内藤文成は幕末の三河国挙母藩の第7代目(最後)の藩主安政2年(1855年)第6代目藩主内藤政文の子として誕生しますw安政5年(1858年)に父政文が享年28歳で死去します…それを受けてわずか4歳で家督を継ぐんですよ!官位は従五位・下丹波守なんですよw 安政8年(1859年)藩軍に英式銃陣法が取り入れられ習練が行われます!! 慶応3年(1867年)挙母地方でも『ええじゃないか運動』が起きます! 慶応4年(1868年)戊辰戦争では藩主不在のままに新政府軍に恭順します! 慶応4年(1868年)3月には初めて文成が帰藩します! 慶応4年(1868年)4月東海道軍人馬兵食賄方として駿府警衛の為藩軍を派遣!! 慶応4年(1868年)6月に再度警衛に当ったんですよw 明治元年(1868年)7月に文成が13歳で京都御所へ参内し改めて恭順しますw 明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還で挙母藩知事となります!! 明治4年(1871年)7月14日廃藩置県で免官されて東京へ引越しますw 挙母藩は挙母県になり後に愛知県に編入されたんですよw 幕末時の士族は100戸で卒族は200戸を数えたんです! 明治7年(1874年)に19歳で突然隠居しちゃいます… 寛延2年(1749年)上野国安中藩より内藤政苗が挙母へ領地替えとなったのが挙母内藤家の始まりです!以後維新迄の約120年間に渡り挙母の地を支配します!内藤家は前藩主本多家から受け継いだ挙母1万石の他に遠江国と美作国に1万石あり合計2万石の大名だったんです!!入封後は幕府より4千両与えられ陣屋から挙母城築城の計画が進められたんです!でも…築城の計画は一揆や洪水・政争等で遅々と進まなかったんです…結局第2代目藩主学文は安永8年(1779年)に挙母城の移転を決意し旧挙母城より西方の樹木台に新しい城の築城を進めて天明5年(1785年)に築城工事を終え江戸から戻った学文は新城の見分をしてます!それが現在「七州城」と呼ばれる城なんですw名前の由来は「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「遠江国」「伊勢国」「近江国」の7州が見える高台に建ってるってとこからついたんです!また学文により藩校「崇化館」も創立されてますw以後挙母の城下町は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の2つの地域で発展したんです!ちなみに幕末期の第4代目藩主政成と第5代目藩主政優はともに養子で彦根藩主井伊直中の5男・8男にあたるんです!あの大老井伊直弼は14男で彼らの弟にあたるんです!!
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2007年08月18日
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