『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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 マニアックな前記事の続きです。前の記事で細川氏は守護にはなったものの土佐には土着せず長宗我部氏に守護代的な役割を与えて間接支配していたと書きました。
 
 事実、長宗我部氏は南北朝時代の当主信能(のぶよし)が細川顕氏につき従い長岡郡八幡山東坂本で南朝方と戦ったと武家家伝にありますから細川方の有力武将であったことは間違いないと思います。
 
 信能はその功績で土佐国内に大桶郷・吉原地頭職、朝倉領家・深淵郷・介良庄中塩田など総計総計千百三十四町を与えられたとされますから、これが長宗我部家発展の基礎になったのでしょう。
 
 その子兼能も「細川氏から夢窓疎石の創建した吸江庵の寺奉行(俗別当)に任ぜられた」とありますからかなり有力武将であったと想像されます。
 
 一方、細川氏が土佐守護に任ぜられると一族の細川頼益(細川頼元の子。ただし頼春の子の右京大夫頼元とは別人。遠州家の祖)が守護代として入部し香美郡田村荘を領したと伝えられます。
 
 遠州家は頼益−満益−持益−勝益−政益−益氏と続いたそうです。しかし細川政益が土佐守護代を務めたのは1507年までだそうですから、この年は意味を持ちそうです。というのは細川京兆家(宗家)の政元が暗殺された年でもあるからです。
 
 次の益氏は守護代になった形跡がありません。そして1573年失領とあります。この年も丁度長宗我部元親の土佐統一戦の最中にあたります。
 
 政元の死とともに土佐守護代としての実権を失った遠州家は香美郡田村荘の一領主として細々と生き残っていたのでしょう。さらには守護代家といっても細川京兆家と結び付く長宗我部氏との力関係は微妙だったのかもしれません。遠州家は系図を見る限り細川一門でもかなり傍流ですから。
 
 
 どちらにしろ細川遠州家の土佐支配は、宗家京兆家の威光あってのもの。それが失われた後は急速に没落していったのでしょう。最後は長宗我部元親に滅ぼされたのか?
 
 いやあ、土佐における細川氏の歴史が分かって良かったです(笑)。

転載元転載元: 鳳山雑記帳

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 ちょっとマニアックな記事で非常に恐縮なのですが、戦国時代の土佐でなぜ長宗我部氏が台頭したか調べていたんです。
 
 すると長宗我部氏はもともと南北朝時代から土佐守護細川氏の被官として活躍し、室町時代も細川家の威光を背景に土佐中央部に君臨し(守護代的立場か?)、権勢を誇っていた事が分かりました。
 
 細川家が中央の争いで土佐に構っていられない状況になった時、事件は起こりました。細川家の力を頼んで驕慢の振る舞いあった長宗我部兼序は土佐諸豪に憎まれていたため、連合して攻められ一時滅亡したのです。兼序が本山氏をはじめとする土佐諸豪に攻め滅ぼされたのが1508年。丁度後ろ盾だった管領細川政元が暗殺された一年後というのも象徴的ですね。以後土佐は細川氏の支配が及ばなくなり七人守護とよばれる土豪が台頭する戦国時代に突入したそうです。
 
 
 普通守護家がしっかりしていれば、たとえ勢力が衰えたとしても有力豪族の傀儡として命脈だけは続くものですが、どうも土佐では細川家自体が雲散霧消したような印象です。
 
 どういうことなのか調べたところ、歴代土佐守護は京兆家の当主が他の守護と兼任するか野州家や阿波細川家から入ったようで継続支配していたわけではないようです。とすれば長宗我部氏は土佐に土着しているわけではない細川氏の不安定な権力に依存していたわけで、脆弱な基盤しか持ち得なかったのでしょう。かといって守護代になれるほどの実力も無い。とすれば兼序時代の一時的滅亡はあり得べき必然だったのかもしれません。
 
 
 これは備中細川家にも言えるようです。一応備中に土着の勢力を築いていたようですが庄氏などの有力国人の力が強すぎて勢力を広げられなかったようです。さらには細川京兆家をはじめとする一族の介入もあり安定した勢力には成長できませんでした。
 
