『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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『赤穂浪士討ち入り』

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?H3>303年前の今日 旧暦元禄15年12月14日赤穂浪士討ち入りの日  曾我兄弟の仇討ち・伊賀越えの仇討ちに並ぶ日本三大仇討ちのひとつなんです!
 でもこれって旧暦だから実際は1月16日なんですよね……あは……
 日本悪人に必ずノミネートされるのが「忠臣蔵」の仇役吉良上野介義央(画像)ですw
 赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城殿中にて吉良に刀で斬りかかり傷を負わせるものの
 すぐに取り押さえられ将軍徳川綱吉の命により即日切腹させられてます…
 その1年半後赤穂浪士達が吉良邸を襲撃し吉良の首を取っていく事件………
 これを芝居にしたのが「仮名手本忠臣蔵」で当時大人気を博したんです!!

 実際の吉良上野介義央とはどんな人物だったのか「忠臣蔵」に描かれたような権力を傘に
 傲慢な男だったのでしょうか?それとも地元吉良町に伝わるような名君なんでしょうか?
 吉良の当時幕府での役職である高家肝煎とはかなりの知識と実力を要するんですよw
 この地位についたのは家柄は勿論本人の才能と努力によるものなんです!
 京都の公家衆の接待相談役は家柄だけのお坊チャンではとうてい無理な仕事ですし!
 公家・武家の礼儀作法から和歌や茶会の宴迄全ての膨大な知識が必要なんです!
 高家は公家の血筋を引く者や足利氏一門・旧守護等の家柄が選れ代々その職を継承してます!
 武田信玄の次男海野信親やまるこの大好きな今川義元の血筋もそうですw

現在フィギアスケートの選手である織田信成は高家織田家の末裔です!

 地元で彼が名君と呼ばれるのには根拠がありますw
 若い頃の吉良はなかなかの美男子だったみたいで赤馬に乗り領地を見てまわる殿様は
 農民達からも親しまれてたみたいです!吉良の奥サンの富子も顔に惚れたと言ってます…
 毎年起こる河川の氾濫を吉良は隣町に堤防を作らせてくれるよう交渉するけど
 その際に付けられた条件「丸1日で作る事 作った後壊れても補修しない事」を飲み農民達も
 総動員して200m程の堤防を1日で作りあげちゃいます!
 この堤防は「黄金堤」と呼ばれ今では桜の名所となってるんですよ!
 また積極的に新田開墾を行い奥サンの名にちなんだ「富好新田」は現在も残されてますよ♪

 でも「忠臣蔵」で描かれる浅野イジメの数々には何か根拠があるんでしょうか?
 まず増上寺畳替えの件だけど浅野が「畳は新しいのに替えた方が良いでしょうか」と尋ねると
 吉良は当初「必要ない」と答えたんだそーですが…それが式典の前日になって「全部替えろ」と
 言い出してなまらのひと騒動……えっ……
 でも実際には増上寺にはそんな伝承は全くなくってまた当時の浅野の役目には畳替えの義務も
 権利もないんですよ!!また吉良に騙されて違う衣装を着て恥をかかされたり用意する料理を
 本当は懐石料理なのに精進料理と偽られたりするという騒動が描かれるけど…
 そんな事は接待役を仰せつけられた時幕府から渡される「徳川盛成記」なるテキストに
 全部書いてある事だし…もちろん書いてないわけで……

 そして浅野が刀を抜く切欠になった経緯が
 「天皇の使者が到着した時に玄関の中で待つのか?下に降りて外で待つのか?」と吉良に質問して
 「今更何を聞かれる!!お主のような田舎者にこの役目は無理じゃ」と罵られたという話だが……
 これが本当なら吉良じゃなくても誰でも呆れたと思いませんか?
 だって前日何度もリハーサルをやって浅野は玄関の中で使者を迎えてた筈なんですよ!
 昨日やった事を忘れる奴に接待なんか任せられないと言うのは当然だとまるこも思います!
 だけどこれらも吉良を憎々しい仇として描く為の創作のようなんです…
 それにしても当時の脚本家達が事細かく殿中の仕来りを熟知してる事に感心します!!
 唯一残ってる状況証拠はもう一人の接待役宇和島藩主伊達左京亮宗春の豪華な贈物に比べると
 浅野は反物のみという質素なものだった位です……

 理由はどうでも浅野が殺そうと決意した程憎んだ訳だから吉良が何かあったのは事実でしょうねw
 でも吉良自身にそこ迄の自覚があったかわからないけど…

そして元禄15年(1702年)12月14日の茶会の夜を迎えることになるんです!

