|
仁孝天皇猶子として11歳で親王宣下を受け能久親王と名乗り出家得度し青蓮院門跡を相続! 慶応3年(1867年)江戸に下って上野の寛永寺に入り日光輪王寺門跡天台座主になります!! この頃の名を『輪王寺宮公現法親王』と言うんですよw 彰義隊に擁され彰義隊は徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点に江戸治安維持活動を展開!! 輪王寺宮は1868年戊辰戦争で上野戦争を避けて東北に逃れ仙台藩に迎えられ奥羽越列藩同盟の名目上の盟主に擁立されちゃうんですよ!!お飾りワッショイ!!仙台藩が新政府軍に降伏した後は京都で蟄居を申し付けられるけど明治3年(1870年)許されて伏見宮家に復帰し“伏見満宮”と呼ばれたんです!弟北白川宮智成親王の遺言により還俗して北白川宮家を相続し『北白川宮能久親王』と呼ばれましたw還俗後は陸軍に入りドイツに留学します!帰国後は陸軍少将⇒陸軍中将に昇進してます!!また獨逸学協会の初代総裁となり後に獨逸学協会学校設立に尽力したんですよ! 日清戦争で日本に割譲された台湾平定に向かい第1師団長として出征中の台南にて… 明治28年(1895年)10月28日に享年48歳で薨去なされました…政府はマラリアによる戦病死と発表したけど抗日ゲリラによる“暗殺”だったとの説があります…いずれにせよ皇族としては初めての外地における戦没者なんです… 陸軍大将に特進後に国葬となり豊島岡墓地に葬られました!また国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり台北に台湾神社(のち台湾神宮)・終焉の地に台南神社が創建されました!敗戦後には台湾神宮と台南神社は廃社となったんで現在はその御霊は靖国神社にて祀られてます…
一時は朝敵奥羽列藩同盟の盟主となりまた台湾平定の英雄とされ不運の死を
とげた数奇な人生は日本武尊に喩えられてるんですよ… 戊辰戦争中の明治元年(1868年)奥羽越列藩同盟が仙台藩に迎えた輪王寺宮公現法親王を『東武皇帝』又は『東武天皇』と称し即位させたとする説があるんですよ(逸見英夫『東武皇帝 戊辰戦争に消えたもう一人の天皇』等)!でも佐々木克説によると奥羽列藩同盟の盟主となった輪王寺宮を天皇に推戴し年号を「大政元年」とする構想があっただけみたいです…中山吉弘説によると輪王寺宮は即位して『東武天皇』と称されてたと言うんです!!そんで年号は「延寿元年」だったと言います…この説は北東北戊辰戦争に従軍した山本八十吉の話(『大館戊辰戦史』93頁)斬殺された仙台使節の罪状書きに「尊氏の悪例」と書かれてた(『仙台戊辰史』)ことを根拠にしてるんです! |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
崇禎帝は中国明朝 大明帝国の第17代目(最後)の皇帝諱は由檢で廟号は毅宗で諡号は荘烈愍皇帝と言います!これは明の後継王朝を標榜する清が贈ったものなんですよ!! また清は北京に崇禎帝を歴代皇帝と同じ昌平山に葬り陵墓を「思陵」としたんですw 1610年に第15代目皇帝泰昌帝の5男として生まれ1628年に兄第16代目皇帝天啓帝の後を継いで18歳で即位しすぐに兄天啓帝の元で専横を奮った宦官魏忠賢を誅殺しちゃって名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだんです!!崇禎帝の治世は農民反乱が頻発し満州族がたびたび侵入し混乱してました…当時は『北に満州族の後金』が進入し『南では李自成達の反乱』が多発して国事多難の時期で 崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと努力したんです! http://www.kpcnet.ne.jp/~chiharu/phot-c/sikin.jpg 紫禁城
崇禎帝は先代天啓帝らと違いとっても政治に熱心であり色事に耽る事もなく倹約を心掛けてたんです! でも唯一つ非常に疑い深く家臣を信用しない重大な悪癖があったんです… 即位直後から重臣を次々と誅殺しちゃったり特に山海関で満州族からの防衛を一手に引き受けてた名将袁崇煥を誅殺した事は致命的で大明帝国が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が上げられるんです… 崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るけど討伐軍を組織する為に増税を行った事により窮迫した民衆が李自成軍に加わり全くの逆効果だったんです…1644年李自成軍は北京を包囲し3月19日に北京は陥落しちゃいます!崇禎帝は紫禁城の裏山である景山で34歳で首吊り自殺しこれで大明帝国は滅亡しました…その猜疑心により崇禎帝が自害した時に傍らに居たのは宦官一人だったんですよ…崇禎帝は少なくとも彼なりに国の事を案じて大変な努力をしてたと思うんですよ!!李自成が西安で皇帝に即位した時も「明の皇帝は甚だしく暗君という訳ではないが・・・」とある程度の評価をしてるんです!その猜疑心により全てが裏目裏目になり自滅した崇禎帝だけどもし大明帝国の国力にもっと余裕がある時代に即位してたらもっと名君と称えられてたんじゃないかと思います!