 
 また分かりにくいのは、細川野州家も備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めていたそうですからこちらとの力関係はどうなっていたのでしょう?ウィキなどで見ると野州家の細川政春(細川高国の実父)が備中守護を務めていますから、この時代には備中細川家はすっかり没落していたのかもしれません。
 
 政春の後、備中守護はしばらく任命されていないそうですから、備中もまたこの時以降戦国時代に突入したのでしょう。
 
 戦国時代尼子晴久に攻められて備中家最後の当主通政が伊予に逃亡したとありますから、細々ながらは生き伸びていたのでしょう。その後甥か子か不明ですが、通重という者が備中奪還を図りますが失敗、最後は毛利家に仕え幕末に至ったそうです。
 
 ウィキでは通政を野州家としていますが、この系図を信じる限り備中家です。
 
 
 
 こうして見てくると細川一族は多くの国の守護を務めましたが阿波・讃岐・淡路・和泉などを除くと継続支配はできなかったようです。これは他の守護家も同様で複数の守護領国を持つ大名でも大内氏などのように領地が隣接していなければその勢力を保つのは難しかったということでしょう。
 
 山名家の場合は隣接していたのですが、逆に一族での分割統治を徹底しすぎたため共倒れになったケースだと思います。

転載元転載元: 鳳山雑記帳

長船 定行

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長船定行は備前国虎倉藩の第3代目(最後)の藩主

【宇喜多秀家】の家老【長船貞親】の次男で【長船綱直】の実弟ですw

長船氏は備前国の銘刀工【長船】の一族が武士化したものなんですw

生年月日とかは不明なんですが…まるこ的仮定で…

元亀元年(1570年)頃に宇喜多氏家老長船貞親の次男として誕生しますw

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…

元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!

天正2年(1574年)再び宇喜多直家が浦上宗景に対し謀反を起して挙兵します!!

この時毛利元就と宇喜多直家は同盟を結んでたんです!

父貞親は宇喜多直家に従い大活躍します!

天正3年(1575年)9月宇喜多直家が浦上宗景を追放します!!

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正5年(1577年)羽柴秀吉が中国攻めを開始します!!

天正6年(1578年)4月18日からの上月城の戦いで父貞親が黒田孝高を撃破します!

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正6年(1578年)12月浦上残党が反宇喜多の一斉蜂起します!!

そんで父貞親らが鎮圧に努め大活躍します!

天正7年(1579年)5月宇喜多直家が織田信長派の後藤勝基らを攻め滅ぼします!!

天正7年(1579年)10月宇喜多直家が毛利家との同盟を破棄します!

そんで織田信長に従う事にするんです!!

天正9年(1581年)4月父貞親が伊賀久隆の居城だった備前国虎倉城を拝領しますw

天正9年(1581年)父貞親が羽柴秀吉の鳥取城兵糧攻めに従軍します!!

天正10年(1582年)1月9日宇喜多直家が享年53歳で死去します…

その後に宇喜多家の家督を継いだ宇喜多八郎(秀家)に仕え続けるんです!
この頃の宇喜多家は宇喜多三老と呼ばれた父貞親と戸川秀安・岡家利の3人の家老衆が主導で宇喜多秀家を補佐してたんですが…戸川秀安が隠居して長男達安に家督等一切を譲ります!!
ちなみに…宇喜多家名代として父貞親は安土城に赴き織田信長に謝礼を述べてますw

天正10年(1582年)5月8日からの備中高松城攻めに父貞親が従軍します!!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月4日羽柴秀吉と小早川隆景が休戦しますw

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利します!

天正12年(1584年)羽柴家と毛利家が正式に和睦しますw

そんで宇喜多秀家は備中東部から美作・備前を版図とする大大名となるんです!!

毛利氏に対する抑えとして羽柴秀吉より備中国虎倉2万5千石を拝領しますw

ちなみに虎倉城は叔母の旦那である石原新太郎を城代として任せてたんですw

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが宇喜多家名代として父貞親が参陣します!

