『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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宇都宮 国綱

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宇都宮国綱は下野国宇都宮藩の最初で最後の藩主

摂関家【藤原北家道兼流】を称する名門宇都宮氏の22代目嫡流ですw

常陸侍従【佐竹義宣】の義兄でもあるんですよw

永禄11年(1568年)宇都宮城主宇都宮広綱の長男として誕生しますw

お母サンは常陸の戦国大名佐竹義昭(佐竹義宣祖父)の娘南呂院サン(女)ですw

幼名は「伊勢寿丸」なんですよw

永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

永禄12年(1569年)次弟朝勝が誕生しますw

元亀元年(1570年)4月織田信長が越前朝倉征伐を開始します!!

元亀2年(1571年)10月3日北条氏康が享年57歳で死去します…

元亀3年(1572年)3弟高武が誕生し有力家臣芳賀高継の養嗣子になりますw

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…

天正4年(1576年)8月7日父広綱が享年32歳で死去します…

そんで僅か8歳で翌日「宇都宮氏22代目」を相続しますw

でも…幼かったんで母南呂院が実兄佐竹義重の援助を受けて後見人になるんです!

この時伯父佐竹義重の養女(佐竹義久娘)と結婚しますw

だけど北条氏政や下野国内の反対勢力(壬生氏・皆川氏)が攻勢を強めて来るんです!!

天正5年(1577年)10月水谷勝俊の仲介で次弟朝勝が結城晴朝の養子となります!

これで宇都宮・佐竹・結城の三国同盟を結び北条氏政に対抗するんです!!

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正6年(1578年)三国同盟軍が常陸に侵攻して来た後北条軍を撃退します!!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いに勝利します!!

義父佐竹義重の勧めで羽柴秀吉と誼を通じていますw

天正11年(1583年)3月羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いに勝利します!!

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起ります!

天正13年(1585年)義父佐竹義重と一緒に出陣し那須資晴・壬生義雄らを攻めます!

これを受けて北条氏政が本格的に下野国侵攻を開始するんです…

天正13年(1586年)11月17日義父義重が奥州諸大名と連合し伊達政宗と戦います!!

天正14年(1586年)九州征伐が行われます!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)12月豊臣秀吉が関東・東北に「惣無事令」を発布します!

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正16年(1588年)再び皆川領に侵攻を開始するけど「惣無事令」の前に撤退します!

その間も北条氏政の猛攻は止まず鹿沼城・真岡城・壬生城等の支城が次々と落城します…

天正17年(1589年)6月5日摺上原の戦いで義弟蘆名義広が伊達政宗に大敗します!!

天正17年(1589年)11月後北条軍の猛攻の前に宇都宮城を脱出します…

そんで一時義父佐竹義重の元に移り豊臣秀吉の救援を求めるんです!

天正18年(1590年)小田原征伐が開始され早々に参陣します!

そんで石田三成指揮下に入り武蔵城や忍城攻撃に参陣するんです!

戦後に豊臣秀吉に謁見して下野国18万石を安堵され従五位下・下野守に叙任しますw

でも…結城家に徳川家康の次男秀康が養嗣子入りします!!

そんで次弟朝勝の結城氏の家督相続権が消滅しちゃうんです…

そんで次弟朝勝は失意の内に実家である宇都宮家に戻って来るんです…

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では名護屋城に在陣します!

その後に豊臣姓を賜り従四位下・侍従に昇任しますw

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!

この頃…子供(跡継ぎ)がいなかったんで五奉行筆頭浅野長政の3男長重を養子として迎えようとします!でも…密かに宇都宮宗家の家督を狙っていた3弟高武が猛反対します!!そんで推進派の宇都宮家重臣今泉高光を殺害しちゃうんです…これを知った浅野長政は激怒して豊臣秀吉に石高不正等いろいろと讒言するんです!そんで…

慶長2年(1597年)突然【改易】を命じられ宇喜多秀家預りとなります…

次弟朝勝は義弟佐竹義宣の元に移り宇都宮家再興に尽力するんです…

そんで…豊臣秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との内諾を受けるんです!

喜んで宇都宮氏旧臣に声を掛けて朝鮮に渡航し大活躍するんですw

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)待望の長男義綱が誕生しますw

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長3年(1598年)10月順天城の戦いでも大活躍するんです!!

慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名で撤退命令が下り帰国します!

