松前修廣は幕末の蝦夷地(北海道)松前藩の第14代目(最後)の藩主
幕末には3万石格だったけど北海道では米が獲れなかったんで松前藩は無高の大名なんですw
慶応元年(1865年)第13代目藩主松前徳廣の長男として誕生し幼名は勝千代w
ちなみに父松前徳廣は嘉永2年(1849年)祖父昌廣が隠居した当時僅か5歳で幼かったんで
家督は祖叔父崇廣が相続し幕府老中になるけど失脚し幕府より蟄居隠居を言い渡されると
やっと父徳廣が家督を継ぐことになったんですよ!
慶応2年(1866年)祖叔父崇廣が死去したんで父徳廣が第13代目藩主となるんですw
ちなみに…祖叔父崇廣の死は幕府には公表してなかったんですよ!!
でも父徳廣の在任中は踏んだり蹴ったりで ―――
明治元年(1868年)家臣の中で正議隊というグループがクーデターを起こしちゃったり
藩政の改革に乗り出したりしてるんでよ…
更には榎本武揚率いる旧幕府軍に松前城を襲撃されて後方の拠点である館城に逃けたけど
そこも襲撃され熊石の海岸より津軽海峡を渡り東北津軽に逃げ出しちゃうんです…
時代の激流に飲まれて気疲れしたのか父徳廣は弘前で死去しちゃいます…
父徳廣が旧幕府軍の襲撃で弘前に落ち延び客死しちゃったんで修廣が家督を相続するんですw
亡命中だけど松前藩第14代藩主となって 明治以降に出来た館藩の藩主でもあるんです!!
明治元年(1868年)から翌明治2年(1869年)は正に 松前藩と館藩の過渡期であるので
そういう2つ名が出て来るんですよ!
明治2年新政府に対し版籍奉還をしたのに伴い館藩知事に就任するんですよ!
松前藩の後継である館藩は僅か2年程の短命で明治4年(1871年)に廃藩置県で館藩は無くなり
代わりに館県が誕生して館県知事に就任します!
明治11年(1878年)館県が青森県の一部に併合されて廃止されたんで東京に移ります!
これが松前家が歴史の表舞台から消えた瞬間であり
蝦夷地(北海道)の統治者としての地位も完全に失った瞬間でもあったんです…
後に華族に列して子爵となり日露戦争勃発の明治38年(1905年)に東京で40歳で死去……
ちなみに幕末1854年の築城にも関わらず松前城(画像:慶応3年頃)は激しい攻防戦を体験してるんですよ!予算が無かったんで当時の松前家の居館だった福山館を拡張する築城法で落成!明治元年(1868年)蝦夷地に独立政権樹立を目指す旧幕府榎本武揚を首領とする軍勢が渡島半島各地を制圧し11月5日に元新選組副長土方歳三が700名程を率いて松前城へ総攻撃を開始するんです!!松前藩軍は防戦に努めたけど僅か数時間で落城しちゃいます…これは函館湾からの旧幕府軍艦の艦砲射撃もさることながら城の構えが余りに脆いかった為なんです…長沼流軍学者市川一学は大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたんだけど搦手方からは敵は攻めて来ないとして直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としてたんです…これを土方に衝かれた形となって落城しちゃうんですね…天守閣は昭和24年(1949年)6月5日焼失したけど昭和34年(1959年)に松前城資料館として再建されました!
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