天正13年(1585年)7月の四国征伐で宇喜多秀家に父貞親が従い出陣し活躍します!!

天正14年(1586年)宇喜多秀家は羽柴秀吉の養女豪姫と結婚しますw

この時前田家より豪姫に中村次郎兵衛と言う家臣が付き添います!

天正14年(1586年)九州征伐に父貞親が従軍し活躍します!!

この頃に宇喜多秀家の小姓となりますw

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これで室町幕府は正式に終焉を迎えます!

天正18年(1590年)小田原征伐に出陣し活躍します!!
天正19年(1591年)閏1月1日石原新太郎が父貞親を新年祝賀を行う為に虎倉城に招きます!
この時…兄綱直も誘われますが叔父石原新太郎と仲が悪かったので…少し遅れて虎倉城に向ったんですが…我慢してまで参加する事を嫌がって引き返すんです…

天正19年(1591年)閏1月5日父貞親は叔父長船源五郎親子らと虎倉城入りしますw

天正19年(1591年)閏1月6日一族の子供達が集まって碁を打ち出しますw

それを父貞親ら大人が取り囲んで見物してたんです…その時に…

叔父石原新太郎が離れた櫓から父貞親目掛けて鉄砲を放ちます!!

天正19年(1591年)閏1月6日父貞親が暗殺されます…

そこに石原家臣が雪崩込み虎倉城にいた長船一族全員が殺害されるんです…

石原新太郎はその後火を放ち自害します…父貞親の国政に不満を持ってたらしいんです…

そんで兄綱直が長船家の家督を継ぎ宇喜多秀家の家老となり大坂に常勤しますw

文禄元年(1592年)から文禄の役が行われます!!

文禄元年(1592年)9月23日宇喜多家執政岡家利が死去します…

そんで家老衆戸川達安が執政として宇喜多家領の国政全般を任されるんです!

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄3年(1594年)宇喜多家執政戸川達安が突然宇喜多秀家に解任されます!!

後任執政に兄綱直がなり…そんで大坂家老となってた中村次郎兵衛と連携しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!

慶長2年(1597年)6月12日小早川隆景が享年64歳で死去します…

慶長2年(1597年)10月9日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)1月宇喜多秀家が五大老の一人に任命されますw

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

この頃宇喜多秀家が朝鮮出兵で悪化した宇喜多家財政再建の為に重税を課そうとします!

これに一門衆宇喜多詮家や家老衆岡越前守・戸川達安・花房正成らが大反対します!!

さらに宇喜多秀家は家臣達にキリスト教に改宗するように命じてます!

ちなみに…宇喜多氏家臣団の多くは日蓮宗徒だったんで家中は騒然となります!!

そんで親長船・中村派と反長船・中村派に分かれて対立し出すんです!!

慶長4年(1599年)1月宇喜多家内で御家騒動を起します!!

慶長4年(1599年)1月末頃に兄綱直が反対派により毒殺されます…

そんで家督を継ぎ家老衆のひとりとなるんですが…

宇喜多秀家は騒動沈静化の為に騒動首謀者を戸川達安と決めてかかり暗殺を謀ります!!

でも一門衆宇喜多詮家が戸川達安を庇って大坂玉造邸に篭城します!!

今にも戦さが起りそうな一触即発の状況となるんですが…

徳川家康や大谷吉継の仲裁で御家騒動は終結し多くの家臣が宇喜多家を出奔します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!

慶長5年(1600年)5月宇喜多秀家が石田三成・上杉景勝らと密かに挙兵を計画します!!

慶長5年(1600年)6月2日会津征伐が発動されます!!

慶長5年(1600年)7月1日宇喜多秀家が豊国神社で出陣式を行います!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!!

この際宇喜多秀家は西軍副大将として挙兵し従軍します!!

慶長5年(1600年)7月19日伏見城攻撃に参陣します!

慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!

そんで東軍福島正則・加藤嘉明・井伊直政・本多忠勝ら総勢1万3千を何度も押返すんです!!