帰国時…国内の状況が全くわかんない状態でしたが…

宇都宮家再興は約束した豊臣秀吉の死によって反故になっちゃうんです…

ショックで落ち込んでた時に徳川家康に声を掛けられます!!
「東軍に加担してくれたら宇都宮家再興を影ながら応援したい」と…でも丁重にお断りするんです!
次弟朝勝の結城家追放の一件があったから徳川家康の事を嫌ってたんです…

その後も宇都宮家再興を願って各地の宇都宮家傍流等を廻り諸国を流浪します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が起きます!

慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされるけ丁重に拒否します!!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

この時次弟朝勝は上杉景勝に味方して白河城入りしてるんです!そんで義弟佐竹義宣と上杉景勝の秘密同盟の仲介をしたりしたんです!!さらに宇都宮家旧臣に対して下野国内で挙兵し東軍を攻撃するように指示してるんです!!

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦いで東軍が勝利します!!

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…

慶長7年(1602年)5月8日西軍加担で義弟佐竹義宣が出羽国秋田に減移封されます…

そんで次弟朝勝も義弟佐竹義宣に従い秋田に移り「宇都宮姓」に戻ります…

この頃江戸に戻り宇都宮家再興嘆願活動を積極的に行うんです!!

慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます…

慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長12年(1607年)11月22日江戸浅草石浜にて享年40歳で死去します…

関ヶ原合戦で東軍加担を拒んだ事が理由で御家再興は叶わなかったんです…

戒名は「大昌院心翁浄安」です…

その後…長男義綱は成人後に水戸藩に仕え代々藩重臣として存続したんです…

★☆★ちなみに…下画像は6代目宇都宮貞綱の銅像で国綱じゃないです!★☆★


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 秀吉が反抗した薩摩の島津氏を討つべく20万の大軍を動員して九州に入ると、宇都宮鎮房・朝房父子は初め島津方に付いてこれに抵抗します。しかし朝房の正室の父である筑前古処山城主秋月種実が上方のきらびやかな軍に肝を潰し降伏すると、父子もこれに続きその後の九州攻めに従軍します。

 いや父の鎮房は病と称し出陣せず、嫡子朝房のみの参戦でした。


 九州平定がなると、秀吉は城井谷を含む南豊前九郡12万石を黒田孝高(号して如水)に与えます。城井一族は父祖の地を召しあげられ代りに伊予において今治12万石を与えるという命を受けます。あるいは上筑後200町歩という説もあり、どうもこちらの方が正しいのかもしれません。

 伊予今治12万石なら、それを拒否してあれほどまで激しい抵抗をするはずがないからです。


 鎮房はこの申し出を拒否しました。城井一族は豊臣政権に反抗したということで領地を召しあげられ、一族は豊前小倉を賜った毛利勝信(中国の毛利氏とは別)の好意で領内に仮住まいさせてもらいながら機会を待ちます。


 ちょうどそのころ、肥後国で領主佐々成政の無謀な検地に反抗して国人たちが一揆を起こします。世にいう肥後国衆一揆です。成政は独力で一揆を鎮圧できず、秀吉は近隣の諸大名に鎮圧を命じました。


 豊前中津でも黒田如水が手勢を率いて出陣します。機会到来とばかり、止める毛利勝信の好意を謝して退出した城井一党は、わずかな守備兵しか残っていなかったかつての居城大平城を奪い返すとそこに籠城します。

 城井一族とてむろん勝てるとは思っていなかったでしょう。しかし武士の意地を貫きとおすための挙兵だったと思います。


 急報を受けた如水は、秀吉に報告し領地に帰って一揆を鎮圧する事になりました。というのも城井一族の蜂起をうけて、それまで冷遇されていた反豊臣分子が豊前全土で立ち上がったからです。


 如水は、毛利勝信、毛利輝元らの援軍を受け各地の一揆を鎮圧しました。しかし最後に残った大平城は名うての堅城、如水は大平城攻撃を躊躇します。

 ところが血気にはやった嫡子長政は、父の止めるのも聞かず飛びだし大平城に向かいます。が、地理に暗かったため、城井勢に城の近くまで引き込まれ伏兵を受け潰走します。このとき長政はあまりの恥辱に自害まで考えたそうです。


 これをとどめた如水は、戦略を変え持久戦に持ち込みます。兵糧攻めにあった大平城には次第に飢餓が訪れました。その時を待っていた黒田如水は、鎮房に和睦を持ちかけました。


