『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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伊達 宗高

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伊達宗高は陸前国村田藩の最初で最後の藩主

独眼竜と呼ばれた仙台藩祖【伊達政宗】の7男ですw

慶長12年(1607年)仙台藩主伊達政宗の7男として誕生しますw

お母サンは仙台藩重臣柴田宗義の娘阿山方サンで幼名は「長松丸」ですw

慶長16年(1611年)後陽成天皇が後水尾天皇に譲位します!!

慶長16年(1611年)3月加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)4月25日松平忠輝附家老大久保長安が享年69歳で死去します…

慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!

そんで石川康長富田信高高橋元種里見忠義ら多くの大名が連座し【改易】になります…父政宗も姉五郎八姫が松平忠輝の奥サンだったんで連座で改易されそうになるけど…でも幕府からは「御咎め無し」って裁定が下されるんです!

慶長18年(1613年)9月15日父政宗が慶長遣欧使節を派遣しますw

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き家老片桐且元が大坂城を追放されます!!

慶長19年(1614年)7歳で柴田・刈田3万石を分地されて村田要害館に住みますw
ちなみに…この村田要害は仙台の南に位置する奥州街道沿いの要所に築かれた支城だったんですが…一国一城令を憚って「お城じゃないよ」って幕府に届出たんだけど非常時は充分に要害として機能するようになってたんです!!明らかな「お城」ですw
この頃豊臣家は孤立が強まり焦りから兵糧や浪人を集め出し幕府と対決し始めます!!

慶長19年(1614年)11月19日大坂冬の陣が勃発します!!

父政宗や兄達が出陣しますが…大きな戦闘に遭遇する事もありませんでした…

慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します!

慶長19年(1614年)12月25日長兄秀宗が伊予国宇和島10万石を幕府より拝領しますw

慶長20年(1615年)5月大坂夏の陣が勃発します!!

慶長20年(1615年)5月7日天王寺の戦いで父政宗が神保相茂隊を全滅させます!!

神保相茂は同じ幕府方として水野勝成配下で参陣してたんですが…

戦場は一時「伊達家が豊臣方に味方!!」の噂が広まり騒然とします!!

慶長20年(1615年)5月8日豊臣家滅亡にて大坂の陣が終結します!

その後父政宗はいろんな言い訳をして幕府は「不問」との裁定を下します!

元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…

元和2年(1616年)7月6日松平忠輝が【改易】となります…

そんで姉五郎八姫は松平忠輝と離婚して実家に戻って来ます…

この頃から父政宗が2代将軍徳川秀忠の御伽衆となるんですw

元和4年(1618年)5月28日5兄宗綱が享年15歳で死去します…

そんで急遽5兄宗綱の跡を6兄宗信が継ぎます!

元和5年(1619年)10月福島政則が【改易】されます…

元和6年(1620年)8月24日支倉常長が日本に帰国しますw

元和7年(1621年)長兄秀宗と父政宗が大喧嘩して『和霊騒動』に発展します!!

元和7年(1621年)に10弟千勝丸(後の宗勝)が誕生します!

この10弟宗勝こそ…後の仙台藩存亡の危機的大事件「伊達騒動」の首謀者なんですよ!

元和8年(1622年)8月祖母の実家山形藩最上家が【改易】されます…

元和9年(1623年)3月蔵王連峰刈田岳が大噴火し大きな被害を及ぼします…

元和9年(1623年)本多正純が失脚し【改易】となります!

元和9年(1623年)7月27日徳川家光が征夷大将軍に任官しますw

父政宗が中国人の易者王翼に指示を仰ぎ祈祷により噴火を静めるように命じます!

寛永元年(1624年)10月5日父政宗の名代として王翼と一緒に刈田岳に登ります!

そんで火口近くに祭壇を設けて節の付いた青竹に自分の息を吹き込み埋めます!!

『自分の生命は亡くとも噴火が収まり人々の危難を救い給え!!』と祈祷しますw

これは自分自身の生命を山の神に捧げた事を意味してたんです!!

なんと…祈祷が終わる頃には噴火は収まり終息に向うんです!!

領民は喜び神のように敬慕される伝説の名君となっていたんです!

寛永3年(1626年)7月3代将軍徳川家光が後水尾天皇二条行幸の為上洛します!!

その際に父政宗と兄達一緒に3代将軍徳川家光に従い上洛します!!

