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幼名は父正則と同じ「市松」で初名は「正勝」と言いますw 慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が享年63歳で大坂城で死去します…慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父正則は徳川方に味方して大活躍します!!慶長6年(1601年)に実弟正利が誕生してますw そんで戦後に安芸国広島藩51万石に加増移封されたんです! 最初「正勝」と名乗ってたけど2代将軍徳川秀忠の諱字を賜って「忠勝」と改名しますw 慶長13年(1608年)兄正之が享年23歳で亡くなった後に嫡子となったんです!慶長16年(1611年)3月に父正則は徳川家康と豊臣秀頼が京都二条城での会見を行った時に強く反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長と共に説得して秀頼上洛を実現させたんです!! でも…父正則は病と称して会見に同席しなかったんです… そんで枚方から京都の街道筋を1万もの軍勢で固めて何かあった際に備えてたんです! この会見後に清正・堀尾吉晴・浅野長政・幸長父子・池田輝政ら豊臣恩顧大名が相次いで死去…慶長17年(1612年)に父正則は幕府に隠居を願い出たけど許されなかったんです…慶長19年(1614年)大阪冬の陣で父正則は豊臣秀頼に味方になるよう求められるも拒否! だけど…こっそりと大阪蔵屋敷にある蔵米8万石を豊臣方に無断で提供しちゃいます! そんで叔父の宇陀松山藩主福島高晴がその嫌疑で改易されちゃいます… これを知った幕府に父正則は従軍も許されず江戸留守居役を命じられたんです!! 大阪夏の陣でも父正則は従軍を許されず破壊された道や堤の修復をしてたんです! 元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で死去します…元和5年(1619年)台風で壊れた広島城を父正則は無断で修理したんで幕府から改易を命じられます…
広島50万石から高井野4万5千石への移封だったんです… 父正則は2ヶ月も前から届け出してたけど幕府からは正式な許可が出てなかったんです… ちなみに修繕したのは雨漏りする部分を直しただけだったんですよ! この時2代将軍徳川秀忠の上洛に忠勝は随行してたけど父正則と共に川中島に移ったんです… これを機に父正則は隠居したんで忠勝が家督を継いだんですよ! 元和6年(1620年)9月14日に父正則に先立ち享年22歳で死去します…この時に父正則は悲しみのあまり越後国魚沼郡2万5千石を幕府に返上します…墓所は須坂市小河原の大乗寺です…墓石は「正勝」となってます… 他に京都市妙心寺塔頭・海福院(福島正則創建)にも墓があるんです… 戒名は「性光院殿前忠勝太子華香清徹大禅定門神儀」なんですよ… 寛永元年(1624年)7月13日に父正則も享年63歳で死去します…そんで家臣団が正則の遺体を幕府の検使堀田正利が到着する前に火葬しちゃうんですよ!また法度違反だって事で残りの2万石も没収されるんですよ… だけど父正則の功績を考えて幕府は正則の末子正利に3千石の所領を与え旗本とします! 寛永14年(1637年)12月8日に弟正利は嗣子無くして享年27歳で死去します…これで一旦は福島家は断絶するんです…だけど…忠勝の子正長の子正勝(…結局は孫ですね!)が京都に住んでたんです!! |
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2007年11月21日
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