 長政の嫁に13歳の鎮房の娘、鶴姫を迎える条件で開城を求めたのです。ひとまずの仮の講和でしたが、如水の警戒は解かれる事はありませんでした。


 天正16年(1588年)、再び如水はいまだ治まらない肥後の一揆鎮圧に加勢するため出陣します。このとき鎮房の嫡男朝房をわざわざ同行させたのには理由がありました。


 如水出陣からまもなくして、大平城に娘婿長政から中津城への招待状が届きます。「可愛い娘に会われませんか?」という内容でしたが、家中は罠だとして中津城訪問に反対しました。


 長政が「城井家の身の立つよう太閤殿下にお願いしてあるから、その挨拶に…」と執拗に誘ったため、罠と知りつつも鎮房は家臣四十名を引き連れて中津城に赴きました。


 長政は、鎮房と近親だけを城内に入れ他は郊外の寺で待機させました。長政は表向きは丁重に迎え饗応します。しかし宴たけなわの時
「誰か珍しき肴(さかな)を」
と言葉を発しました。それを合図に待ち構えていた黒田家臣たちが襖を開け斬りかかりました。

 鎮房は激しく抵抗したそうですが、多勢に無勢最後は後藤又兵衛の槍で息の根を止められました。


 間髪いれず、寺にいた城井家臣たちにも討手が向けられことごとく討ち果たされます。これこそ如水が出陣に際して息子長政に授けていた策でした。


 一つにまとまれば頑強に抵抗する鎮房、朝房父子を分けて別々に討ちとろうというのです。


 報告はすぐさま肥後にいた如水のもとに届けられました。如水は、朝房の宿舎を夜中に囲むと火をつけて一気に焼き殺します。翌朝、あまりの惨状に驚いた加藤清正が無残に焼け爛れた朝房主従の遺体を丁重に葬り、地元の神社に祀ったそうです。奇しくもそこは肥後木葉(現熊本県玉東町)。かつての肥後宇都宮氏の所領でした。神社は宇都宮神社といいます。


 城井一族の悲劇はなおも続きました。長政は軍を発して主のいなくなった大平城を襲い、一族郎党ことごとくを惨殺します。そして13歳の妻、鶴姫さえ侍女とともに磔にするという惨たらしさでした。


 騙し騙されるのが戦国の習いとはいえ、あまりにも後味の悪い事件でした。一揆鎮圧の大義名分があるにしても他にやりようがなかったのか後世の我々は考えてしまいます。


 この事件は黒田如水生涯の汚点となります。そして城井一族惨殺を後悔したのか、黒田家はその後怨霊に悩まされるようになるのです。如水は中津城内に鎮房を祀る城井神社を建て、平伏して罪をわびたそうですが、手遅れでした。

 城井神社は黒田家が筑前転封になった時も福岡城に移されたそうですから、よほど気にしていたのでしょう。直接の祟りは実行犯の長政に向ったそうですが、小早川秀秋みたいに発狂しなくて幸いでした。


 戦場で裏切った秀秋よりこっちの方がよほど残酷でしたが…。精神的には長政の方がはるかにタフだったのかもしれません。


 ところで一族皆殺しにあった城井宇都宮一族のうち、朝房の若妻竜姫だけが実家の筑前秋月家に逃れました。彼女は身籠っており生まれた子供は宇都宮朝末(ともすえ)と名乗ります。祖父の秋月種実に引き取られ、その後子孫は越前松平家に仕え700石を拝領、家系を残したと伝えられています。
 

転載元転載元: 鳳山雑記帳



 栃木県県庁所在地の宇都宮市。その語源は日光二荒山神社を当地に勧請して「現の宮」、「遷しの宮」と称したことから始まったとも、二荒山神社の別号「「宇津宮大明神(宇都宮大明神)」に由来するとも言われています。


 藤原氏と称する一族が二荒山別当、宇都宮二荒山神社座主に任じられ、その地名を取って宇都宮氏を名乗りました。神社の大宮司家が武士団化するのは諏訪、阿蘇など枚挙にいとまありませんが、宇都宮氏も同じケースでした。