そんで従五位下・右衛門大尉に叙任任官しますwでも…

流行病の「疱瘡」にかかり京都二条要法寺にて静養しますが…

寛永3年(1626年)8月17日に享年20歳で死去します…

この時に10名の家臣が殉死したんです…国許でも多くの領民が嘆き悲しんだんです…

まだ結婚前だったんで跡継ぎがいなくて村田伊達家は無嗣断絶で【改易】になります…

その後領地は仙台藩の還付されるんです…

墓所は宮城県柴田郡村田町の龍島院にあります…

現在でも村田町では命日に「宗高公まつり花火大会」が開催されてますw

正直…長生きしてたら間違いなく伊達宗家を継いでいたと…まるこは思いますw

★☆★ちなみに…下画像は次兄伊達忠宗の肖像画で宗高じゃないです!★☆★


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石田 正継

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石田正継は近江国内3万石の最初で最後の藩主

関ヶ原の戦いで西軍の実質的首謀者【石田三成】の実父ですw

詳しい生年月日は不明なんですが…まるこ的な仮定で…

天文9年(1540年)頃に近江国坂田郡の地侍石田為広の長男として誕生しますw

当事石田家は近江京極氏に仕えてたんですが…

応仁の乱から衰退してた京極氏は家督を巡る御家騒動でさらに落ち目になってたんです…この時に勢力を増してたのが京極氏家臣浅井亮政で京極氏はお飾りだったんです!

天文10年(1541年)京極高延が浅井亮政に反旗を翻し挙兵します!!

天文11年(1542年)1月6日浅井亮政が享年51歳で死去します…

そんで浅井家内で家督を巡り御家騒動が勃発するんです…

そんで浅井久政は南近江六角氏に従属し父為広も勝ち馬に乗り六角氏に従います…

天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…

弘治2年(1556年)長男正澄が誕生しますw

永禄3年(1560年)浅井長政が野良田の戦いで六角氏に大勝し独立します!

そんで浅井久政が家臣達に強制的に隠居させられ浅井長政が家督を継ぎます!

この頃より浅井氏に従ってますw

永禄3年(1560年)次男三成が誕生しますw

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…

永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…

永禄10年(1567年)浅井家と織田家が同盟を結びます!!

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し近江六角氏を撃退します!

永禄11年(1568年)10月18日足利義昭が15代征夷大将軍に就任します!!

元亀元年(1570年)4月織田信長が越前征伐を開始します!!

これに怒った浅井長政は織田家との同盟を破棄し全面対決をします!!

そんで浅井家に召集されて各地で織田軍と戦ってたんです!!

元亀元年(1570年)6月28日姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!!

元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します!

元亀3年(1572年)12月突然援軍である朝倉軍が撤退します…

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…

元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!

天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!!

天正元年(1573年)9月1日浅井長政が享年29歳で自刃します…

そんで主家を失い石田家は路頭に迷うようになるんです…

天正2年(1574年)長浜城主羽柴秀吉は近江国内で人材発掘に励みますw

この時に長男正澄と次男三成が一緒に小姓として羽柴秀吉に仕え出します!

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正5年(1577年)羽柴秀吉の中国攻めに長男正澄と次男三成が一緒に従軍しますw

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日息子達が羽柴秀吉配下で山崎の戦いに従軍します!!

天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉配下で息子達が従軍します!!

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに息子達が従軍します!

この頃より次男三成が羽柴秀吉の側近として絶大な力を持ち始めるんですw

天正13年(1585年)末に豊臣秀吉より次男三成が近江国水口4万石を拝領しますw

その際に次男三成の代官として裏で補佐するんです!

天正14年(1586年)1月次男三成が島左近を所領の半分2万石で召抱えます!!

天正14年(1586年)6月次男三成が上杉景勝と豊臣秀吉の会見を斡旋しますw

天正14年(1586年)7月より九州征伐が行われます!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

実質政務は次男三成の家臣が行ってたんで全て任せて趣味の和歌や文学に没頭しますw

天正18年(1590年)小田原征伐が行われます!

この頃長男正澄が豊臣秀吉より近江国内1万5千石を拝領しますw

豊臣秀吉の配慮で従五位下・隠岐守に叙任しますw

天正19年(1591年)2月28日千利休が享年70歳で自刃します…

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵で名護屋城で楠木正虎と一緒に帳簿の担当をします!

