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幼名は「元次郎」なんですよ! 武雄領は表高2万1600石(実高86百石)で佐賀藩の自治領的な存在なんです!!でも…実高が1万石を割ってたんで実際は「藩」ではなかったんです!天保10年(1839年)に7歳で武雄領主の家督を相続しますw嘉永6年(1853年)及び嘉永7年(1854年)にロシアのプチャーチンが長崎に 来航した際は長崎警護のため長崎に軍を率いて行ってます! 安政2年(1855年)に日英和親条約を結んだばかりのイギリスのスターリングが 長崎に再び来航した時も長崎警護のため長崎に行ってるんですよ! 安政6年(1859年)に佐賀藩の請役(執政職)に就任します!! 文久2年(1863年)11月27日に父茂義が享年63歳で死去します…元治元年(1864年)蛤御門の変に際し佐賀藩兵百人を率いて上洛します!!元治2年(1865年)には請役を33歳で辞任しちゃいます… 慶応2年(1866年)再び佐賀藩の請役に就任します! 慶応2年(1866年)11月以降に約6万両という大金を歳出してスペンサー銃6百挺や アームストロング砲10門といった大量の最新式兵器を外国から購入し武雄領兵の軍備を 日本でも当時最強のものとしていったです!! 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では4大隊839人を率いて出征します! スペンサー銃も全員に配給する重装備で窮地に陥ってた秋田藩を救援します! そんで奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利する等多くの勲功を挙げるんです! 明治元年(1868年)11月12日酒田⇒山形⇒福島を経て東京に到着w 明治元年(1868年)11月25日武雄に凱旋しますw その勲功を称え新政府より金5千両を下賜されてますw 維新後も佐賀藩請役の地位にあったけど藩政大改革を推進すべきとの藩内文政派の意見に 反対して結局は請役を辞しちゃいます… 明治2年(1869年)佐賀から武雄に退去してるんですよ… 明治3年(1870年)に新政府より上京を命ぜられます! そんで兵部省で陸軍兵部大輔(陸軍少将)に就くのを勧められたんです!!でも…「西郷隆盛が陸軍大将で自分が陸軍少将では嫌だ!!」という理由で辞退して武雄に戻るんですよ!
明治4年(1871年)にも佐賀藩主鍋島直大から任官を強く勧められるけど 固辞して武雄に戻り以後武雄で生涯を送るんです… 明治7年(1874年)2月に江藤新平や島義勇(茂昌の従兄弟)を中心に 佐賀県士族が【佐賀の乱】を起こしちゃうんですよ! 実際のとこ乱発生前には茂昌に対しても協力要請がなされてたんですよ… でも武雄出身の外務少輔山口尚芳の助言で慎重な姿勢を崩さず加担を断ります! 反乱軍から戦闘に加わらなければ攻撃すると脅され渋々64名を反乱軍に派遣… 一方で長崎に家臣を派遣して旧大村藩・長崎県参事・司法省検事等に対して乱に 積極的に加担した訳じゃない事を説明しこれ以上加担しないと約束します! 反乱の鎮圧後に謝罪文を提出し佐賀裁判所の尋問を受けてます… その後もさまざまな取調べを受けたけど… 『逆徒に脅迫されその暴動を受ける事を恐れ一同協議の上一時出兵したけど新政府軍に抵抗する事は一切なくついに賊軍を脱出し全くこれに与した事実が無かった』事で非常の特典として罪を免ぜられたんです!
その後は武雄で悠々自適に過ごしてたんですよw 明治10年(1877年)に西南戦争が勃発してますw 明治27年(1894年)に日清戦争が勃発してます! 明治30年(1897年)初めて洋装をして明治天皇に30年ぶりに拝謁しますw その際に明治維新時の勲功をもって男爵の地位を授けられたんです! 明治31年(1898年)に「男爵鍋島茂昌火薬密蔵事件」が起こってます… この事件はは佐賀の乱の後に新政府から疑われないよう隠して埋めた武器とか |
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