伊達宗城は幕末の伊予国宇和島藩の第8代目の藩主官位は従四位下・遠江守・侍従w華族令施行後の爵位は伯爵⇒侯爵w文政元年8月1日(1818年9月1日)に直参旗本山口直勝の次男として江戸に誕生w祖父直清は宇和島藩5代藩主伊達村候の次男で山口家の養嗣子となってたんですよ! 幼名は亀三郎と言うんです!! 宇和島藩家臣伊達寿光の養子となってなかなか後継ぎの生まれない藩主伊達宗紀の養子となりますw 宇和島藩は初代仙台藩主伊達政宗の長男秀宗(庶流)を藩祖としてるんです!
宇和島藩は仙台藩の支藩じゃなくて新規に国主格大名として取り立てられたんだけど 仙台藩は宇和島藩を仙台支藩と主張しいつも揉め事が絶えなかったんですよ… 藩祖秀宗はその五男宗純に3万石を分知したんで宇和島藩は実質的に7万石だったけど 家格は10万石格として扱われてたんですよ!! 天保15年(1844年)第7代目藩主宗紀の隠居に伴い第8代目藩主に就任するんですw先代宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ木蝋の専売化や石炭の埋蔵調査等を実施!!幕府から追われ江戸で潜伏してた高野長英を招き長州より村田蔵六を招き軍制近代化にも着手! 福井藩主松平春嶽・土佐藩主山内容堂・薩摩藩主島津斉彬と交流を持ち幕末四賢侯と称されます!彼らは幕政にも積極的に口を挟み老中阿部正弘に幕政改革を訴えてたんです!阿部正弘死去後安政5年(1858年)大老になった井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立!! 第13代将軍徳川家定が病弱で嗣子が無かったんで四賢侯と水戸藩主徳川斉昭らは 次期将軍に一橋慶喜(後の第15代(最後)将軍)を推してたんですよ! 一方井伊自身は紀州藩主徳川慶福を推したんですw井伊は大老の地位を利用し強権を発動!! 結局慶福が第14代将軍徳川家茂となることになり政敵を排除しだすんですね…… いわゆる『安政の大獄』でこれによって宗城は春嶽・斉昭達と共に隠居謹慎を命じられちゃいます…隠居の身となり先代宗紀の実子宗徳に第9代目藩主の座を譲ったんですけど…でも隠居後も藩政に影響を与え続けて謹慎を許された後に再び幕政に関与するようになり 文久2年(1862年)には生麦事件の賠償金支払いに反対したりしてるんです! また島津久光とも交友関係を持ちその後の公武合体を推進してたんですよ! 慶応3年12月(1868年1月)王政復古後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねるんですw でも明治元年(1868年)戊辰戦争が勃発すると宗城自身心情的に徳川家贔屓であったし 仙台伊達家が奥羽列藩同盟盟主だったんで薩長の行動に抗議し新政府参謀を辞任しちゃうんです! 明治2年(1869年)民部卿兼大蔵卿となり鉄道敷設の為イギリスからの借款を取り付けるんですw 明治4年(1871年)には欽差全権大臣として大清帝国との間で日清修好条規に調印し その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられてたんですよ! でも明治4年(1871年)に中央政界より引退しちゃうんですよ…… 宇和島伊達家は明治17年(1884年)華族令で伯爵を授けられたんですよ! 明治24年(1891年)宇和島藩は10万石格だったんで通常は伯爵なんだけど 政府は宗城の功を認めて特別に侯爵の地位を与えたんですよ!!明治25年(1892年)12月20日今戸屋敷で病没……享年75歳……法名は『靖国院殿藍山維城大居士』で墓所は東京都台東区谷中の谷中霊園にあります…ちなみに伊達宗徳は伊予国宇和島藩の第9代目(最後)の藩主文政13年(天保元年)閏3月27日(1830年5月19日)第7代目藩主伊達宗紀の3男として誕生官位は正二位で遠江守です!幼名は扇松丸⇒兵五郎!名は宗徳の他に紀周・宗周!号は馨山w 1837年従兄第8代目藩主伊達宗城の養嗣子となり1858年11月23日に宗城が 井伊直弼の安政の大獄で隠居処分となったんで家督を継承するんです!! 藩主就任後も実権は宗城に掌握されてたけどそれでも宗城の改革路線を引き継いで 専売制の強化や西洋式軍制の導入・教育等の普及など様々な改革で成果を挙げてるんですよ! でもやっぱし宗城の存在は大きくて宗徳はお飾りの立場に近かったんですよ…明治39年(1906年)11月29日77歳で死去…法号は『霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士』で墓所は宇和島市野川の大隆寺です… |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2006年01月24日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