 宇都宮氏初代、藤原宗円は平安時代末期の人で、前九年の役の戦功で二荒山神社座主の地位を得たと伝えられます。


 また宇都宮氏は、日本全土に一族が分布する事でも有名です。ちょっと調べれば皆さんの住んでるところにも宇都宮氏の痕跡を発見することができるはずです。


 宗家の下野(栃木県)宇都宮氏のほかに、豊前宇都宮氏(城井氏)、筑後宇都宮氏(蒲池氏)、伊予宇都宮氏などが有力支族です。


 今回紹介する豊前宇都宮氏は、鎌倉時代に宗円の次子、伊豆守宗房が豊前国中津郡城井郷(福岡県みやこ町)に地頭職として赴任したことが始まりとされ、土地の名前を取って城井宇都宮氏と称します。

 宗円が前九年の役、宗房が鎌倉初期でかなり時代が合わないような気がしますが、家系伝説がそうなっている以上仕方ありません。

 宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人でしたから、宗房の子信房などは豊前守護に任じられています。


 城井宇都宮氏は、調べてみると宗家に次ぐ家格を保っていたようで何度か本家下野宇都宮家の家督争いの裁定をした記録が残っています。

 15代正房の時、下野宇都宮氏の家督相続について嫡子長房を赴かせて解決にあたらせているそうですし、その際本家の養嗣子を豊前に迎えて養育し、成人まで養育し再び下野に帰すなどしています。また伊予宇都宮家に後継ぎがいないときは、豊前宇都宮家から子供を送って後継ぎにしています。


 この宇都宮一族の団結力には驚かされます。城井宇都宮家でも、山田、野中、深水、那須など多くの支流が発祥し豊前各地に散りました。


 その本拠城井谷は、霊峰求菩提(くぼて)山、国見山、寒田の峰に囲まれた渓谷で、13代興房が築いた大平城は難攻不落の城塞として近隣に鳴り響いていました。



 戦国時代に入ると、大内、大友、竜造寺の侵攻を受けますが時には大内に、時には大友に属しながら豊前中部を中心に一族結束して本領を守り抜きました。


 城井宇都宮氏はこのまま伝統を受け継ぎ、消長を繰り返しながらも生き残り続けるかに思えました。が、その運命を大きく変えたのは豊臣秀吉による九州征伐とその後の論功行賞でした。



 後編では、城井宇都宮鎮房の苦悩、一族を襲った惨劇、滅亡を描きます。



 

転載元転載元: 鳳山雑記帳

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木下 利房

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木下利房は若狭国高浜藩の最初で最後の藩主

豊臣秀吉の正室北政所の実兄木下家定の次男で【小早川秀秋】の実兄ですw

天正元年(1573年)羽柴秀吉正室北政所の兄木下家定の次男として誕生しますw

ちなみに…一説に兄勝俊と一緒に若狭武田家当主武田元明の子とも伝わってます!

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中で享年52歳で病死します…

元亀4年(1573年)7月に15代将軍足利義昭が織田信長に追放されます!

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日叔父秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで叔父秀吉が勝利します!!

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが起きます!

天正13年(1585年)弟秀俊が叔父秀吉の養子に入り「羽柴秀俊」と名乗ります!

天正13年(1585年)7月11日叔父秀吉が「豊臣姓」を賜り関白に就任します!

天正13年(1585年)父家定が姫路城主となり「豊臣姓」を下賜されますw

天正13年(1585年)四国征伐が行われます!

天正14年(1586年)12月25日叔父豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)九州征伐が行われ初陣します!

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正18年(1590年)小田原征伐が行われ従軍します!

この頃に伊勢津藩主織田信包の娘サンと結婚しますw

天正19年(1591年)1月22日叔父豊臣秀長が享年51歳で死去します…

天正19年(1591年)8月5日従兄弟豊臣鶴松が享年3歳で死去します…

この頃に若狭国高浜2万石を拝領し従五位下・宮内少輔に叙任しますw

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で肥前名護屋城に在陣します!

文禄2年(1593年)8月3日従兄弟豊臣秀頼が誕生しますw

文禄3年(1594年)弟秀俊が小早川隆景の養子となり「秀秋」と改名しますw

文禄3年(1594年)9月に義父織田信包が勤務怠慢で改易されます…

そんで世間体を気にして子供もいなかったんで奥サンと離婚します!!

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

文禄5年(1596年)9月叔父豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!

慶長2年(1597年)肥前名護屋城に再び在陣します!

この頃に宇喜多秀家の家臣進藤正次の娘サンと再婚しますw

慶長3年(1598年)8月18日叔父豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!

