『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

九戸 政実

イメージ 1

九戸政実は南部家の重臣

1536年(天文5年)九戸信仲の嫡男として誕生w

実弟に南部実親がいて九戸家はもともと南部氏の一族ですw
九戸政実は武将として優れており九戸家は政実の代に勢力を大幅に広げて

南部宗家に匹敵しそれを凌ぐ程の勢力を築いてたんです!

その立場は南部宗家から自立した大名ではなくその家臣三戸南部家の家臣(陪臣)だったと
一般には認識されてるけど中央の室町幕府の認識はあくまでも独立した大名であり

南部氏と共同歩調を取ってる勢力として九戸氏を見てたんですよ!!

事実1563年将軍足利義輝が室町幕府諸役人の名前を書き出た資料の中にも
南部晴政と並んで九戸政実の名が記入されてたんですよw
以上から九戸氏と南部氏の関係は従来言われるような主従関係じゃなくて
国人同士の対等同盟というべきだったんでしょうね!
1569年南部晴政の要請で安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取等に協力しその勢力を拡大!!
そんで斯波氏の侵攻に際しても石川高信の支援を行い講和に貢献してますw
1582年南部晴政が病死すると南部氏は晴政の養子信直と実子晴継の後継者を
巡る激しい家督争いが始まる事となっちゃうんです…
晴政の跡は実子晴継が継ぐけど父の葬儀の終了後三戸城に帰城する際に暗殺されちゃうんです…
急遽南部一族や重臣が一同に会し大評定が行われたんですね!!
後継者として南部晴政の養嗣子でもあった南部信直
一族で最有力勢力の九戸政実の実弟南部晴政の娘婿南部実親が候補に挙げられるんですw
評定では南部実親を推す空気が強かったけど北信愛が事前に八戸政栄を調略し

結局は南部信直が後継者となる事が決定しちゃうんです…

九戸政実としては恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者南部信直が継いだ事に大きな不満を抱き暇を願い出て自領へと帰還することとなるんです…
1586年信直に対して自身が南部家の当主であると公然と自称するようになるんです!
このような政実の姿勢は1590年豊臣秀吉の「奥州仕置」後も変化はなくてついに1591年1月南部氏の正月参賀を拒絶し同年3月挙兵しちゃうんです!!
九戸勢はとても強くて南部信直は家臣の日和見もあって苦戦するんですよw
そしてついに自力での九戸政実討伐を諦め豊臣秀吉に使者を送り九戸討伐を要請しちゃいますw
秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政・石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始し出羽国から小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季・津軽為信・松前慶広らが参陣し九戸討伐軍の兵力は6万人を上回ったんです…
同年9月1日九戸討伐軍は九戸家所領への攻撃を開始します!
怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌2日に九戸政実・実親の籠る九戸城も包囲総攻撃を開始!
善戦した九戸政実だったけど抗戦を諦め4日に出家姿で九戸討伐軍に降伏します…
1591年11月6日(天正19年9月20日)豊臣秀次の陣へと引き出された九戸政実・実親兄弟らは“死”を覚悟しており従容として斬首されちゃいます…

そして女子供を含む九戸一族もことごとく斬殺され九戸氏は滅亡しちゃいました…

画像は九戸城址に残る九戸神社です!!当時の巨勢の面影は全く今はありません…

開く トラックバック(2)

松平 慶永

イメージ 1

イメージ 2

松平慶永(春嶽)は幕末の越前国福井藩の第14代目の藩主

幕末〜維新期の英邁な藩主で春嶽達4人の大名を後に“幕末四賢侯”と称したんです!
文政11年9月2日(1828年10月10日)田安徳川家当主徳川斉匡の庶子として

江戸城内の田安邸で誕生wその後第13代目福井藩主松平斉善の養子となるんです!

中根雪江に教育を受け天保9年(1838年)に養父斉善が死去すると11歳で藩主となります!

同年元服し将軍徳川家慶の一字を賜り『慶永』と名乗り正四位下・左近衛権少将・越前守に叙任w

中根雪江や由利公正・三岡八郎・橋本左内ら改革派の家老・藩士に補佐され慶永は洋楽所の設置や

軍制改革等の藩政改革を積極的に行って行くんです!

嘉永4年(1851年)左近衛権中将に昇進してます!!