文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀頼が誕生しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命令で享年28歳で切腹します…

文禄4年(1595年)次男三成が佐和山19万4千石の所領を拝領しますw

その際に近江国内3万石を豊臣秀吉から拝領しますw

そんで制限付だけど直訴を認め善政を布いて領民からも慕われてたんですw

慶長元年(1596年)7月12月深夜に慶長伏見地震が起きます!!

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)3月15日醍醐の花見が催されますw

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

この時息子達と一緒に前田利家を支持して徳川家康の台頭に危機感を募らせてます…

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日次男三成の襲撃事件が勃発します!

慶長4年(1599年)3月10日次男三成が結城秀康守備で佐和山城に戻り隠居します…

慶長5年(1600年)5月次男三成が上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を立てます!!

慶長5年(1600年)6月2日会津征伐が発動されます!!

慶長5年(1600年)7月会津征伐に参陣途中の大谷吉継らが佐和山城を訪れますw
それは次男三成と徳川家康を仲直りさせようと大谷吉継の監督下の元で次男三成の名代として孫重家を会津征伐に従軍させようと考えての行動でしたwでも…大谷吉継らは次男三成から徳川家康打倒の決意を打ち明けられます!!ビックリして大谷吉継らは次男三成を説得するけど意志も固く聞き入れられず…ついには次男三成との友情をとり大谷吉継らは西軍加担を決めるんです!この会談後…一族総出で家族会議が行われて次男三成に全面的に協力する事を決定します!
慶長5年(1600年)7月17日次男三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

これに併せ挙兵し佐和山城に入り長男正澄らと佐和山城の守備を固めます!

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いは東軍が勝利します!

次男三成は戦線より脱出し行方不明になっちゃうんです…

そんで小早川秀秋ら東軍1万5千が佐和山城に向け出陣してきます!!

城内は動揺し佐和山城代として篭城策を取る事に決定します!!

長男正澄も何度か大手門から打って出て東軍を何度も撃退しちゃうんです!!でも…

数で勝る東軍の猛攻により次第に劣勢になります…

必死で戦うんだけど…城方2800 vs 攻方1万5千では話にならない状況でした…

慶長5年(1600年)9月18日佐和山城が東軍に攻撃され落城します…

そんで長男正澄・孫朝成・次男三成の奥サン(正室)皎月院ら一門一族らが次々自刃します…

慶長5年(1600年)9月18日に享年61歳で自刃します…

墓所は京都府京都市右京区の妙心寺にあります…

★☆★ちなみに…下画像は石田正継本人の肖像画です!★☆★


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京極 忠高

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京極忠高は出雲国松江藩の最初で最後の藩主

関ヶ原時に西軍の猛攻から大津城を守り切った【京極高次】の長男ですw

【徳川家光】・【豊臣秀頼】と従兄弟同士ですw

文禄2年(1593年)八幡山城主京極高次の長男として誕生しますw

お母サンは側室で幼名は「熊麿」って言いますw

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄4年(1595年)父高次が近江国大津6万石へ加増移封されますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!

慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされます!

この時…父高次は東西両軍より誘いを受け板挟みになって悩んでたんです…

でも大津城の防備に弱いとこがある為…一旦は西軍に加担しつつ東軍のスパイをします!!

そんで西軍方の人質として大坂に送られちゃうんです…

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!!

慶長5年(1600年)9月1日西軍方として北陸方面に向け父高次が出陣します!でも…

慶長5年(1600年)9月3日には勝手に引揚げて大津城に兵糧を運ばせ篭城します!

立花宗茂ら西軍4万が大津城へ猛攻撃を仕掛けるんですが…父高次は健闘します!

そんでついに12日後に…

慶長5年(1600年)9月15日朝に父高次が西軍に降伏します!同じ日に…

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…

父高次が徳川家康より大津城での健闘を称えられ若狭国小浜9万2千石を拝領しますw

その後…徳川方の人質として大坂から江戸に移るんですw

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれるんです…

慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します!

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長11年(1606年)7月2代将軍徳川秀忠の4女初姫サンと結婚しますw

この時…初姫は4歳の幼児だったんで…全く相手にしてなかったんですよ…

でも…確執は生涯続き2人の仲は悪かったんですよ…

慶長14年(1609年)5月3日父高次が享年47歳で死去します…

そんで16歳で京極家の家督を継ぎ従五位下・左近衛少将に叙任しますw

この際に元服し義父徳川秀忠より「忠」の一字を拝領し「忠高」と名乗りますw

慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!

義母常高院と淀君が姉妹だったんで…一応大坂方より誘われるけど…拒否します!

