『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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毛利 元徳

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毛利元徳は幕末の長州藩の第15代目(最後)の藩主

天保10年(1839年)9月22日に第8代藩主毛利広鎮と多喜勢の10男として誕生!!

正室は長府藩第12代目藩主毛利元運の娘安子サン(銀姫)ですw

側室には山中氏(花子サン)がいました……羨ましぃ……官位は従一位でありまーすw

1852年2月先代藩主毛利敬親に後継ぎがいなかったんで養子となります!

はじめは将軍徳川家定から一字『定』をもらって定広と名乗ってたんですよ!

1864年に元徳と名を改めます!!

この後禁門の変を経て第1次・第2次長州征伐を受け長州藩は大打撃を受けます…

でも藩内には高杉晋作や桂小五郎等の有能な藩士が多く彼らの努力で“薩長同盟”がなり

時代は足早に明治維新へとつき進んでいくんですよw

1869年6月4日義父敬親の隠居で後を継ぎ従三位・参議となるんですw

1871年廃藩置県で免官されて東京へ移り1884年の華族令施行で公爵位を受けますw

そんで第15国立銀行頭取や貴族院議員にもなってます!

1896年12月23日に東京にて享年58歳で死去…死後国葬が行われました…

号は忠愛公と言って墓所は山口市上宇野令の香山墓地と芳宜園神社にあるんです!
  義父毛利敬親は家臣の意見に対して異議を唱える事が無かったんで「そうせい候」と呼ばれ
  賢明な藩主でなかったとの評価もあるんですよ…でも紆余曲折はあったけど毛利敬親は有能
  な家臣に全てを任せ結果毛利350年の宿願であった「倒幕」を成し遂げたんですよ!!
ちなみに…画像でご覧の通り…明石家さんまサンではありません……あは……
下の画像は幕末期の萩城です!!

毛利両川のひとつで江戸時代初期に断絶した小早川家(最後の当主は小早川秀秋)だけど…実は毛利元徳の子四郎が「小早川姓」を再興してるんですよ!!そんで華族令により男爵に叙されてるんですよ!

島津 忠義

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島津忠義は幕末の薩摩藩の第12代目(最後)の藩主

1840年5月22日(天保11年4月21日)第11代藩主島津斉彬の弟久光の長男として誕生w

官位は従一位で官職は大隅守ですw

伯父島津斉彬の養嗣子となり1858年伯父が亡くなると実父久光に擁され後を継ぐんですw

でも藩政の実権は父久光や西郷隆盛・大久保利通らに掌握され忠義自身は若年という事もあり

あんまし主体性が無かったんですよね……
明治2年(1869年)に長・土・肥の3藩と協力して版籍奉還を進んで行なうんですね…
その後薩摩藩知事となるけど実質的な藩政は西郷隆盛に任せてたと言われてるんです…

明治4年(1871年)に廃藩置県で免官されてますw

明治17年(1884年)華族令施行で公爵になってます!

忠義は犬追物や乗馬を得意とする一方で写真撮影や花火作り等にも興味を持って

とっても趣味が深い人物だったんですよ!
まるこ的には宿敵徳川慶喜と趣味を通じて仲良くなれたと思いますよ!
明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布の当日に忠義は洋服姿なのに“チョン髷”を

切らずにいた事に驚いたとドイツの医学者ベルツは日記に記してるんです(爆)

明治30年(1897年)12月26日に東京にて享年58歳で死去してます…

明治31年(1898年)1月9日には国葬が行なわれました…

現在忠義のお墓は尚古集成館に保存されてます!また深勝園に忠義の銅像があって

お墓は島津氏歴代とは別の場所である常安御墓に葬られてるんですw

画像は幕末期の鹿児島城です…『えっ!?これってお城?』って感じぃですね…

今川 直房

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今川 直房は駿河今川氏11代当主で江戸時代の直参旗本

高家として徳川幕府に仕えました!高家今川氏初代当主なんです!!今川氏真の孫にあたります!
幼名は五郎で初名は範英ですw官位は従四位下左近衛少将w

今川範以と正室吉良義安の娘利姓院との間の嫡子として文禄3年(1594年)京都に生まれます!!
この時既に祖父今川氏真が掛川城(画像)を追われてから早25年の歳月が経ってました…
妻は筑後柳河藩家老矢島重成の娘で藩主立花宗茂の養女となって直房に嫁いだんです!
妻は1678年8月6日に没してますw

1607年に父範以が若くして病没し母利姓院が公家の大炊御門氏と再婚したんで兄弟と共に
祖父今川氏真夫妻に育てられたんですね…お爺チャン&お婆チャン子なんですよw
1611年に祖父氏真が没すると17歳で家督を継ぎ徳川家で500石の直参旗本となったんです!
1633年迄には高家として取り立てられ江戸に来てた知恩院門跡良純法親王の接待を行い
その翌年には3代将軍徳川家光が上洛する際先に京都に行ってます!!
1614年家光の日光東照宮参詣の時は高家であり妹婿(義弟)でもある吉良義弥(吉良義央の祖父)
衣紋の大役を勤めて無事にやり遂げてますw

1616年に徳川家康が没すると朝廷は東照大権現の神号を宣下し家康は神となってたけど
3代将軍家光は加えて宮号を朝廷に要求したんですよ…
1645年直房は大老酒井忠勝と共に朝廷への使者となって武家伝奏菊亭経季と交渉し
12月3日徳川家康に東照宮の宮号が宣下されたんですねw
この功で徳川家光は武蔵多摩郡井草村・上鷲宮村・豊島郡中村等500石を加増

今川家の家禄は合計1000石となったんです!!

直房は家光と家綱時代に活躍しまして68歳でその生涯を閉じます!
1653年に高家今川家の当主の中では最高位である左近衛少将となるんです!
また没落してた今川家を高家とし石高も倍の1千石にした事から

直房は高家今川氏の始祖として子孫から崇められたんですね!

その命日(万治4年11月24日(1662年1月14日))に毎年今川一族が集まり直房を偲んだと言います!

また同じく高家大友義親(戦国時代の豊後大友氏)の妻となってた姉と共に祖父氏真の墓を
東京都杉並区の観泉寺に移し開基として祀り観泉寺を代々の菩提寺としたんですw
でも直房は叔祖父一月長得が修行した萬昌山長延寺の開基となり代々の当主は長延寺に葬られます!

直房の子は嫡男範明次男範興が早世してたんで吉良義弥(吉良義央の祖父)
直房の妹の間に産まれた岡山弥清の嫡男氏堯を養子として家督を継がせました!

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