過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2006年01月27日
全1ページ
[1]
松平慶永(春嶽)は幕末の越前国福井藩の第14代目の藩主幕末〜維新期の英邁な藩主で春嶽達4人の大名を後に“幕末四賢侯”と称したんです!文政11年9月2日(1828年10月10日)田安徳川家当主徳川斉匡の庶子として江戸城内の田安邸で誕生wその後第13代目福井藩主松平斉善の養子となるんです! 中根雪江に教育を受け天保9年(1838年)に養父斉善が死去すると11歳で藩主となります! 同年元服し将軍徳川家慶の一字を賜り『慶永』と名乗り正四位下・左近衛権少将・越前守に叙任w 中根雪江や由利公正・三岡八郎・橋本左内ら改革派の家老・藩士に補佐され慶永は洋楽所の設置や 軍制改革等の藩政改革を積極的に行って行くんです! 嘉永4年(1851年)左近衛権中将に昇進してます!! 嘉永6年(1853年)アメリカのペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際は 老中阿部正弘らと交流して結局開国派に転じるんですよ! 13代将軍徳川家定の将軍後継問題では橋本左内を京都に派遣して運動させて 一橋徳川家一橋慶喜(後の徳川慶喜)を後押ししてますw 大老となって14代将軍後継は慶福に決定しちゃうんです… これを受けて井伊は「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を行っちゃうんです!!幕府が朝廷の勅許無しでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は斉昭らと共に登城して抗議し不時登城の罪を問われて謹慎処分を下され左内も処刑されちゃいます… その後井伊は桜田門外の変で暗殺され文久2年(1862年)に幕政への参加を許されます!朝廷では斉彬死後に島津久光が兵を率いて京都へ上洛し政局に積極的に関わってて久光は勅使大原重徳と共に江戸へ下り慶喜の将軍後見職就任や政事総裁職就任を求めます! 文久2年(1862年)7月9日春嶽は新設の政事総裁職に就任し慶喜と共に京都守護職の設置や 会津藩主松平容保の京都守護職就任・将軍の上洛など公武合体政策を推進するんです! 翌年には上洛するけど京都では長州藩など尊皇攘夷派が強く慶喜が尊攘派と妥協しようとすると 反対して文久3年(1863年)3月2日に総裁職を辞任しちゃうんですよ!! 翌年2月15日には京都守護職に就任し翌日越前守から大蔵大輔に転任するんです… でも4月7日には京都守護職の任を免ぜられちゃうんです… 文久3年(1863年)会津藩と薩摩藩が協力した8月18日の政変で京都より長州藩が追放されその直後に起った禁門の変で長州藩が完全に失脚すると参与となるんです!慶応3年(1867年)には島津久光や前土佐藩主山内豊信(容堂)・宇和島藩主伊達宗城らと四侯会議を開き朝敵となった長州藩の処分について話し合い春嶽は長州征伐に反対すんだけど 維新後の新政府では慶応4年(1868年)1月17日に内国事務総督に就任して 明治2年(1869年)5月15日民部官知事となり同年7月8日民部卿に転任し 8月11日には大蔵卿を兼任してるんです!8月24日には大学別当・侍読にも就任!! 9月26日に正二位に叙せられるんだけど明治3年(1870年)に政務を退いちゃいます… 明治14年(1881年)勲二等旭日重光章授賞w 明治21年(1888年)に従一位に叙せられ翌年勲一等旭日大綬賞を授賞w 明治23年(1890年)6月2日に東京都小石川の自邸にて享年64歳で死去します…辞世の歌は『なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため』墓所は東京都品川区の補陀洛山海晏寺で福井市鎮座の福井神社の主祭神に祀られてます! 余談ですが…慶永の後を受け越前国福井藩の第15代目(最後)藩主となった松平茂昭は1836年9月17日(天保7年8月7日)越後国糸魚川藩主松平直春の長男として誕生してます!はじめ父直春の後を継いで糸魚川藩主を務めてたけど1858年井伊直弼による『安政の大獄』で第14代目越前福井藩主だった慶永(春嶽)が隠居・謹慎処分となったんで幕命によりその後を継いで第15代目藩主となったんです!このとき将軍徳川家茂から「茂」を賜って“直廉”から“茂昭”に改名したんですよ!でも藩内には隠居した慶永をはじめ三岡八郎・中根雪江・横井小楠・橋本左内等の改革派の家老や藩士が多数いたんで茂昭自身には実権は全く無くて正真証明“傀儡の当主”の立場だったんです… そんな中慶永(春嶽)死去の53日後の1890年(明治23年)7月25日に享年55歳で死去します…お城の画像は“幕末の福井城”ですw今は城址に福井県庁がありますw |
全1ページ
[1]