大谷吉継らの誘いを受けて西軍に味方するんです!

叔母高台院(北政所)より東軍加担を勧める書状や使者が来て悩み捲るんです…

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

でも…積極的な軍事行動は一切とらなかったんですよ…

慶長5年(1600年)7月17日伏見城守備中の兄勝俊が西軍到来で逃亡します…

慶長5年(1600年)8月3日西軍方の加賀大聖寺城が東軍前田利長に攻められ落城!!

そんでその奪還を謀る大谷吉継に援軍を送ったんです!

でも表向きは中立的な態度を取ってたりもしたんですが…

慶長5年(1600年)10月21日の関ヶ原の戦いで東軍が勝利します!

弟小早川秀秋の西軍への裏切りが東軍の勝利を決定付けたんです!!

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らも斬首されます…

大谷吉継に援軍を送った事が発覚して【改易】となるんです…

この時兄勝俊と弟達(俊定・秀規・延貞)も西軍加担等を理由に改易になってます…

逆に父家定は徳川家康に賞賛され備中国足守2万5千石の所領を与えられます!!

そんで兄勝俊と一緒に父家定を頼って生活したんです…
弟小早川秀秋は関ヶ原の戦いでの活躍により備前国岡山55万石を拝領します!すぐ下の弟延俊は終始東軍として活躍して豊後国日出3万石を拝領しています!

慶長7年(1602年)12月1日に弟小早川秀秋が享年21歳で死去します…

同じ日に弟2人(俊定・延貞)も同じ場所で亡くなってるんですよ…

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日従兄弟豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生じます…

慶長8年(1603年)待望の長男利當が誕生しますw

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

徳川家康が従兄弟秀頼との会見を求めるけど淀殿が拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と従兄弟秀頼が面会します!!

慶長12年(1607年)次男利次が誕生しますw

慶長13年(1608年)10月4日父家定が享年65歳で死去します…

叔母高台院らの周旋で遺領足守藩2万5千石を安堵されます!!でもその遺領と家督を巡って兄勝俊と大規模な兄弟喧嘩争いをしちゃうんですよ!この事が大御所徳川家康の怒りにふれ備中国足守藩は【改易】にされちゃうんです…

慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が追放されます!!

従兄弟秀頼や弟秀規から大坂城入りを頼まれるけど拒否します!!

慶長20年(1614年)からの大坂の陣には幕府方として参陣し活躍します!!

慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

元和元年(1615年)大坂の陣での活躍で備中国足守藩2万5千石は再度拝領されますw

そんで旧領にて改易前と同じ石高で大名として復活したんですw

豊臣家(羽柴家)断絶を惜しむ叔母高台院の依頼で次男利次を高台院の養子にします!

元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…

元和3年(1617年)から長男利當が幕府に仕え出します!

寛永元年(1624年)9月6日叔母高台院(北政所)が享年77歳で死去します…

そんで次男利次は「木下姓」に戻り遺領の内3千石を相続し大身旗本となります!

寛永9年(1632年)1月24日に大御所徳川秀忠が享年53歳で死去します…

寛永14年(1637年)6月21日に享年64歳で死去します…

そんで家督は長男利當が継ぎ以降12代に渡り同地を治め明治維新を迎えていますw

★☆★ちなみに…下画像は叔母高台院の肖像画で決して利房じゃありません!★☆★


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蘆名 義勝

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蘆名義広は常陸国江戸崎藩の最初で最後の藩主

常陸の戦国大名【佐竹義宣】の実弟ですw

【会津守護】として東北地方に絶大な勢力を持った名門蘆名氏の末裔ですw

「みちのくの小京都」と呼ばれる角館の基礎を築いた人物ですw

天正3年(1575年)常陸の戦国大名佐竹義重の次男として誕生しますw

お母サンは奥州探題伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の娘サンで幼名は「喝食丸」ですw

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正7年(1579年)白河結城氏小峰義親の養子となりますw

天正8年(1580年)6月17日蘆名盛氏が享年60歳で死去します…

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いに勝利します!!

天正11年(1583年)3月羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いに勝利します!!

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起ります!

天正12年(1584年)10月6日会津の戦国大名蘆名盛隆が享年23歳で暗殺されます…

そんでその長男亀王丸が1歳で家督を相続し伯父にあたる伊達輝宗が隠居して亀王丸を後見します!!ちなみに…伊達家の家督を18歳で相続したのは相続したのが「伊達政宗」だったんです!!

