林忠崇は幕末の上総国請西藩の第4代目(最後)の藩主嘉永元年(1848年)7月28日請西藩主林播磨守忠旭の5男に誕生し幼名は昌之助ですw嘉永5年(1852年)に長兄忠貞が享年23歳で死去します…嘉永6年(1853年)のペリー来航時に父忠旭は海岸警備等を務めます!!嘉永7年(1854年)に父忠旭が隠居した時兄忠貞は既に早世してます… そんで自らも幼少だったんで家督は叔父忠交が継ぎますw 慶応3年(1867年)6月24日叔父忠交が享年23歳で死去します…そんでその長男(従兄弟)忠弘が幼なかったんで20歳で家督を継ぎます!慶応3年(1867年)10月20日に父忠旭が享年62歳で死去します…文武両道の若者で幕閣の覚えも良くて将来閣老になる器と評されて期待の星だったんです!慶応3年(1867年)大政奉還を知らされ戦さを予感して有事に備えてます! そんで藩軍を再編成し洋式軍の調練を行うんです!! 慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いを切欠に戊辰戦争が勃発します!! そんで将軍徳川慶喜自身は戦艦に乗って江戸へ帰り謹慎を始めちゃうんです… 譜代大名の一人として幕府に恩義があるけど「恭順派」と「抗戦派」に藩内の意見が分かれてたんで 暫く朝廷にも従わず旧幕軍に参加するのも躊躇してたんです… 慶応4年(1868年)閏4月に撤兵隊が援軍を求めてやって来ます!! 次いで伊庭八郎・人見勝太郎率いる遊撃隊など旧幕府軍もやって来ます!! これに即座に応じ藩主自ら脱藩して諸隊・諸脱藩連合軍を結成しちゃうんです! 会津戦争勃発を知って会津へ向うけど既に会津藩は降伏後で 各地で敗走が続いたんで奥羽越列藩同盟主である仙台藩を頼ります! だけどその間もなく仙台藩も新政府軍に恭順しちゃうんです… 一方新政府は藩主自らの脱藩を新政府への反逆と見なします!! 榎本武揚艦隊の蝦夷地渡航には賛成せず人見達と別れて仙台にて降伏してます! そんで江戸唐津藩邸に幽閉されるんです! 明治2年(1869年)林家は従兄弟忠弘が相続して300石の東京府士族として復活!! でも財政難から林家の知行は35石にカットされました… 明治9年(1876年)には家禄支給もストップされます… 明治5年(1872年)1月に忠崇は新政府より赦免されます!! 明治7年(1874年)〜明治10年(1877年)の間は開拓農民・東京府や大阪府の官吏・函館の商家の番頭とかいろんな職を転々としてたんです…
でも請西藩改易の事情から本来旧藩主であれば無条件で与えられる華族の身分が与えられず 忠崇本人も一介の旧士族として職を転々として困窮した生活を送ってたんですよ… 明治26年(1893年)旧家臣達の嘆願が認められ新政府は義弟忠弘を華族に叙し 戸籍上養兄である忠崇も忠弘の家族として無爵華族となりますw 明治27年(1894年)には従五位下に叙されたんです… ちなみに旧大名家は最低でも子爵だけど林家は一番低い男爵だったんです… その後は宮内省や日光東照宮に勤めたんです… 昭和12年(1937年)に旧広島藩主浅野長勲が死去した後は実在する最後の大名となります!
晩年は『一夢』と名乗り娘ミツと同居しながら悠々自適の生活を送り時に「最後の大名」として マスコミの取材を受ける割合幸福なものだったと言われてるんですw ちなみに版籍奉還後に近江大溝藩知事だった分部光謙を最後の大名と考える説も有! 死の直前近親者から辞世を求められた際「明治元年にやった!今は無い!」と答えたそーですw
林家は甲斐源氏小笠原氏の傍系で松平親氏の頃より松平氏(後の徳川氏)に仕えたとされる譜代家臣なんですよ!江戸時代後期迄は代々直参の大身旗本だったけど文政8年(1825年)林忠英(忠崇の祖父)の代に貝淵藩1万石の大名に列せられその子忠旭の代に陣屋を移し請西藩となるんです! |
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2006年01月31日
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