慶長19年(1614年)大坂冬の陣が勃発し幕府方として参陣します!

休戦交渉は義母常高院を仲介に京極家の陣中で行われたんです!

慶長19年(1614年)12月20日和議が整い大阪城外堀埋立の工事奉行に就任しますw

慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…

元和9年(1623年)本多正純が【改易】となります…

寛永元年(1624年)越前国敦賀郡を加増されますw

この頃に従四位下に昇任し若狭守を兼任しますw

寛永7年(1630年)3月4日妻初姫が享年29歳で死去します…

実は初姫が危篤の際に無視して相撲見物に行ってたんです!だから死目にも会えなかったんです…
この事は義父徳川秀忠の耳に入り…激怒するんです!

そんで初姫の葬儀は義父徳川秀忠によって徳川家所縁の小石川伝通院で執り行われます!

そんで京極家一門など関係者は一切葬儀への臨席を許されなかったんです…「出禁」です!

寛永9年(1632年)1月24日義父徳川秀忠が享年53歳で死去します…

寛永10年(1633年)8月27日義母常高院が享年64歳で死去します…

寛永11年(1634年)出雲国・隠岐国2ヶ国合計26万石に加増転封となりますw

さらに石見国の石見銀山も与えられ毛利家を牽制する役割を命じられますw

寛永14年(1637年)6月12日に享年45歳で死去します…

墓所は滋賀県米原市清滝の清滝寺です…

子供(跡継ぎ)がいなかったんで…無嗣断絶で松江藩京極氏は【改易】となります…

でも…父高次の忠義や活躍を考慮され甥高和が播磨国龍野6万石を新たに拝領して京極宗家を再興するんです!その後讃岐国丸亀藩に移封されて以後子孫は丸亀藩主として存続し明治維新を迎えていますw

★☆★ちなみに…下画像は父京極高次の肖像画で忠高じゃないです!★☆★


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堀 利重

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堀利重は常陸国内1万石の最初で最後の藩主

常陸国玉取藩の初代藩主でもあり織田信長の側近だった【堀秀政】の実弟ですw

天正9年(1581年)織田氏家臣堀秀重の3男として誕生しますw

ちなみに…長兄秀政は28歳年上で織田信長のお気に入りで側近を務めてますw

天正9年(1581年)長兄秀政が織田信長より近江国坂田郡2万5千石を拝領しますw

天正10年(1582年)3月長兄秀政と次兄秀種が織田本隊として武田征伐に従軍します!!

天正10年(1582年)5月長兄秀政が徳川家康の堺での接待役を務めます!

実は…明智光秀が織田信長に接待役を罷免され後任として長兄秀政が就任したんです!

接待終了後に羽柴秀吉の援軍として長兄秀政が中国戦線に向います!!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

この際長兄秀政が羽柴秀吉に従い中国戦線より引返します!!

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

その際長兄秀政も大活躍し以後羽柴秀吉の家臣となります!

天正10年(1582年)6月27日清洲会議が行われますw

この時に長兄秀政が織田三法師(織田秀信)の蔵入地代官と守役を務める事になるんですw

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方として長兄秀政が参陣します!!

戦後長兄秀政が羽柴秀吉より近江国佐和山9万石を拝領しますw

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起き羽柴方として長兄秀政が参陣します!!

その際徳川方の大須賀康高・榊原康政らを撃破し敗走させる活躍をします!

天正13年(1585年)8月長兄秀政が羽柴秀吉より越前国北ノ庄18万石を拝領しますw

天正14年(1586年)九州征伐が行われ長兄秀政が従陣し活躍します!!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これで室町幕府は正式に終焉を迎えます!

天正18年(1590年)小田原征伐が行われ長兄秀政が参陣し活躍します!!

天正18年(1590年)5月27日長兄秀政が小田原征伐陣中にて享年38歳で死去します…

そんで長兄秀政の長男である甥秀治が14歳で堀宗家の家督を継ぎ父秀重が後見します!

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵が行われます!

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!

この時甥秀治に付添い名護屋城に在陣します!

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)3月甥秀治が越後国春日山30万石へ加増移封されますw

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)甥秀治の代りに徳川氏の人質として江戸に行きます!

そんでそのまま常陸国内に2千石を拝領し徳川秀忠の直参として仕えるんです!

さらに官位は従五位下・伊勢守に叙任し徳川家重臣本多康重の娘サンと結婚しますw

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされ徳川秀忠本隊として従軍します!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!!