天正13年(1585年)10月8日伊達輝宗が享年42歳で死去します…

伊達政宗の軍事行動が活発化し実父義重が危機感を募らせます…

天正13年(1586年)11月17日実父義重が奥州諸大名と連合し伊達政宗と戦います!!

「人取橋の戦い」って言い戦闘では圧倒的に連合軍が勝利するけど…うやむやに終ります…

天正14年(1586年)九州征伐が行われます!

天正14年(1586年)11月21日蘆名亀王丸が享年3歳で死去します…

そんで跡目相続を巡り実父義重と伊達政宗が争うようになるんです!!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)小峰義親の養子縁組を解消し蘆名盛隆の娘サンと結婚しますw

そんで「蘆名義広」と名乗り会津蘆名氏20代目を継承するんです!

でも…この時まだ12歳だったんで家臣団を纏める事が出来なかったんです…
蘆名家は天正8年(1580年)の蘆名盛氏の死去以来主家に不満を持つ者や伊達家に内通する者…常陸佐竹家からの養子である義広に不満を抱く者等が不満が爆発寸前でした…
天正15年(1587年)12月豊臣秀吉が関東・東北に「惣無事令」を発布します!

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正16年(1588年)実父佐竹義重主導で奥州諸大名と連合し伊達政宗と戦います!!

でも…この時は連合軍の士気が上がらず伊達軍が勝利するんです…(郡山合戦)

天正17年(1589年)6月5日摺上原の戦いで伊達政宗に大敗します!!

そんで黒川城に逃げようと思ったんですが…逃げ道を伊達軍に封鎖されちゃいます!!

仕方が無く実家の常陸国に落ち延びるんです…

実父義重は豊臣秀吉に早くから誼を通じてたんで…旧領回復をお願いしてくれてました!

天正18年(1590年)小田原征伐・奥羽征伐が行われます!!

そんで実父義重・実弟義宣と一緒に豊臣秀吉に謁見してますw

伊達政宗は占領中の旧領会津を没収されるけど蒲生氏郷に会津が与えられ期待が外れ落ち込みます…

でも…代替地として常陸国江戸崎4万5千石を拝領するんです!

この頃より名前を「義広」⇒「盛重」に改名しますw

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では名護屋城に在陣します!

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!

実兄義宣は石田三成の親友だったんで西軍に味方しようとします!

でも…実父義重が東軍加担を主張し実家佐竹家は大揺れするんです!!

結果として中立の立場を取る事になったんで…それに従い同じく中立の立場を取ります!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦いで東軍が勝利します!!

徳川家康に戦勝祝いの使者を送ったり機嫌取りをしますが…沙汰無しの日々が続きます…

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…

慶長7年(1602年)5月8日西軍加担を理由に【改易】となるんです…

同じ日に実兄佐竹義宣も同じ理由で出羽国秋田に減移封となります…

態度を明確にしなかったって事は西軍に加担したと同じって判断されたんです…

そんで実兄義宣と一緒に秋田に移ります…この時「盛重」⇒「義勝」に改名します…

この時実兄義宣から将来的な蘆名家再興の為に仙北郡角館1万6千石を分地されますw

慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます…

改易されてからの間…ずっと幕府に対して蘆名家再興活動を行います!!

慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…

慶長17年(1612年)4月19日実父佐竹義重が享年66歳で死去します…

慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が追放されます!!

慶長20年(1614年)からの大坂の陣には実兄義宣に従い参陣します!!

慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…

元和6年(1620年)古城山南側に新たに町割を起こし城下を移転させますw
道路の幅を広げたりとか下水を整備し防火対策を施して武家地・町人地・寺社を配置したり内政面で成果を挙げますw

寛永8年(1631年)6月7日角館にて享年56歳にて死去します…

この時…跡継ぎ(子供)がいなかったんで一時的に名門蘆名家は断絶するんですが…

側室安昌院は妊娠中でした…誰もが生まれてくる子供の性別が気になりました!!

そんで4ヶ月後…

寛永8年(1631年)10月7日待望の長男盛俊が誕生しますw

これで蘆名家再興の願いは受継がれたんです!!

その後の蘆名家については…蘆名千鶴丸を参照下さいw

★☆★ちなみに…下画像は実兄佐竹義宣の肖像画で義勝じゃないです!★☆★


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