『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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佐竹 義堯

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佐竹義堯は幕末の出羽国秋田藩第12代目(最後)の藩主

義堯は文政8年7月27日(1825年9月9日)相馬中村藩主相馬益胤の子3男として誕生w
 天保10年(1839年)元服し名を宗胤とするんですw
 嘉永2年(1849年)岩崎藩主佐竹壱岐守義純の養子となり名を義核と改名します!
 安政4年(1857年)7月1日秋田藩主佐竹義睦が急逝し宗家を継ぎ9月義就と改名w
 将軍徳川家定に謁見し第12代目(最後)秋田藩主となるんです!
 同年12月従四位下に叙せられ文久2年(1862年)名を義堯と改めましたw
安政6年(1859年)5月秋田に入部し入部間もない7月1日男鹿半島沖合にロシア汽船が現れ領民を驚かすんですよ!当時攘夷論が主流の時期だったけど義堯はロシア船員からの薪の求めを許可したり人道的な立場で対処してるんですよ!
 藩内の情勢に目をやると当時秋田藩は財政事情が悪化してて人事刷新を始めとする藩治の改革を開始!
 自ら範を垂れ質素倹約に励み文武を奨励しますw
 文久2年(1862年)4月に江戸に上り文久3年(1863年)1月京都に上洛するんです!
義堯の帰藩後京都ではさらに攘夷論が盛んになり朝廷から義堯に京都警備の要請が来ます!!一方幕府からも江戸城への登城を求められちゃうんですよ!
 朝廷と幕府の要請の板挟みとなった義堯だけど考えた末に幕府の要請を断り
 朝廷からの再三の要請があったんで名代として戸村十太夫(義效)を文久3年8月に京都に派遣!
 警衛の命は12月に解除されたんですw
 翌元治元年(1864年)に京都警備の財源として2万両の新札発行と3万5千石の用米調達を行います!

             http://www.geocities.jp/chiezo_ikomai/tohoku/akita/kubota1.jpg 久保田城

慶応2年(1866年)6月〜9月まで義堯は京都警衛の当番だったけど持病が回復せず名代として小野岡右衛門を警衛に当たらせたんですよ!8月に江戸を経由して上洛する為に出発するけど江戸に着くとまもなく病状が悪化しそのまま江戸に留まる事になっちゃうんです…慶応3年(1867年)には前年の凶作に苦しむ領民の救恤の為帰藩を願い出るけど許可されずその間に持病が再発して病床に着いちゃうんです…
 江戸に闘病中王政復古の大号令がなされ慶応4年(1868年)1月に無理を押して帰藩し
 重臣を集めた会議で決死の思いで上洛を決定!!
 でも相変わらず病状は好転せず名代として再び小野岡右衛門を上洛させるんです!
 同年戊辰戦争が勃発すると会津討伐を新政府軍から命じられた仙台藩の援軍として
 2月に奥羽鎮撫総督として大阪より海路仙台へ向かうんです!
 戊辰戦争は翌明治2年(1869年)終結し版籍奉還がなされると義堯は藩知事に任命されます!
 明治4年(1871年)廃藩置県後は東京に転居してます!!

明治17年華族に列せられ侯爵となるけど同年10月23日病で死去…享年60歳…

 死後は浅草総泉寺に葬られました…明治41年(1908年)正二位を追贈されてるんです…

 分家の佐竹南家第21代目当主佐竹義宏サンのHPです ⇒ 佐竹義宏のホームページ

細川 護久

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細川護久は幕末の肥後国熊本藩の第12代目(最期)の藩主

天保10年(1839年)第10代目熊本藩主細川斉護の3男として誕生しますw

第11代目藩主細川韶邦が兄で義父になり幼名は「澄之助」なんですよ!

官位は従四位下・侍従・右京大夫なんですよ!

奥サン(正室)は佐賀藩主鍋島斉正の娘宏姫サンなんですよ!

当時熊本藩の藩論が勤王党・時習館党・実学党の3派に分かれちゃってたんです!!

実学党の中心人物は横井小楠で彼は藩政改革に携わったけど失脚しちゃいます…

安政5年(1858年)福井藩主松平慶永の誘いで政治顧問として福井藩に移ってます!

文久2年(1862年)でも江戸留守居役らと酒宴中に刺客に襲われ一人逃亡したという罪で

文久3年(1863年)横井小楠は熊本藩士の籍を剥奪されちゃってるんです…

文久3年(1863年)の8・18クーデターの後に幕府に対して父斉護が将軍上洛と

公武一和政策を強く上申して藩主だった兄韶邦にかわり朝廷と関わりをもったんですw

この時に福井藩主松平慶永や会津藩主松平容保らと共に公武合体に尽力しました!

元治元年(1864年)勤王党の中心人物宮部鼎蔵が池田屋事件により死去しちゃってます…

これにより時習館党が主流となったけど藩論は不統一のままだったんです…

慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府側に立つけど積極的な動きはできなかったんです…

明治元年(1868年)新政府の議定⇒刑法事務総督になるんです!

明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還で兄韶邦は熊本藩知事となります!!

明治2年(1869年)に護久は参与となるんですよ!

明治3年(1870年)5月8日兄韶邦が佐幕派で新政府との関係が悪かったんで隠居しますw

そんで兄韶邦の後を受け熊本藩知事となりますw

弟長岡護美を重用し実学党を藩政の中心に据えて藩論は一応の統一をみるんですよ!

藩の諸式・諸法律の改変・藩士のリストラや俸禄の削減・領民に対しての免税や封建制度の

撤廃など当時としてはかなーり進歩的な藩政改革を行なったんですよ!

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官されて9月に東京へ引越しますw

熊本藩は廃藩置県で熊本県になったんですよ!!

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により45歳で侯爵に叙されます!

明治26年(1893年)9月1日に東京にて享年55歳で死去します…

その際に公爵位を賜るんです!

墓所は東京都品川区北品川の東海寺妙解院です…

なお直系子孫(曾孫)に第79代目内閣総理大臣細川護煕サンがいます!
ちなみに熊本城(画像)は猛将加藤清正によって築かれた天下の名城だけど明治10年(1877年)の西南の役では西郷隆盛率いる薩軍を相手に50日余も籠城して薩軍は熊本城を落とす事が出来なくて城の北方に展開し田原坂で決定的な敗戦を喫しちゃうんですよ!!敗走する自軍に向かって「おはんらは加藤清正と戦争して負けたようなもんじゃ!」と西郷が言ったそーです…西郷軍が熊本城に総攻撃を掛ける直前の原因不明の出火で天守閣など建物の多くを焼失しちゃいます!1960年(昭和35年)築城350年を期に天守閣が再建されてます!2007年(平成19年)築城400年に際し本丸御殿を始め西出丸の塀・戌亥櫓・元太鼓櫓・奉行丸の塀・未申櫓・南大手門等の建造物を復元の予定なんですよ!

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