慶長5年(1600年)9月15日正午頃に小早川秀秋が西軍を裏切ります!!

脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら総勢4千も突如東軍に寝返ります!!

大谷吉継隊が壊滅し裏切隊がそのまま宇喜多軍に猛攻を掛けて来ます!!

宇喜多秀家自ら槍を振るって踏ん張るけど…3万もの敵を抑える事が困難になり…

慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に宇喜多隊は壊滅します…

その際宇喜多秀家は小早川秀秋の裏切りに激怒し単身小早川隊へ切り込もうとしますが…

明石全登と一緒に宇喜多秀家を制止し戦場を脱出させるんです…

慶長5年(1600年)9月15日午後2時頃に西軍が壊滅します!

でも…その後の長船定行の行方を誰も知らないんです…

その後子孫は帰農し代々「吉兵衛」を名乗り邑久郡長船村の名主として存続したんですw

★☆★ちなみに…下画像は主君宇喜多秀家の肖像画で定行じゃないですw★☆★

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斎藤 徳元

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斎藤徳元は美濃国墨俣藩の最初で最後の藩主

美濃の蝮と呼ばれた梟将【斎藤道三】の曾孫ですw

永禄2年(1559年)美濃国主斎藤氏一門斎藤元忠の長男として誕生しますw

ちなみに父元忠のお母サンは斎藤義龍の妹サンなんですよw

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…

永禄4年(1561年)5月11日伯祖父斎藤義龍が享年35歳で死去します…

そんで斎藤龍興が家督を継ぎます…

美濃斎藤家中で主導権を巡り対立が生じます…

永禄7年(1564年)竹中半兵衛が一時稲葉山城を占拠します!!

永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…

永禄9年(1566年)頃より斎藤家を離反し織田家に仕える者が増えます!

この時父元忠も織田信長に従属して2千石で召抱えられますw

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄10年(1567年)氏家ト全・稲葉一鉄・安藤守就の美濃三人衆が斎藤家を離反!!

これで稲葉山城が落城し斎藤龍興が美濃を追放されます…

永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

元亀元年(1570年)4月織田信長が越前朝倉征伐を開始します!!

これに怒った浅井長政は織田信長との同盟を破棄し全面対決します!!

元亀元年(1570年)6月28日に浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!

元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江に侵攻を開始します!!

元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します!

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…

この頃より小姓として織田信長に仕え出しますw

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

その際父元忠と一緒に羽柴方として従軍し大活躍しますw

そんで織田信長の嫡孫秀信に父元忠と一緒に仕えますw

その際に織田秀信より美濃国墨俣1万石を拝領し父元忠は織田家の代官を務めます!

天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いに羽柴方として参陣しますw

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも参陣し活躍します!

天正13年(1585年)四国征伐が行われます!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任w

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これで正式に室町幕府は終焉を迎えます!

天正18年(1590年)小田原征伐で活躍します!!

この時豊臣秀吉に気に入られ直臣として黄母衣衆(馬廻衆)に大抜擢されます!

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では名護屋城に在陣します!

その際に従五位上・左京大夫に叙任し「豊臣姓」を拝領しますw

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

再び織田秀信の与力に任命されるんですw

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!

この頃より織田秀信が西軍寄りの態度をとり国境守備強化と兵増強を行います!

そんで附家老百々綱家や鉈尾山主佐藤方政らが東軍加担を説得しますが失敗…

慶長5年(1600年)6月徳川家康より織田秀信に会津征伐出陣要請がきます!!

慶長5年(1600年)7月1日織田部秀信に従い出陣する筈だったけど…

織田秀信の出陣準備が間に合わず出陣を延期するですよ…織田秀信の「織田家の出陣に相応しいド派手な軍勢を」ってわがままのせいでした…この直後石田三成より美濃・尾張2ヶ国を条件に誘され織田秀信が西軍加担を決定!そんで美濃国内の諸大名の多くが西軍に加担しますw仕方なく織田秀信に従い西軍に味方する事になるんです…

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!
慶長5年(1600年)8月22日織田軍総兵力約9千が西上する東軍1万8千を迎撃します!!
でも兵力差の為に織田軍は善戦の末に岐阜城に撤退し篭城策に切替えます!

