今日から119年前の今日明治20年(1887年)1月22日東京初の電灯が鹿鳴館で燈った日なんですよ!!これが電灯営業の始まりなんです!ちなみに鹿鳴館は明治期に「外国人接待所」として建てられた建物なんですよ!!計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨(画像)ですw 井上は不平等条約改正のため日本が文明国である事を外国人に示す必要があると考えたんです… 井上の外交政策を鹿鳴館外交とも呼ぶんですよ! それ迄は外国賓客の迎賓館として準備された建物はなくて 明治3年(1870年)急遽改修した浜離宮の延遼館か三田の蜂須賀邸等を借用してたんです… 鹿鳴館建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地)に決まり 明治13年(1880年)に着工! 途中規模変更(拡大)とかあって3年掛りで明治16年(1883年)7月落成したんですw設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルなんですよ!煉瓦造2階建で1階に大食堂・談話室・書籍室等があって2階が舞踏室で3室開け放つと 100坪程の広間になったんです!バーやビリヤードも設備されてたんですよ! 明治16年(1883年)11月28日12百名を招待し落成の祝宴を行ったんです!鹿鳴の名は詩経「鹿鳴の詩」から引用したもので祝宴当日は井上馨の誕生日だったんですよ(笑)鹿鳴館では外国からの賓客接待ばかりでなく天長節(11月3日明治天皇誕生日)の 祝賀会行事を始め数々の国内行事も行われるようになってたんですw 世間の注目を集めた会合としては夜会・舞踏会・婦人慈善会があったんですw
なお世間の耳目を集めた明治20年(1887年)4月20日内閣総理大臣伊藤博文夫妻主催の 仮装舞踏会(ファンシー・ボール)は鹿鳴館でなく首相官邸で行われたんですよ!! 「嬌奢を競い淫逸に至る退廃的行事」として非難の声を挙げてた者もこの仮装舞踏会が 開催されると「亡国のきざし」と口を極めて罵ってたんです… この時勝海舟なんかは憂国の感を深め21ヶ条の時弊を挙げて政府に建白してるんです… 鹿鳴館外交への風当たりは厳しくて更に条約改正案が世間に知れると大反対が起こっちゃいます… 面目を失した井上は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞任しちゃうんです…井上辞任後も明治21〜3年(1888〜90年)と明治26年(1893年)の天長節夜会は鹿鳴館で大規模に開催されてるんです!まさにダンスパーティーなんですよ!! 明治23年(1890年)宮内省に払い下げられ華族会館が一部を使用してますw 明治27年(1894年)の地震で被災し修復後に土地・建物が華族会館に払い下げられたんですw 旧鹿鳴館の建物は昭和2年(1927年)徴兵生命保険(現大和生命保険)に売却された後も 保存されてたけど昭和15年(1940年)に取壊されちゃったんです…… 山手線の車中から取壊しの様子を見てたのが建築家谷口吉郎でこれが後年博物館明治村の建設に尽力する動機になったんですって! |
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2006年01月22日
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池田章政は備中国鴨方藩の第9代目藩主で後の備前国岡山藩の第10代目(最後)の藩主父は人吉藩主相良頼之で天保7年5月3日(1836年6月16日)次男として誕生w幼名は満次郎!正室は大垣藩主戸田氏正の娘で官位は従四位下!左近衛権少将!明治時代に従一位に昇進します!!鴨方藩主時代の名乗りは池田政詮なんですよw 父は肥後人吉藩主相良頼之だけど頼之の祖父相良長寛がかつて岡山藩主池田宗政の次男だったから 1847年鴨方藩先代藩主池田政善が死去したんで養嗣子として迎えられて後を継いだんですw 幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し藩内における尊皇攘夷派からの信望もあったんですw 1868年岡山藩主池田茂政が実兄徳川慶喜の追討を新政府から命じられた時に
それに応じずに隠居したんで同年3月15日にその後の岡山藩主となったんですw 鴨方藩主は子池田政保が後を継いだんです! そして章政は戊辰戦争では新政府軍に与して藩軍を関東・奥羽・函館に迄派遣したんですw1869年版籍奉還により藩知事となるんですね!1871年廃藩置県により免官となって東京へ引っ越すんです! ここに複合天守閣で有名な岡山城は藩の府城たる役割を終え国の所有となったんですよ…その後章政は貴族院議員・第十五国立銀行頭取等を務めたんですねw明治17年(1884年)の華族令により侯爵位を授けられてるんですよ! 1903年従一位となるけど明治36年(1903年)6月5日に68歳で死去しちゃいます…… |
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