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お母サンは中山主馬信泰の2女で幼名は「智丸」ですw 初名は「岩松俊純」で「満次郎」「兵部」「主税」とも言われてたんですよw 字は「三俊」で号は「養山」「積翠」「信天翁」なんですw 最終官位は従四位なんですよ! 天保14年(1843年)11月15日に14歳で元服します!! 安政元年(1854年) ペリーが江戸湾に再来し日米和親条約が締結されます! 安政元年(1854年)12月27日に25歳で家督相続するんですよw 奥サン(正室)は関播磨守盛泰の娘千代子サンですw 慶応3年(1867年)の大政奉還後に朝廷に恭順しますw 慶応4年(1868年)の戊辰戦争で「新田勤王党」を組織し勤王倒幕活動します!! そんで新政府軍に味方して上野国で挙兵しその功を新政府に認められますw 慶応4年(1868年)5月8日に朝臣となりますw 慶応4年(1868年)10月9日には中大夫を拝命しますw そんで新政府に対して自らが【新田義貞の嫡流】である事を強く主張します! 横瀬貞固・貞篤と反目しちゃいます… でも明治維新以後は共に新田氏の顕彰に努めた事が群馬県社新田神社や 別格官幣社藤島神社の創建に繋がり記録に残ってるんですよ! 江戸時代は幕府の手前本姓を「岩松」としながらも「新田姓」への執着があって しばしば「新田満次郎」を名乗ったり書状に署名したんです! 新田一族の【世良田・得川氏の子孫(新田氏の末裔)】を自称してた徳川家にとり 新田義貞の孫が養子に入り新田氏直系を主張する岩松家は目障りなだけでした… 明治元年(1868年)新政府に届け正式に「新田姓」を称しますw 明治4年(1871年)他の旧高家衆・旧交代寄合と共に士族となります! 明治16年(1883年)8月13日華族に列しますw 明治16年(1883年)9月14日に従五位に昇進しますw 明治17年(1884年)7月7日華族令施行で男爵となります!! 男爵になれたのは長女武子が維新の功労者井上馨の奥サンとなったからだという 下世話な噂も当時は囁かれてたんですよ… だけど…新田氏正嫡論は『岩松家』と『由良家』はともに甲乙つけがたくて 岩松系新田家と由良系新田家とは共に家系が判然としないんで難航したんです… 一般士族が旧幕府時代の官位を明治維新後に返上させられた後も 当初のうち新田貞靖・貞時父子が其々「従四位」「従五位」を保持してたのに比べ 俊純自身は無位無官で石高も交代寄合としては最低レベルの120石でした… 由良系新田家当主がその後も新田貞善・貞觀〜と4代に渡り早死したんで 諡号は「慈光院殿無染因浄俊純大居士」です… 後を次男忠純が継いだんですよ! 岩松系新田家は新田本宗家が衰退した後に新田氏惣領職を獲得し本家とされたんです!江戸時代には新田一族を自称する徳川家により岩松氏が義貞の子孫として認定され表面上は岩松氏を新田宗家に立て交代寄合の格式を与えながら「新田姓」を名乗る事は許さず120石の交代寄合となったんです! |
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2007年09月12日
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