これを受けて戦略的重要性が薄い墨俣城を放棄して岐阜城入りします!

慶長5年(1600年)8月23日東軍が岐阜城総攻撃を開始します!

織田軍は巧みな戦術で東軍を翻弄し大奮闘します!

慶長5年(1600年)8月23日夕方…落城が時間の問題となります…

附家老百々綱家が東軍福島正則らの説得を受け織田秀信に降伏開城を進言します!!

これを受け家臣の行く末に心配無いよう織田秀信が家臣全員に感状を書き渡しますw

再起を願って開城寸前に密かに岐阜城を脱出し身を隠します…

そんでついに織田秀信は降伏し岐阜城を開城します…
降伏後に織田秀信の処刑を求める声もあったけど福島正則が「自らの武功と引換えに」と徳川家康に助命を嘆願主張したんで【改易】となり赦免され高野山へと送られたんです…この時に付き添った家臣は30人程と寂しいものだったんですよ…この際に自身も姿を現して謝罪の上で降伏します…そんで赦免の上で【改易】され浪人となります…

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦いで東軍が勝利します!!

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…

暫くは京都で生活して俳諧を松永貞徳(松永久秀の嫡孫)に…連歌を里村昌琢に学び

悠々自適に趣味に生きる生活を送りますw

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます…

慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します!

慶長9年(1604年)親戚の斎藤福(後の春日局)が徳川秀忠の嫡子竹千代の乳母に就任w

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官しますw

慶長10年(1605年)5月8日織田秀信が享年26歳で死去します…

徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長14年(1609年)5月3日京極高次が享年47歳で死去します…

そんで京極家に弔問に訪れ暫く客食し多くの公家・文化人と交流を深めますw

慶長16年(1611年)3月加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!

この頃に豊臣方より大坂城入りを誘われるけど…武辺は捨てたと拒否します!

慶長20年(1614年)から大坂の陣が勃発します!!

慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

この頃に京極家を去って江戸浅草に引越しますw

元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…

寛永2年(1625年)高野山にある織田秀信の墓所を訪れて歌を詠みます…

その後も文化人として江戸で活躍し和歌の教授者にもなりますw

そんで『俳諧初学抄(最初の俳書)』『伊豆走湯俳諧』『独吟千句』等を著わしますw

寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…

寛永10年(1633年)自撰集『塵塚俳諧集』を著すw

この中で親戚の春日局よりお酒をプレゼントされたって事が書いてますw

寛永13年(1636年)5月24日伊達政宗が享年70歳で死去します…

寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します!

正保4年(1647年)8月28日に享年89歳で死去します…

★☆★ちなみに…下画像は斎藤徳元本人の肖像画です!★☆★


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池田 長政

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池田長政は三河国内1万石の最初で最後の藩主

【池田恒興】の4男で【池田輝政】の実弟で【加藤嘉明】の娘婿ですw

天正3年(1575年)織田信長の重臣池田恒興の4男として誕生しますw

生まれてすぐに織田氏家臣片桐俊元の養子となりますw

ちなみに…この片桐俊元サン…詳しい事はわかんないんですが…片桐且元と同族と思われます!

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

その際に父恒興と次兄輝政が羽柴秀吉に従い大活躍します!

天正10年(1582年)10月15日羽柴秀吉主催で織田信長の葬儀が行われます!!

その際に父恒興と次兄輝政が棺を担いでます!

天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利します!!

天正11年(1583年)父恒興が大垣城主に…次兄輝政が池尻城主となりますw

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが起ります!

その際に父恒興と長兄元助が羽柴方の三河奇襲部隊の一翼を担うんですが…

逆に徳川家康の奇襲攻撃を受けて三河奇襲部隊が壊滅します!!そんで…

天正12年(1584年)4月9日父恒興(享年49歳)と長兄元助(享年25歳)が討ち死にします…

そんで次兄輝政が池田家の家督を相続したんで義父俊元と一緒に次兄輝政に仕えます!

