|
通称は「庸蔵」で官位は従四位上左少将・長門守なんですよ!! 実兄高家旗本畠山義一の養子となりますw 正室は米沢藩主上杉治広の4女祇子サンなんですよ!! 婚姻に際し祖父上杉治憲(鷹山)は大名に嫁いだ姉らを羨ましがらぬように諭す手紙を送ります!! でも祇子サンとは死別しちゃって継室は妹である上杉治広の5女増子サンだったんです!! でも増子サンとも死別しちゃって継室は府中藩主松平頼説の娘サンでしたが離婚しちゃうんです… 文化7年(1810年)11月4日養父義一の死去で家督を相続し表高家に列しますw 文化8年(1811年)11月5日将軍徳川家斉に御目見します!! 文化11年(1814年)11月15日高家に就任し従五位下侍従・長門守に叙任しますw 後に従四位上に昇進してます!! 天保13年(1842年)7月15日高家肝煎に就任し後に左少将に任官してます!!
嘉永5年5月10日(1852年6月27日)に死去してます…その後は息子の畠山義勇が継いでますw畠山家は南北朝時代に足利尊氏に従い室町幕府創立時の功績によって能登・越中・河内・和泉を領する守護大名となり室町時代には斯波氏や細川氏とともに三管領家として名を連ねましたw畠山国清は足利家の内紛である観応の擾乱ではじめ尊氏の弟の足利直義方に就くけどのちに尊氏方に鞍替えしちゃうんですよ!!国清は関東管領になり東国で南朝方と戦うけど鎌倉公方の足利基氏と対立し追放されます……畠山基国は明徳2年(1391年)の明徳の乱でも戦い応永5年(1398年)に管領に就任します!!畠山満家は足利義持時代に管領になってますw15世紀後半に畠山持国の子義就と養子政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起きそれが「応仁の乱」の原因のひとつにまでなっちゃってるんです……以後畠山氏は衰退の一途をたどり戦国時代には河内を領する「高屋畠山氏」と能登を領する「七尾畠山氏」に分裂してしまうんです…河内畠山氏は畠山政長と畠山義就の子孫が互いに争い応仁の乱後も内紛を続けたんです!!政長流畠山家を官途の尾張守から「尾州家」・義就流畠山家を官途の上総介から「総州家」と呼ばれてますw最終的に尾州家が優勢となるけど細川氏や三好氏の圧力を受けさらに重臣の遊佐長教や木沢長政・安見直政・遊佐信教らに歴代当主が次々と追放もしくは暗殺されちゃって天正4年(1576年)最後の当主である畠山高政が高屋城で死去することで滅亡します…でも高政の弟政尚の子である畠山貞政が江戸幕府の高家となるんです!! |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2006年08月20日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



