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比叡山延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍を匿ったり反信長の行動を起こします! この頃の延暦寺は僧兵4千人もの強大な武力と権力をもってたんです… そんなお坊サンによる仏教政治腐敗が天下統一の障害になるとみた織田信長は 延暦寺に武装解除するよう再三通達をしたんですよ… 一応いきなり武力に訴えるんじゃなくて地道に交渉での解決を図ってたんですねw でも断固拒否されたんでついに延暦寺を取り囲み焼き討ちしたんです… 山を取り囲むように麓付近から火をつけたんです… これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上しちゃって多くの僧兵や僧侶が殺害されました… この事件については京都から比叡山の炎上の光景がよく見えた事もあって 山科言継などの公家サンや商人の日記やイエズス会の報告等にはっきりと記されてます… でも…公卿山科言継の日記ではこの前年の元亀元年(1570年)10月15日にも 「浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火した」と記載されてて延暦寺は織田・浅井双方の 圧迫を受けて散々な状態だったみたいなんですよ… でも還俗し将軍就任後は立場が変わって比叡山と対立するんです! 永享7年(1435年)度重なる比叡山制圧の機会に諸大名から悉く和議を薦められて 制圧に失敗してた義教は謀略で延暦寺の有力僧を誘い出して斬首しちゃうんです… これに反発した延暦寺の僧侶達は根本中堂に立て篭り義教を激しく非難します!! 永享7年(1435年)2月でも…義教の姿勢は変わらず絶望した僧侶達は根本中堂に 火を放って集団焼身自殺しちゃうんですよ… 当時の有力者の日記には『山門惣持院炎上(満済准后日記)』等と記載されてて 根本中堂の他にも幾つかの寺院が全焼や半焼したみたいなんです… また『本尊薬師三体焼了(大乗院日記目録)』の記述の通りこの時に円珍以来の本尊も ほぼ全焼失してるんですよ… 永享7年(1435年)8月に義教は焼失した根本中堂の再建を命じ諸国に段銭を課して 数年のうちに竣工してます…これは義教自身が焼き討ちした訳じゃないですからね! 宝徳2年(1450年)5月16日焼け残った本尊の一部から本尊を復元し根本中堂に配置されますw
義教は反対勢力をお押さえ絶対的な権力の元で事実上延暦寺制圧に成功したんです! でも後に義教が四職赤松満祐・教康父子に暗殺されちゃってから比叡山延暦寺は再武装し 数千人の僧兵軍を持つ強大化な独立国状態に戻っちゃうんですよ… 明応8年(1499年)に管領細川政元が対立する前将軍足利義稙の入京と呼応した延暦寺を 攻撃したんで再び根本中堂は灰燼に帰しちゃうんですよ… そんなこんなで比叡山延暦寺は何度も時の権力者により弾圧されたんですよ… 昭和62年(1987年)8月3〜4日両日に比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼び掛けで世界の宗教指導者が比叡山に集い“比叡山宗教者サミット”が開催されてますwその後も毎年8月これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれてるんですよwさらに平成6年(1994年)に比叡山延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界文化遺産に登録されたんです! |
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2007年09月30日
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