土原城で家督を継ぐころには四十八の支城を日向全土に張り巡らせ全盛期となりました。

 義祐は、大隈の肝付氏と同盟し島津氏を攻めます。日向における島津氏の最後の拠点、飫肥城を攻略し悲願の日向統一を成し遂げました。しかし晩年、奢侈と中央の京文化に溺れ衰退します。そしてようやく国内を統一した島津氏は1572年、木崎原の合戦で逆襲します。島津義弘は十倍以上の伊東勢を完膚なきまでに破りました。1577年には、島津氏の攻勢に耐えかねて義祐は逃亡します。三男祐兵は京に上って羽柴秀吉に仕えました。

 1587年、九州征伐で道案内役を務めた功により祐兵は再び飫肥城主に返り咲きます。1600年の関ヶ原でも東軍に組し5万7千石の所領を安堵されました。飫肥藩伊東氏は幕末まで続きます。なお、天正遣欧使節の一人、伊東マンショは義祐の孫にあたります。

 
 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

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足利氏一族


 lefty0210さんから疑問がでたので、室町幕府将軍家足利一族について簡単に紹介します。

 足利氏は八幡太郎義家の三男、源義国から始まります。義国は下野国足利庄を領有、子孫は足利氏を称しました。義国の長子、義重は渡良瀬川対岸の上野国新田郡を開発、新田庄を形成、新田氏の祖となります。

 足利庄を継いだのは次男の義康でした。新田氏、足利氏はともに義国流源氏の名門として並び立っていたのですが、両者に差がついたのは頼朝挙兵に対する態度でした。義康の子、義兼が1180年の挙兵以来、頼朝に付き従って側近として仕えたのに対して、新田氏は平家との深いつながりから、頼朝の再三の参陣要請を無視、中立を保っていました。やっと参陣したのは頼朝が関東を制した後でした。
 これにより頼朝に叱責された新田氏は、幕府内で重要な地位を与えられず無位無官に甘んじなければなりませんでした。その恨みが新田義貞挙兵につながりました。

 一方、足利氏は幕府有力御家人として幕府内で重きを置きました。北条氏が執権として実権を握ったあとも、源氏の名門である足利氏を無視できず姻戚関係を結んで取り込みます。
 足利氏は三河という東海道の要地の守護に任ぜられ、三河国は足利氏の第二の本拠地となります。細川・仁木・今川・一色・吉良の地に領地を持った一族はその地名を氏にします。
 他に畠山・斯波・桃井なども有力な足利一門です。こうしてみると、室町幕府の有力守護が皆足利一門出身であることが分かります。

 一方、山名・里見は新田源氏です。しかし、早くから宗家を見限り足利氏についたため準一門という扱いでした。
 俗に三管領四職と言われる室町幕府の重職を出す守護大名家がありますが、管領に交代で任ぜられた斯波・細川・畠山はみな足利一門。侍所頭人を出す四家のうち赤松・山名(これは準一門扱い)・京極(近江源氏佐々木氏)とともに足利一門の一色氏が入っています。

 これらの諸家は、室町時代を通して有力大名として存在します。しかし実力が物をいう戦国時代に入ると没落し、大名としてかろうじて残ったのは細川氏だけでした。細川氏も嫡流の細川京兆家(頼之・勝元をだした)は滅び、傍流の細川藤孝の家系が残ったのみですので実質はあまり変わりません。(思い出しました。京極氏も一時没落しますが高次の代に大名として残り幕末まで続きました。)

 こうして見てくると、名門が長期にわたって生き残っていく難しさを感じます。少なくとも万世一系で千数百年の歴史を持つ皇室は凄いと思います。
 
 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

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