小早川秀秋は備前国岡山藩の最初で最後の藩主言わずと知れた関ヶ原の戦いで劇的な裏切りをした「金吾中納言」その人ですw天正10年(1582年)羽柴秀吉の奥サン高台院の兄木下家定の5男として誕生しますwお母サンは杉原家次の娘サンで幼名を「辰之助」と言い初名は「木下秀俊」です! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正13年(1585年)叔父羽柴秀吉の養子に入り「羽柴秀俊」と名乗ります!天正13年(1585年)7月11日に義父秀吉が「豊臣姓」を賜り関白に就任します! 天正13年(1585年)12月10日に義兄豊臣秀勝が享年18歳で死去します…そんで秀勝の旧領地丹波亀山10万石を与えられます!ちなみに…秀吉には実子及び養子を含め「秀勝」が3人いるんですよ!まず後の関白豊臣秀次の実弟で文禄元年(1592年)9月9日に享年23歳で死去した秀勝ですwそれと織田信長の4男…それと天正4年(1576年)10月14日に享年6歳で死去した実子の秀勝(石松丸)の3人なんです…そんで今回死去したのは織田信長の4男の養子秀勝なんです!
天正17年(1589年)5月27日義父秀吉に実子鶴松が誕生しますw 天正19年(1591年)1月22日叔父大和大納言豊臣秀長が享年51歳で死去します…天正19年(1591年)8月5日に豊臣鶴松が享年3歳で死去します…天正20年(1592年)に従三位・権中納言に叙任しますw文禄2年(1593年)8月3日義父秀吉に実子秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)に小早川隆景の養子となり「秀秋」と改名しますw 奥サン(正室)は安芸太守毛利輝元の養女です! 官職は中納言だったけど元服時の官位と合わせ「金吾中納言」と呼ばれましたw 文禄4年(1595年)豊臣秀次事件に連座して丹波亀山を没収されます… 同じ年に養父隆景が隠居し筑前30万7千石を継承し筑前名島城主となります! 慶長の役では日本軍の元帥を務めて大活躍しますw 蔚山城の戦いでは明の大軍に包囲された蔚山倭城の加藤清正を救援に向います!! この時が初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りしたり活躍します! でも…元帥で釜山城を守備してなきゃならなかったのに蔚山倭城の救援に 向かった事が軽率な行動と批判されちゃって軍監石田三成が秀吉へ報告し 結局は領地を没収され越前北庄15万石へ国替させられるんです… この時徳川家康の取り成しがあって国替だけで事が済んだんです… これを切欠に家康側に接近して行っちゃうんですよ… 慶長2年(1597年)6月12日養父隆景が享年64歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が享年63歳で大坂城で死去します…慶長5年(1600年)10月21日の関ヶ原の戦いで西軍で参戦します…石田三成に戦後秀頼成人までの期間の関白就任を条件に出されてたんですよ! 伏見城攻略戦に参加して大活躍してるんです!! でも…この戦功を三成が認めなかったんで激怒し更に溝が深まったんです… だけど実際はわからないけど当初から東軍と内通してたとも言われるんですよ! 決戦当日に松尾山に1万5千の大軍を率いて布陣します! この時松尾山には西軍の他の大名も陣を敷いてたけど軍勢の数にものを言わせ 他の西軍大名を追い出して松尾山に陣を敷いてるんです! だから…実はこの時点で既に東軍に加わったとも考えられるんです… 家康は使者を送り何度も攻撃命令を下すけど動かない秀秋に痺れを切らします… 慶長5年(1600年)10月21日正午過ぎ秀秋の陣に向け威嚇発砲するんです!それに驚いちゃってついに東軍への加担を決意し大谷隊に向け全軍で攻撃を開始します!突然だったけど小早川勢裏切りを予測してた大谷隊はこれを迎撃します!!一時は小早川勢は押し戻しちゃうんですよ! そんで大谷隊は壊滅し大谷吉継は自害したんです… ちなみに…家康が実際に威嚇発砲が行なわれたかは位置関係から怪しいんです… この参戦で夕刻迄に西軍は壊滅し石田三成は伊吹山中へ逃亡しますw その後軍勢を石田三成の父正継の守る佐和山城に進め落城させます! 戦後は宇喜多領だった岡山藩55万石に加増されたんです! そんで岡山城を改築し以前の2倍の外堀をわずか20日間で完成させます! 他にも検地の実施・寺社の復興・農地の整備とか急速に近代化を進めます! でも…関ヶ原の2年後…今から405年前の今日…慶長7年(1602年)12月1日に岡山にて享年21歳で死去します…法名は「瑞雲院秀巌日詮」で墓所は岡山県岡山市の瑞雲寺です…早過ぎる死因には毒殺説や大谷吉継の祟り説とか様々な説があるんです… ちなみに…同じ日の同じ場所で実の兄弟2人も死亡したと言う文献もあります… 徳川家康による豊臣家の血筋を根絶やしにする謀殺説もあるんです… 子供(跡継ぎ)がいなかったんで小早川家は断絶になっちゃいます… これって『徳川政権最初の無嗣改易』なんですよ!! その後小早川家旧臣は関ヶ原での裏切りを責められ仕官先が無かったんです… 【優柔不断で暗愚な武将】のイメージが強いけどこれは関ヶ原での裏切りによる後世の印象が大きいと思うんですよ!でも戦国時代は裏切りが日常的にあっただろうし裏切りが必ず成功する事もないし松尾山を占拠して有利なポジションに立ったり行動する事で勝利を決定づけ関ヶ原で『勝ち組』に入れたのは善悪に関係なく評価出来ると思います!!実際には初陣である慶長の役の蔚山城の戦いとかで大活躍したり政治的にも備前岡山での統治で大いに発揮されてます!他の兄弟を差し置いて秀吉の養子になってるし絶対に【暗愚】じゃないと思うんですよ!ちなみに…関ヶ原の裏切りも後世の記録による印象操作があると思うんですよ!!実際他にも脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱らも裏切ってるけど秀秋程の悪いイメージも無いんですよね…伏見城攻め後に家康に詫び状を出したり関ヶ原の合戦直前に福島正則と書簡の交換もしてるし最初から東軍に与してたって説もあるんですよ!どっちにしても実際の能力より一般の評価がかなーり低い武将の一人なのは間違いないです!でも…長生きしてれば評判も上がってたんでしょうね…残念です…
まるこは平成18年(2006年)1月31日と2月7日に日テレ系列で放映されたTV版「戦国自衛隊〜関ヶ原の戦い」で俳優藤原竜也サンが演じた秀秋像を実際に近いと信じてます…
ちなみに…小早川家は断絶したけど明治になって再興するよう勅命が下り毛利本家毛利元徳侯爵の子四郎が小早川家に入り男爵を叙する事で再興されてるんですよ! 【本日は小早川秀秋公の命日なんで名誉回復の意味を込めて記事をアップしてみました!】 |
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2007年12月01日
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