嘉永6年(1853年)アメリカのペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際は

水戸徳川家徳川斉昭や薩摩藩主島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張するけど

老中阿部正弘らと交流して結局開国派に転じるんですよ!

13代将軍徳川家定の将軍後継問題では橋本左内を京都に派遣して運動させて

一橋徳川家一橋慶喜(後の徳川慶喜)を後押ししてますw

幕閣では将軍後継問題で紀州徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派で彦根藩主井伊直弼が

大老となって14代将軍後継は慶福に決定しちゃうんです…

これを受けて井伊は「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を行っちゃうんです!!

幕府が朝廷の勅許無しでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は斉昭らと共に

登城して抗議し不時登城の罪を問われて謹慎処分を下され左内も処刑されちゃいます…
その後井伊は桜田門外の変で暗殺され文久2年(1862年)に幕政への参加を許されます!
朝廷では斉彬死後に島津久光が兵を率いて京都へ上洛し政局に積極的に関わってて

久光は勅使大原重徳と共に江戸へ下り慶喜の将軍後見職就任や政事総裁職就任を求めます!

文久2年(1862年)7月9日春嶽は新設の政事総裁職に就任し慶喜と共に京都守護職の設置や

会津藩主松平容保の京都守護職就任・将軍の上洛など公武合体政策を推進するんです!

熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え藩政改革や幕政改革にあたり彼の意見を重用しますw

翌年には上洛するけど京都では長州藩など尊皇攘夷派が強く慶喜が尊攘派と妥協しようとすると

反対して文久3年(1863年)3月2日に総裁職を辞任しちゃうんですよ!!

翌年2月15日には京都守護職に就任し翌日越前守から大蔵大輔に転任するんです…

でも4月7日には京都守護職の任を免ぜられちゃうんです…
文久3年(1863年)会津藩薩摩藩が協力した8月18日の政変で京都より長州藩が追放され
その直後に起った禁門の変で長州藩が完全に失脚すると参与となるんです!
慶応3年(1867年)には島津久光や前土佐藩主山内豊信(容堂)・宇和島藩主伊達宗城らと

四侯会議を開き朝敵となった長州藩の処分について話し合い春嶽は長州征伐に反対すんだけど

2回に渡る長州征伐に至っちゃうんです…

同年12月9日の王政復古の宣言の前日には朝廷より議定に就任してるんです!

王政復古後の薩摩長州の討幕運動にはもちろん賛成しなかったんですけどね…

維新後の新政府では慶応4年(1868年)1月17日に内国事務総督に就任して

明治2年(1869年)5月15日民部官知事となり同年7月8日民部卿に転任し
 
8月11日には大蔵卿を兼任してるんです!8月24日には大学別当・侍読にも就任!!

9月26日に正二位に叙せられるんだけど明治3年(1870年)に政務を退いちゃいます…

明治14年(1881年)勲二等旭日重光章授賞w

明治21年(1888年)に従一位に叙せられ翌年勲一等旭日大綬賞を授賞w

明治23年(1890年)6月2日に東京都小石川の自邸にて享年64歳で死去します…

辞世の歌は『なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため』

墓所は東京都品川区の補陀洛山海晏寺で福井市鎮座の福井神社の主祭神に祀られてます!


余談ですが…慶永の後を受け越前国福井藩の第15代目(最後)藩主となった松平茂昭は
1836年9月17日(天保7年8月7日)越後国糸魚川藩主松平直春の長男として誕生してます!はじめ父直春の後を継いで糸魚川藩主を務めてたけど1858年井伊直弼による『安政の大獄』で第14代目越前福井藩主だった慶永(春嶽)が隠居・謹慎処分となったんで幕命によりその後を継いで第15代目藩主となったんです!このとき将軍徳川家茂から「茂」を賜って“直廉”から“茂昭”に改名したんですよ!でも藩内には隠居した慶永をはじめ三岡八郎・中根雪江・横井小楠・橋本左内等の改革派の家老や藩士が多数いたんで茂昭自身には実権は全く無くて正真証明“傀儡の当主”の立場だったんです…

そんな中慶永(春嶽)死去の53日後の1890年(明治23年)7月25日に享年55歳で死去します…

お城の画像は“幕末の福井城”ですw今は城址に福井県庁がありますw

全1ページ

[1]


.

ブログバナー

まるこ
まるこ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

歴 史!!!

標ブ

71♪

ブログのお勉強

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事