    慶長5年(1600年)徳川秀忠隊として中山道を進みますが…
    真田昌幸・信繁親子に途中で足止めされ関ヶ原本戦に間に合わなかったんです…

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦で東軍が大勝利します!!

次兄秀種が西軍加担を理由に【改易】され甥秀治の元に移ります!

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…

戦後に上田城攻めでの活躍により8千石を加増され大名となるんです!!

慶長6年(1601年)長男利長が誕生しますw

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれるんです…

慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します!

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長11年(1606年)5月26日甥秀治が享年30歳で死去します…

慶長11年(1606年)11月28日父秀重が享年75歳で死去します…

慶長13年(1608年)2月26日堀一門重鎮堀直政が享年62歳で死去します…

この後…堀宗家の主導権を巡り堀家内部で内紛が起こります…

当事者は堀直政の長男直清(越後三条城主)とその異母弟直寄(坂戸城主)です!!

慶長15年(1610年)2月内紛は激化し遂に徳川家康の裁断を受ける事になります!!

堀宗家の堀忠俊と堀直清が御家騒動が理由で【改易】となるんです…

慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長16年(1611年)3月22日義父本多康重が享年58歳で死去します…

慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起きます!!

慶長19年(1614年)に大久保忠隣の改易に連座して【改易】されます…

義母サン(奥サンの母親)と大久保忠隣の奥サンは姉妹同士だったんですよ…

そんで宇都宮藩主奥平家昌預りの処分を受けるんです…

でも年齢も近く奥平家昌とはとっても仲が良かったんですw

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!

この頃に大坂方より誘いを受けるけど「大坂方に加担する理由無し」と拒否します!

親友奥平家昌に陣借りをお願いし許可されるけど…肝心の奥平家昌が急病に…

慶長19年(1614年)10月10日親友奥平家昌が享年38歳で死去します…

慶長20年(1615年)夏の陣で奥平家昌の弟松平忠明に陣借りし大活躍します!

慶長20年(1615年)5月8日大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

元和2年(1616年)4月17日徳川家康が享年74歳で死去します…

元和8年(1622年)に罪を正式に許され常陸国新治1万石を拝領しますw

そんで玉取藩を立藩し幕府より幼少の宇都宮藩主奥平忠昌の補佐を命じられます!

元和9年(1623年)本多正純が【改易】となります…

寛永5年(1628年)大番頭に就任し以降も書院番頭・寺社奉行等を歴任しますw

寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…

寛永10年(1633年)近江・安房・上総で4千石を加増されますw

寛永14年(1637年)10月25日島原の乱が勃発します…

寛永15年(1638年)松江藩京極氏の改易で松江城受取役に就任しますw

そんで無事に任務を終えて江戸に戻る時に体調を崩します…そんで…

寛永15年(1638年)4月24日大坂にて享年58歳で死去します…

墓所は和歌山県伊都郡高野町の高野山三宝院で法名は「桂峯貞山立芳院」です…

その後…家督は長男利長が継ぎますが…

★☆★ちなみに…下画像は長兄堀秀政の肖像画で秀重でないです!★☆★


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蜂屋 頼隆

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蜂屋頼隆は越前国敦賀藩の最初で最後の藩主

【織田信長】の親衛隊【黒母衣衆】の一員ですw

天文3年(1534年)に美濃国にて誕生しますw

両親の事とかは詳しくわかってないんですが…
蜂屋氏は美濃源氏の庶流で源頼光の7代孫山県三郎頼経の長男頼俊が美濃国加茂郡蜂屋に居住し「蜂屋冠者」を称した事に始まるんですwその後鎌倉時代後期に土岐光定の子定親が養子となって家督を継いでからは美濃国司土岐氏の庶流氏族となってるんで美濃国守護職土岐氏家臣の中でも上位に位置してたと思われます…

天文7年(1538年)美濃守護代斎藤利良が死去します…

そんで長井規秀が「斎藤新九郎利政」と改名し守護代斎藤氏の名跡を継ぎます!!

ちなみに…この「斎藤新九郎利政」が後の「斎藤道三」なんですよ!

天文10年(1541年)斎藤利政と土岐頼芸が対立し抗争が勃発!!

天文11年(1542年)斎藤利政が土岐頼芸親子を追放し実権を握ります!

天文11年(1542年)より織田信秀の美濃侵攻が始まります!!

