『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

山内 豊信

イメージ 1

山内豊信(容堂)は幕末の土佐国土佐藩の第15代目の藩主

官位は従四位下・土佐守・侍従のちに従二位権中納言まで昇進してるんです!
諱は“豊信”で“容堂”は隠居してからの号!酒と詩を愛し自らを『鯨海酔侯』と称したんです!
時流に上手く乗ろうとする態度は当時志士達から「酔えば勤皇 覚めれば佐幕」と揶揄されましたw
また重度の歯槽膿漏でとっても口臭が臭かったと指摘されてるんですよ!!
文政10年10月29日(1827年11月27日)豊信(容堂)は
第12代目藩主山内豊資の弟山内豊著と側室平石氏との間に誕生し幼名は輝衛ですw
豊信(容堂)の生家山内南家は石高1500石の分家で連枝五家の中での序列は一番下です
通常藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが容堂は分家の出だったんで高知城下で生まれ育ちました!

第13代目藩主山内豊熈とその子で第14代目藩主山内豊惇が相次いで急死しちゃいます…

豊惇は藩主在職僅か12日の短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕しちゃうんです!
豊惇には実弟豊範(後の第16代目藩主)がいたけど僅か3歳だったんで
分家で当時22歳の豊信が候補となったんです!
豊熈の妻の実家に当たる薩摩藩等の後ろ盾により老中首座阿部正弘に働き掛けて
豊惇は病気のため隠居した形をとり嘉永元年12月27日豊信が藩主に就任するんです!
藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による旧来の藩政を嫌い
革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物吉田東洋を起用してますw
嘉永6年(1853年)吉田東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じて
家老達を押しのけて藩政改革を断行しちゃうんですよ!!
安政元年(1854年)6月東洋は山内家姻戚に当たる旗本松下嘉兵衛との間に諍いを起し
失脚して謹慎の身となっちゃうけど3年後の安政4年(1857年)東洋を再び登用し
東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎福岡孝悌らを起用するんですw
豊信は福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・薩摩藩主島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称されて彼らは幕政にも積極的に口を挟み老中阿部正弘に幕政改革を訴えてるんです!
阿部正弘死去後大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立しちゃいます!!
13代将軍家定が病弱で嗣子が無かったんで四賢侯や水戸藩主徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推してたけど結局井伊が推す紀州藩主徳川慶福が14代将軍家茂に決まっちゃいます…
井伊は大老の地位を利用し政敵を排除を開始しいわゆる『安政の大獄』です…
容堂はこれに憤慨し安政6年(1859年)2月隠居願いを幕府に提出しちゃうんです…

同年10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下っちゃうんですよ!

前藩主の弟豊範に藩主の座を譲り隠居の身となった当初は“忍堂”と号すけど
水戸藩士藤田東湖の薦めで“容堂”と改めたんです!
謹慎中に土佐藩でクーデターが起こり…桜田門外の変以降は全国的に尊皇攘夷が主流となります!
武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し容堂股肱の臣吉田東洋と対立しちゃうんですよ!!
遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至るんです…
その後瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握しちゃうんです……


文久3年8月18日(1863年9月30日)京都で会津藩薩摩藩による政変が起り佐幕派が復活!
これに伴い容堂も謹慎を解かれ土佐に帰国し藩政を掌握し藩政に影響を与え続けたんです!!
東洋を暗殺した政敵土佐勤王党の弾圧に乗り出し党員を捕縛し首領瑞山には切腹を命じるんです!
他の党員も死罪等に処せられ逃れた党員は皆脱藩し土佐勤王党はここに終わりを告げるんです…
東洋暗殺の直前に脱藩してた元土佐藩郷士坂本龍馬の仲介によって慶応2年(1866年)1月に薩長同盟が成立します…これで明治維新へと時代が大きく動き出しますw容堂自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けるけど倒幕へと傾いた時代を止めるのは出来なかったけど龍馬がたてた政権を朝廷に返す案「船中八策」を本人より聞いてた藩参政後藤象二郎はこれを容堂に進言するんです!容堂はこれを妙案と思い15代将軍慶喜に建白します!慶応3年10月14日(1867年11月9日)これにより大政奉還が成立したんですよ!

でもその後明治政府樹立迄の動きは終始薩摩・長州勢に主導権を握られちゃうんですよね…

慶応3年12月9日(1868年1月3日)開催された小御所会議に於いては会議の前に既に発せられてた王政復古の大号令に対し容堂は徳川家を中心とする列侯会議による政府を主張しあくまでも天皇による親政を主張する岩倉具視と激論となるんです!!結局岩倉と激論の末に圧倒され容堂は沈黙しちゃいます…会議はその後天皇親政・倒幕強行派のペースで進んでしまうんです…
慶応4年(1868年)勃発の戊辰戦争には土佐藩兵は加わらないよう厳命するけど
藩軍指揮官板垣退助はこれに従わず新政府軍に従軍しちゃってうんです!!
伊予松山藩へ進軍しついにはこれを占領しちゃうんですよ!

明治維新後の容堂は内国事務総裁となるけど旧臣や領民だったような身分の者とは馴染まず
明治2年(1869年)辞職し政界から引退するんですよ…
でも木戸孝允とは仲が良くて自宅に招き明治政府の将来等について語り合ったそーですw
東京で妾を10数人も囲い酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送ってます!

明治5年6月21日(1872年7月26日)積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ45歳で死去…

墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園(東京都品川区東大井4丁目)にあるんですよ!

開く トラックバック(2)

全1ページ

[1]


.

ブログバナー

まるこ
まるこ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

歴 史!!!

標ブ

71♪

ブログのお勉強

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事