|
受領名が「信濃守」だったんで「色部長門」の名で知られてますw 幕末の動乱期に奥羽越列藩同盟に参加した米沢藩より旧幕府の直轄領だった越後府新潟町 (現在の新潟県新潟市)警備の為に総督に命じられます! そんで新政府軍と奮戦し数々の功績を残したんですよ!! 新政府軍からもその奮戦振りは恐れられてたんですよ! 慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦い後に勃発した戊辰戦争をきっかけに新政府軍と 旧幕府軍の間で全国各地に軍事衝突が発生します… 引き連れ現在の新潟県新潟市にある西堀の光林寺に本陣を置き奥羽越列藩同盟にとり物資の 補給に重要な新潟港を警備をします! でも…新政府軍による海上等からの猛攻を受け新潟の町は焼け野原になりこれ以上の衝突に よって新潟の町の被害拡大を懸念するんですよ… そんでついに決断し米沢藩兵の撤退を決定するんです!! 米沢藩兵が撤退する中で敗戦の責任も取るべく自らも生き永らえる選択をせず僅か数名の兵を 引き連れ新政府軍の本拠地だった関屋へ斬り込むんですよ!! だけど…奮闘するけど敵の攻撃に被弾し深手を追い命が助からないと悟ります… そんで敵に首を取られまいと… 慶応4年(1868年)7月29日現在の新潟市中央区関屋下川原新田にある茄子畑(新潟県立新潟高等学校周辺)で割腹し部下に介錯させました…享年44歳だったんです…戦後に米沢藩は新政府軍によって藩主上杉斉憲は子茂憲に家督を譲り強制的に隠居させられ4万石も没収される処罰を受けるんです… そんで新政府軍から一連の戦犯について調査を命じられ苦慮した結果米沢藩は既に新潟の地で 明治2年(1869年)死亡してる久長を戦犯として届出しちゃうんですよ!! それが新政府に認められ奥羽諸藩では戦犯者が次々と処刑される中で米沢藩だけは久長のお陰で あるのは「色部長門のお陰である」と久長が絶命した地に関屋戊辰戦蹟保存会会長斉藤巳三郎サンを 発起人として諸氏の連名によって久長の功績と慰霊をこめて【色部長門君追念碑】が建立され 【戊辰公園】となったんです! 昭和38年(1963年)に【色部長門追念碑(画像)】が建立されましたw 色部家は元々桓武平氏秩父氏の一族なんですよ!本庄長門守泰長が下越後色部庄を鎌倉公方より賜り「色部氏」を称したのに始まるんです!平林城(現在の新潟県岩船郡神林村)に本拠を置き本庄家とともに越後秩父氏を形成してたんです!!戦国時代に入ってからは上杉家を補佐してました!江戸時代に入ると代々米沢藩家老を務めてたんです!
ちなみに…数代前の色部安長(通称:又四郎)は米沢藩上杉家江戸家老として元禄15年(1702年)12月14日に起った旧赤穂藩士による吉良邸討ち入り(元禄赤穂事件)を題材にした『忠臣蔵』の物語中で吉良上野介邸討ち入りの際に実父吉良上野介義央を助ける為に出兵しようとする主君上杉綱憲を押し留める役等で出て来る人物なんですよ!
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