天正12年(1584年)紀州征伐に義父俊元が次兄輝政に従い従軍します!!

天正13年(1585年)8月越中征伐に義父俊元が次兄輝政に従い従軍します!!

天正14年(1586年)九州征伐に義父俊元が次兄輝政に従い従軍します!!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正18年(1590年)小田原征伐に義父俊元と一緒に次兄輝政に従い従軍します!!

そんで戦後に次兄輝政が三河国吉田16万石を拝領します!!

その際に義父俊元が三河国内7千石を豊臣秀吉より拝領し次兄輝政の与力になりますw

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で次兄輝政は豊臣秀吉の命令で吉田城に留ります!

そんで手薄となってた東国警衛を一任されてるんですよ!!

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄3年(1594年)豊臣秀吉の仲介で次兄輝政と徳川家康の娘督姫が結婚しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

慶長2年(1597年)義父俊元が死去します…

そんで片桐家の家督を相続します!そんで次兄輝政の与力となりますw

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!
この事件に次兄輝政が福島正則・加藤清正・細川忠興・加藤嘉明・黒田長政・浅野幸長らと一緒に実行犯として関与してたんです…
この頃に「賤ヶ岳の七本槍」のひとりである加藤嘉明の娘サンと結婚しますw

慶長5年(1600年)2月に3千石を加増され1万石の大名となりますw

慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされ次兄輝政が出陣します!

でも…その時に次兄輝政より密命を受けてたんです…
これから起る東西の大戦さで…徳川家康率いる東軍が優勢ではあるが…もし万が一にも西軍が勝利しても池田家が必ず存続出来るように単独で「西軍加担」するようにって内容です!
慶長5年(1600年)7月17日石田三成らと毛利輝元を擁立し挙兵します!!

これに呼応して密かに出陣し大坂城入りします!

慶長5年(1600年)7月19日伏見城攻めに参陣し活躍します!!

慶長5年(1600年)7月25日小山評定後に東軍諸将が西上を開始します!!

慶長5年(1600年)8月1日伏見城が落城しその後は大坂城下の守備を務めます!

慶長5年(1600年)8月23日次兄輝政が岐阜城攻めで大活躍します!!

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いで西軍が壊滅します!

そんで早々に武装解除をして次兄輝政を通じて東軍に降伏します…

本戦に参加しなかった事もあって助命され身柄は次兄輝政預かりとなります…

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…

慶長5年(1600年)次兄輝政が播磨国姫路52万石に加増移封されますw

慶長6年(1601年)赦免され「片桐姓」より「池田姓」に復姓し次兄輝政に仕えますw

その際に姫路藩内の赤穂城2万2千石を次兄輝政より拝領し姫路藩家老職を務めますw

慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

その際に次兄輝政の次男忠継が備前国岡山28万石を徳川家康より拝領しますw

そんでその補佐として岡山藩の家老首座を務めますw

慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます…

この頃に次兄輝政よりさらに1万石を加増されますw

そんで江戸城や駿府城普請で次兄輝政の名代として活躍するんですw
実は…次兄輝政は長政が大名に復帰出来るように分地してたんですが…次兄輝政の好意に感謝しつつも子孫代々に渡り次兄輝政より続く池田宗家の家臣として仕え続ける事を誓うんです!
慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します!

徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長11年(1606年)長男長明が誕生しますw

でも…この頃から体調を崩し寝込む事が多くなるんです…

慶長12年(1607年)7月20日伊勢国庄野庄にて享年33歳で死去します…

そんで家督は長男長明が継ぐんですが…幼かったんで妻方の実家(加藤家)で生活します!

慶長18年(1613年)に池田家に戻り…その後成長し岡山藩家老を務めます!

子孫(片桐池田家)も代々岡山藩家老を務めて明治維新後は男爵となるんです!

★☆★ちなみに…下画像は次兄池田輝政の肖像画で長政じゃないです!★☆★


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