織田信敏は幕末の出羽国天童藩の第3代目(最後)の藩主1853年11月9日(嘉永6年10月19日)第2代目藩主織田信学の嫡子として誕生w正室は松前藩主松前崇廣の娘で従五位下・兵部大輔!のちに従三位・子爵w明治元年(1868年)1月7日鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府側は徳川慶喜征討令を発し 同時に諸藩に対して率兵上京を命じたんですよ! この時父信学は病気だったんで嫡男である信敏(15歳)が上京したんです!! 明治元年(1868年)3月19日父信学は隠居し信敏が第3代目藩主となるんですw4日後の3月23日仙台に入った新政府軍奥羽鎮撫総督九条道孝は ―――「織田信長公以来の名家の故」をもって天童藩に奥羽鎮撫総督軍先導役を命じるんです…信敏は大坂から[九条総督に随行して来た天童藩中老吉田大八に自分の代理役を命じるんです!!吉田大八は和平工作を活発に行うけど奥羽鎮撫総督軍の挑発と庄内藩の反発を解くのが出来ず ついに明治元年(1868年)閏4月4日庄内藩が天童藩領に攻め込み城下は尽く焼かれちゃいます…そのため信敏とその家族らは奥羽山脈を越えて命辛々仙台藩領へ逃げ込むんです!!その途中「山奥の炭焼き小屋で一夜を明かした」と天童市史には記されてるんです…その4日後に吉田大八の主導で長瀞藩(現東根市)を襲撃する等の反抗を見せるけど閏4月20日奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が仙台藩士に暗殺されちゃうとそれ迄とは違い 奥羽(東北地方)の形勢は一気に佐幕に傾むいちゃうんですよ…参加は全部で31藩に及びます!!これを受け明治元年(1868年)5月3日白石城で『奥羽越列藩同盟』が成立!僅か2万石の小藩天童藩もこれに従わざるを得なくなり窮地に陥った信敏以下を救うために 吉田大八は責任を一身に引き受けて6月17日に切腹しちゃいます… でも奥羽越列藩同盟は降伏や脱盟が相次ぎ9月22日の会津藩降服で約4ヶ月で瓦解…… 信敏は明治元年(1868年)12月7日付で新政府から2千石の減知と隠居を命ぜられて 10日後の12月17日家督を13歳年下の弟寿重丸(2歳)に譲ります… でも明治2年(1869年)7月18日弟寿重丸が幼少なんで信敏の当主再承が認められます!! 明治3年(1870年)天童市舞鶴山に社殿を設け織田信長を奉った「建勳神社」を勧請しますw 明治17年(1884年)7月8日華族令施行により子爵に叙爵されますw
明治34年(1901年)に享年48歳にて亡くなってます…ちなみに明治まで残った織田家は……織田信長公の2男信雄の系統では天童藩と柏原藩の2藩と幕末期に海軍奉行並などに登用された高家旗本織田信愛(石高2千7百石)だけなんですよ!!あと織田信長公の弟織田長益(有楽斎)の系統では芝村藩と柳本藩の2藩のみです!あと…織田信長の7男織田信高の子孫(石高2千石)と10男織田信貞の子孫(石高7百石)がともに高家旗本として残りました!!計7家が明治まで残ったんですよwちなみに画像は織田信長公の若き日を彷彿させるような気がするのはまるこだけでしょうか? |
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2006年01月29日
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