浅野長勲は幕末の安芸国広島藩50万石の第12代(最後)の藩主明治から昭和にかけての政治家で父は第7代藩主浅野重晟の4男浅野長懋の8男浅野懋昭母は沢氏で正室は第13代目土佐藩主山内豊熈の娘w官位は安芸守・参与・議定・正二位・権中納言!1842年7月23日生まれで幼名は為五郎で初名は長興とか茂勲ですw1856年2月浅野長訓の養嗣子となって初め青山内証分家の家柄広島新田藩を継いだんです! 1862年今度は本家の藩主となってた長訓の養嗣子となるんです!! その後は幕末期の動乱の中で養父長訓の補佐を務めてるんですよ! 江戸幕府と朝廷の折衝は長勲が務めてたんです!! 1867年には大政奉還の建白書を土佐藩・長州藩と共に幕府に提出しちゃってますwその後小御所会議にも出席してるんですよ!1869年1月24日養父長訓の隠居により後を継いだんですw 同年6月版籍奉還で藩知事となって藩政改革を務めたんだけど 1871年7月の廃藩置県で免官され東京へ引っ越しちゃいます!! でもこの時に百姓一揆が起こってるんです…… 明治政府では元老院議官やイタリア公使・貴族院議員を務め1884年に侯爵となりますw
その後も広島県内における諸事業の支援や各種産業の開発援助等に務めたんです! 1937年(昭和12年)2月1日に96歳の長寿をもって死去…墓所は広島市の『新庄山墓地』「最後の藩主・最後の大名」とは一般的に“旧上総請西藩主林忠崇”か“旧近江大溝藩主分部光謙”とされてるけど忠崇は戊辰戦争後に改易され光謙も最後の大名と言うだけの事蹟が乏し過ぎるんで長勲が最後の大名としては最も相応しいと言われてて当時は最後の大名として有名だったんです!
広島城(画像)の敷地内に全国六鎮台の一つが設置され広島は維新後は軍都として発展してく事となったんですね!歩兵第11連隊や広島陸軍幼年学校等が城内に設置されたんです!!1894年日清戦争の時には戦場から遠い東京より大日本帝国大本営が広島城内に移され1894年9月15日〜1895年4月27日まで明治天皇も広島に行幸してたんです!!これに伴い帝国議会も城内で召集されてたんですよ!日清戦争が終わる迄の短期間だけど事実上広島市が日本の首都だった事になんですw広島に大本営が置かれた理由として山陽鉄道(現在の山陽本線)が1894年6月広島まで延長され宇品港(現在の広島港)が1889年大型船舶が停泊出来る様に整備された事が最大の理由なんです!天守閣等は1931年(昭和6年)に国宝に指定されるけど1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分原子爆弾投下で強烈な爆風と爆圧と熱線によって建物は一瞬にして全て吹き飛び全焼しちゃったんです…建材のその後に関しては定かではないんですよ…1953年(昭和28年)3月31日国の史跡に指定されてます!!1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が開催された際に鉄筋造で天守閣が外観復元されたんです!内部は広島城資料館となってるんですw1994年(平成6年)には二の丸平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門等が木造で復元されたんですよ!ちなみに画像は原爆で焼失する5年前の1940年(昭和15年)の広島城ですw |
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2006年01月23日
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