|
|
乗謨(恒)は4歳にして三字経を暗誦したんですって!!初名を『松平乗謨』と言います! 江戸にて服部蘭台に『詩』を学び蘭台より“竜岡”の号を受けるけど“亀崖”と改めちゃいます…また山脇東太郎に『蘭語』を入江六郎に『仏語』を丹後宮津藩士沢村黒庵に『書法』を学びますw広く古法帖を渉猟して“篆隷行草”“皆巧妙”の域に進んだんですよ!…頭良過ぎ…
嘉永4年(1853年)に13歳で第14代目将軍徳川家慶に謁し翌年に家督を継ぐんです! その際に下館藩主石川総管のお姉サンと結婚します!! 乗謨(恒)は幕末の動乱の中では佐幕派であり文久3年(1863年)幕府に願い出て藩治を信濃国佐久郡田野口に移しちゃうんですよ!でも三河国の領民の多くはこの移転に反対して嘆願書を差し出す程だったみたいです!仁君で領民から絶大の支持があった大給松平家は奥殿の領民にとって自慢の殿様でしたw天明・天保の大飢饉の時は領内に「お救い米」を配布して餓死者を一切出さない善政をしたんです!!その事などがありどうしても殿様には奥殿に留まって欲しいと思う領民が大半だったんです…反対する領民は1千人にもなり非常に危険な状態になりました…そこで乗謨(恒)は奥殿代官の1人である海保忠典を派遣して必死の説得を試みました…その甲斐あって奥殿領民は渋々移転に賛成したんです!さらに大番頭より若年寄となり慶応元年(1865年)陸軍奉行に転じ幕府の兵制を改めます!!慶応2年(1866年)には老中格に進み陸軍総裁を兼ねるんですよ!! 明治元年(1868年)田野口藩を竜岡藩と改称しちゃうんです… 乗謨(恒)は幕末の動乱の中では佐幕派であったけど戊辰戦争では早々に新政府に恭順します… 明治2年(1869年)6月版籍奉還により竜岡藩知事になりますw 明治4年(1871年)6月上表して封建の制を廃し郡県の治となすべきを論じ竜岡藩知事を辞しちゃうんです…明治4年(1871年)7月民部省に出仕し左院少議官に任ぜられその後式部寮御用掛・帝室賞牌取調掛・太政官五等を勤め明治8年(1875年)7月には元老院議官に任ぜられたんですw
明治維新後に姓を『大給』に改めて翌年には名を『恒』と改名するんですよ!明治10年(1877年)西南戦争が起ると恒は桜井忠興・佐野常民らと首唱し“博愛社”を創立して総督府に願い出て許可を受けて医員看護人を戦地に送って救護に従事させました!! これが「日本赤十字社」の起因とされてるんですw 明治11年(1878年)に賞勲局副総裁となります!! 明治17年(1884年)には華族令施行で子爵となりますw 明治28年(1895年)になると賞勲局総裁になるんですよw 明治42年(1909年)2月には枢密院顧問官となります!
明治43年(1910年)1月6日に東京にて享年72歳で死去します…突然だけど『五稜郭』って言うと戊辰戦争最後の激戦地『北海道函館の五稜郭』がとっても有名だけど……実はもーひとつ……本州にも五稜郭があるの知ってますか?長野県臼田にその『本州の五稜郭』があるんですよ!!築城したのは当時若年寄だった乗謨(恒)でありフランスのリース市の稜堡式城郭(陸軍元帥ボンバーが築造)に習ったものと言われてるんです!着工されたのは元治元年(1864年)3月で慶応3年(1867年)竣工なんですよ!このとき地名を取って「龍岡城」と命名され乗謨(恒)はこのとき本領地三河国奥殿からこの龍岡に陣屋を移したんです!このとき乗謨(恒)は老中格陸軍総裁に昇進してました!龍岡城五稜郭【中画像】は明治5年(1872年)廃藩置県で廃城となり主たる建物は取り壊されちゃってます…現在その跡地は田口小学校の敷地となってるけど堀・石垣・土塁及び御台所等は現存してるんですよ!五稜郭は日本にふたつあったんです!! そんで【下画像】は奥殿陣屋なんですよ!! |
全1ページ
[1]



