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父沿岸警備隊1等航海士トーマス・ベリー・グラバーと母メアリーの5番目の子として誕生w 実は8人兄弟なんですよ!! ギムナジウム(今の中学校!?)を卒業しますw 1859年(安政5年)中国上海に渡りジャーディン・マセソン商会に入社します! その後に開港後まもない長崎に転勤するんですよ! 当時の日本は「黒船来航」以来政情不安が続く混乱の幕末期だったんです! 1861年(万延元年)にジャーディン・マセソン商会長崎支店を退職しちゃうんです… そんでジャーディン・マセソン商会の長崎代理店として【グラバー商会】を設立し独立します!!以降24歳で一経営者として貿易業を営む事になるんですよ!薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則・長沢鼎らの海外留学の手引きもしてるんですよ! 1865年(慶応元年)大浦海岸で日本初の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせてますw 長州征伐・海岸線防備や討幕派を含め諸大名は軍備拡張等で商売は大成功します!! 1868年(慶応4年)には戊辰戦争が勃発し新政府を支援します! 1868年(明治元年)には肥前藩と契約して高島炭鉱の開発に着手しますw また長崎の小菅に船工場(ソロバン・ドック:史跡)を作ってますw 維新後(1869年(明治2年)以降)武器が全く売れなくなります… そんで諸藩からの資金回収が滞った事等で原因で経営難になっちゃいます… この頃に旧士族の娘談川ツルと結婚し長女ハナと長男倉場富三郎の2児を儲けてますw 奥サンのツルサンはプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の蝶々さんのモデルとされる説があるんですよ!! 1870年(明治3年)ついに資金繰りに困窮してグラバー商会は破産しちゃいます……でも高島炭鉱(後に官営)の実質的経営者としてその後も日本に留まります!!1881年(明治14年)官営事業払下後に三菱総帥岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも 所長として引き続き経営に当たってたんですよ! 晩年は東京に引っ越してツルと悠々自適な生活を過ごしてますw 1899年(明治32年)3月23日に妻ツルが東京にて享年48歳で死去します…1908年(明治41年)には外国人としては初めて「勲二等旭日重光章」を授与されてますwここには妻ツルとその息子倉場富三郎夫妻も眠ってるんですよ… 旧邸宅跡が現在グラバー園として公開され長崎の観光名所になってますw ちなみに…長男倉場富三郎は学習院大学を卒業後アメリカのペンシルバニア大学へ留学し生物学を学びその後は長崎汽船漁業会社を興して日本に初めてトロール漁業を導入したりして第二次世界大戦前まで長崎の実業界で活躍したんです!そんで長崎魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜『日本西部及び南部魚類図譜』いわゆる『グラバー図譜』を編纂したりもしてるんですよ!!でも…第二次世界大戦開始直後に英国人の父と日本人の母との混血児だったんでスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送る事になっちゃうんですよ…長崎への原爆投下の惨劇を見つつそれに耐えかねて終戦直後の1945年(昭和20年)8月26日にピストル自殺しちゃってるんですよ…享年74歳です… |
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2007年08月01日
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幼名は「辰十郎」で奥サン(正室)は宇土藩主細川行芬の娘之寿サンですw 嘉永5年(1852年)9月6日父興建の隠居により20歳で家督を継ぎます! 官位は従五位下・玄蕃頭ですw 藩政では凶作が続いて百姓一揆とか頻繁に起こって藩財政も苦しかったんです… 慶応4年(1868年)戊辰戦争勃発後に家臣119名を率いて上京し京都警護を務めます! そんで新政府に恭順の意を示したんですよ!! 明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還で谷田部藩知事となりますw 明治3年(1870年)12月藩庁を茂木に移して「茂木藩」を立藩しますw 明治4年(1871年)2月8日に茂木藩知事に任じられてるんですよw 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県で免官され9月に東京へ引越しますw 茂木藩は廃藩となり谷田部は新治県となって後に茨城県に編入されたんですw 明治17年(1884年)の華族令施行により子爵に叙されます! その後には貴族院議員を務めてるんですよw 藩祖は細川藤孝(幽斎)の次男興元ですw兄忠興と不仲のため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に細川家を出奔(家出)しちゃったんです…慶長15年(1610年)7月27日幕府より下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられて諸侯に列したんですよ!!真偽は定かじゃないけど興元の立藩に当たり幕府では豊後国鶴崎10万石を検討してたみたいで…でも兄忠興の「興元は10万石の器に非ず」との反対で僅か1万石に留まりそのため本藩(肥後熊本藩)とは3代に渡って仲が悪かったみたいなんですよ…その後興元は大坂の陣における戦功で元和2年(1616年)6月26日に常陸国筑波郡・河内郡で6200石を加増され陣屋も谷田部に移しましたwそんな理由で谷田部藩は肥後熊本藩の支藩ではなくてちゃんとした独立藩だったんです!でも…周りを譜代藩に囲まれた外様小藩だったんで苦労も多くて土地も痩せて凶作が多かったんですよ…そのため肥後熊本藩から度々借金等の援助を受けてたりしてました…肥後熊本藩では谷田部藩への貸金は返ってこないものと初めから諦めてんです…
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