 この日吉良屋敷には総勢150人の侍達が控えてたにもかかわらず47人の手勢に
 手も足も出なかったのは何故なんでしょうか?その理由は吉良屋敷の構造自体にあったんです!
 屋敷の本棟を取り囲んで長い土塀があるんだけど土塀は長屋も兼ねててここに100人程の
 侍達が寝起きしていたんですねw前日は大雪だったから長屋は雨戸を閉めてますw
 雨戸は連なってるんで端をクギ留め等されようものなら全部が開かなくなっちゃうんです!
 侵入者達はここを杭で打ち付けちゃいます……戸を破って出てくる奴に備えて長槍を
 もった三人組を長屋前に配置します!残るは本棟50人足らずというわけなんですね!
 しかも完全武装の武者集団と寝ボケ眼の寝巻き姿ではとうてい勝負になる訳ないんですよね…

           http://bloggers.ja.bz/katou/archives/ukiyoe.jpg

 吉良も用心して息子の米沢藩主上杉綱憲の屋敷から応援を呼んでたけど結局役には立ちません…
 映画や芝居では二刀流で派手な立ち回りを演じる小林平八郎も実際には何の抵抗も出来ず
 首をハネられちゃうんですよぉ……
 最後迄戦ったと言えば意外にも吉良上野介本人なんですよ!!!
 炭部屋にいたのを見つかり槍で攻撃された時脇差で応戦してるんです!!!
 しかし老体では敵うわけもなくって太ももを刺されて倒れ込んじゃいます……w

 後に赤穂の浪士達がこの時の様子を書き残してるから吉良が反撃したのは事実みたいですw
 検死した医師の栗崎道有は何箇所もの槍の傷跡を報告してる事からかなり抵抗したみたいです!

少なくとも吉良上野介の最期は本来の武士らしいものだったと思いますよ!

主君である浅野内匠頭だけが切腹となり吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨するけど一見すると幕府の裁定が不公正なものに思われそーだけど本来「喧嘩両成敗」というのは社会秩序が崩壊した戦国時代の法でありカブキ者が好んだ法です。当時の法制度には戦国時代の残滓は未だ残しているとは言え武断的な政治から「文治政治」への転換が図られて、法制も裁判制度も整った泰平の時代において「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性のある非人間的な規定であると当時の儒学者などからの批判に晒されていた。従って浅野内匠頭が「遺恨」であると主張したとしても明確な不法が無く手向かいしなかった吉良上野介が何の咎めを受けなかったのは今日の社会常識と対比させてみても決して不当な判断とはいえないと思われる。更に討ち入り直後に一部の幕閣の間で夜中に人の家に押し入って多数の人を殺害した行為はいかなる理由があろうともその所業は「強盗」と何ら変わりがなく浪士達を強盗の罪により磔・獄門等の処分を課すべきであるという主張も見られたけど浪士達の仇討ちを義挙として熱烈に賞賛する世論や将軍や学者達の「忠義論争」によりこうした批判の声を押し流されてしまったという点も留意すべきである。元禄赤穂事件以外にも江戸城内での刃傷沙汰は過去に1627年御小姓組猶村孫九郎が木造氏・鈴木氏に切りつけた事件や1628年豊島刑部少輔明重が老中井上正就に斬りつけた豊島事件・貞享元年(1684年)若年寄稲葉石見守が大老堀田筑前守を殺害した事件が発生してます。でもそれらの事件では被害者は即死 加害者はその場で手打ちにされてます。刃傷事件の被害者・加害者ともに生き残った例がなかった事が幕府の対応にぶれを生んだ一因とされてるんです!

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