天文17年(1548年)斎藤道三の娘帰蝶と織田信秀の長男信長が結婚しますw

この頃より美濃斎藤家に出仕し数々の戦いで活躍しますw

天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…

天文20年(1551年)3月3日に織田信秀が享年42歳で死去します…

天文23年(1554年)斎藤道三が60歳で家督を長男義龍へ譲り隠居します!

年齢が近い斎藤家新当主斎藤義龍とは折合いが悪かったんです…

弘治2年(1556年)斎藤孫四郎・喜平次を惨殺し斎藤義龍が斎藤道三と長良川で対峙!!

この際に道三側に味方するけど…数の上で大きく義龍軍に負けてたんです…

弘治2年(1556年)4月20日斎藤道三が享年63歳で討ち死にします…

そんで織田信長の元に逃れて仕え出すんですw

その後は数々の戦いで大活躍して黒母衣衆に大抜擢されるんです!!

この頃に織田家宿老丹羽長政の娘(丹羽長秀の妹)サンと結婚しますw

とても仲が良かったけど…子供は出来なかったんです…

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…

永禄4年(1561年)5月11日斎藤義龍が享年35歳で死去します…

永禄7年(1564年)竹中半兵衛が一時稲葉山城を占拠します!!

永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄10年(1567年)氏家ト全・稲葉一鉄・安藤守就の美濃三人衆が斎藤家を離反!!

これで稲葉山城が落城し斎藤龍興が美濃を追放されます…

永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

永禄11年(1568年)10月織田信長に従い上洛します!!

そんで羽柴秀吉・明智光秀らと一緒に京洛の政務を行っていますw

元亀元年(1570年)4月織田信長が越前朝倉征伐を開始します!!

これに怒った浅井長政は織田信長との同盟を破棄し全面対決します!!
元亀元年(1570年)6月28日姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗します!!
この戦いで侍大将として一軍を率いて大活躍してるんですよ!

元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江に侵攻を開始します!!

そんで従軍して虎御前山に陣を構え柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らと一緒に活躍します!

その後も越前朝倉氏攻め・伊勢長島攻めなど転戦し大活躍するんです!!

元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します!

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中で享年53歳で死去します…

天正2年(1574年)これ迄の活躍で近江国肥田城を拝領しますw

そんで従五位下・兵庫頭に叙任していますw

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正6年(1578年)7月に同僚荒木村重が謀叛を起こします!

そんで有岡城の戦いの後に荒木一族を処刑する戦後処理を担当してるんです…

天正8年(1580年)佐久間信盛・信栄親子が織田信長に追放されます…

そんで織田信長より和泉国一国の全支配権をほぼ任されるんです!

この頃に従五位上・出羽守に昇任しますw

この頃に義兄丹羽長秀の4男直政を養子にしますw

天正10年(1582年)に織田信長が四国侵攻を3男信孝に命じます!

その際には丹羽長秀・津田信澄らと一緒に織田信孝の寄騎に任命されます!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

この直後に明智光秀の女婿だった津田信澄が織田信孝と丹羽長秀に暗殺されます…

でもこの時織田信張と一緒に紀伊国人一揆鎮圧に務めてて暗殺には関与してないんです…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

その際羽柴軍と合流し織田信孝に従って大活躍しますw

天正10年(1582年)6月27日清洲会議後に羽柴秀吉と柴田勝家&織田信孝らが対立します!!

そんで羽柴秀吉に味方して織田信孝の居城岐阜城を攻めて活躍するんです!

天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いに羽柴方として参陣しますw

戦後に越前国敦賀4万石を羽柴秀吉より拝領しますw

さらに従四位下・侍従に昇任し豊臣秀吉より「羽柴姓」を賜りますw

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも参陣し活躍します!

天正13年(1585年)4月16日義兄丹羽長秀が享年51歳で死去します…

天正13年(1585年)越中征伐・四国征伐が行われ従軍して活躍します!

天正14年(1586年)九州征伐に従軍し大活躍します!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)頃に養子直政が享年7歳位で死去します…

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これにより正式に室町幕府は終焉を迎えます!

天正17年(1589年)9月25日に享年56歳で死去します…

墓所は京都府京都市北区にある大徳寺正受院です…

戒名は「正受院殿従四位侍従前羽州太守雲岳宗閞大居士」です…

この時に跡継ぎがいなかったんで…蜂屋家は無嗣断絶で【改易】となるんです…

そんでこの後…敦賀城主として大谷吉継が入城するんですw

★☆★ちなみに…下画像は蜂屋頼隆本人の肖像画です!★☆★


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