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初名は「可時」で通称は「久之助」で官位は従五位下侍従・信濃守なんですよw 生後まもなく高家旗本由良貞靖の養子となります!! 天保15年(1844年)8月15日に将軍徳川家慶に御目見しますw 嘉永6年(1853年)1月27日には部屋住ながら高家見習に召し出されるんですw 嘉永6年(1853年)2月5日従五位下侍従・信濃守に叙任します!! 嘉永6年(1853年)10月2日に高家職に就任してるんですよw 元治元年(1864年)7月29日養父貞靖の隠居により44歳で家督を相続しますw 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では常陸国で挙兵し新政府に早く恭順してます!! そんで新政府より中大夫(男爵相当)とされるんですよw 維新後に元交代寄合岩松俊純(後の新田俊純)と「新田氏の正嫡」をめぐって争います!! 明治3年(1870年)11月19日の太政官布告「廃旧官人諸大夫侍及中大夫等位階」により ほとんどの士族が位階を返上させられた後も従五位を保持し続けた有位士族だったのに対し 岩松俊純(後の新田俊純)は無位無官の士族でこの時点では貞時の方が優遇されてたんです!! さらに先祖新田義貞の神号追諡のため請願を盛んに行ってるんですよ!! これにより新田義貞は藤島神社に祀られ新政府より正一位を贈られてますw こうした動きだけを見ると貞時には「自分こそが新田の嫡流」という自負があったんです!! 明治6年(1873年)2月9日に東京にて享年54歳で死去してます…最終的に貞時の死去もあり岩松俊純は「新田姓」に復します……そんで明治17年(1884年)の華族令施行により新田家(岩松家)は男爵に叙されます! 理由は明らかじゃないけどきっと新政府は岩松家と比較して由良家の系図を あんまし信用してなかったんでしょうね…… 行動的だった貞時が早い時期に没したことも少なからず影響したのかもしれません…… 横瀬氏(後の由良氏)は小野篁の流れをくむ小野氏の末裔とされる武蔵七党の横山猪股党の一族だったんです!!新田庄横瀬郷を本領とし「横瀬氏」を称したんです!!岩松氏の重臣だったけど次第に実権を握り主家を圧倒するようになり横瀬泰繁の代には主岩松昌純を殺害し金山城奪ってるんですよ…以降岩松氏は監禁状態に置かれ横瀬氏は下克上をしたんです!!横瀬成繁は「由良成繁」と名乗り新田義貞の子孫を自称したんです!!成繁は上杉謙信と結び後北条氏に対抗し反北条連合に加わったけど沼尻の合戦で反北条連合が負けると後北条氏に屈服し金山城を明け渡し成繁の子国繁は小田原城に事実上人質となっちゃいます…小田原の役で後北条氏が敗れると由良国繁は解放されたけど所領を没収されたんです…国繁は後北条氏に代わり関東に入府した徳川家康に謁見し常陸国牛久に5400石を与えられます!!
ちなみに……岩松氏は足利義兼の長子足利義純を祖とし新田氏の傍系とされてます!!義純は新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の女を妻としたけど後に畠山重忠の未亡人を娶って源姓畠山氏の祖となり新田氏の女とその子達は義絶されたんです…その義絶され新田氏に残った子岩松時兼が新田宗家より領地を与えられ起こしたのが岩松氏なんです!!でも岩松守純は関東に入った徳川家康に接見するけど新田一族の「世良田得川氏の子孫」を自称してた徳川氏にとって新田義貞の孫が養子に入ったと主張する岩松氏は目障りなだけで表面上は岩松氏を新田宗家に立て交代寄合の格式を与えながらも「新田姓」を名乗ることは許さず禄高も交代寄合としては最低レベルの20石(後に120石)を与えただけで江戸時代に岩松氏は交代寄合として細々と続いたんですよ……
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2006年08月17日
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