石川康勝は信濃国奥仁科藩の最初で最後の藩主徳川家康の家老で後に出奔し豊臣秀吉に仕えた石川数正の次男ですw父数正は徳川家康が今川家人質時代からの古参重臣なんですw三河松平家重臣石川数正の次男として誕生しますwでも…生年は不明なんですよ…でも兄康長は天文23年(1554年)生まれなんで そんで父数正は今川氏真と交渉し人質だった松平家康の長男信康を取り戻しますw 永禄4年(1561年)家康が織田信長と石ヶ瀬で戦った際父数正は大活躍します!! 永禄5年(1562年)父数正は織田信長と交渉し清洲同盟成立に大きく貢献しますw 永禄6年(1563年)三河一向一揆が起こると祖父康正は家康を裏切るんです… でも父数正は「浄土宗」に改宗して家康に尽くし一揆鎮圧後に家老に任じられたんです! そんで酒井忠次と並んで重用されるようになってますw 永禄12年(1569年)に父数正は祖叔父家成に代り西三河の旗頭となりますw 元亀元年(1570年)父数正と兄康長が姉川の戦いに参加します! 元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで父数正は負傷します! 天正3年(1575年)の長篠の戦いにも父数正は出陣し数々の武功を挙げますw 天正7年(1579年)に徳川信康が切腹すると父数正は岡崎城代となりますw 天正10年(1582年)に甲斐国主武田家が滅亡します… 天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…その後羽柴秀吉が台頭すると父数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当しますw天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに父数正・兄康長と共に参加します!! この時に父数正は家康に秀吉との和睦を提言したと言われてます! その条件のひとつとして徳川家康の次男秀康が豊臣家に人質に取られます!! その際に兄康長と共に同行して大坂城で人質生活を送るんです… 天正13年(1585年)7月11日羽柴秀吉が関白宣下を受けます! 天正13年(1585年)11月13日父数正が徳川家康の元を出奔します!! そんでその後は親子で豊臣秀吉に仕えたんですよ! 出奔の理由は諸説があって正直今でも謎なんですよ… 天正18年(1590年)の小田原征伐後に父数正は信濃国松本10万石を拝領しますw 文禄元年(1592年)に父数正が享年61歳で死去します…その際に遺領の内安曇郡1万5千石を相続し奥仁科藩を立藩しますw官位は従五位下・肥後守なんですよw 慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が享年63歳で大坂城で死去します…慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄康長と共に東軍に味方し所領を安堵されますw慶長18年(1613年)4月25日に大久保長安が享年69歳で死去します…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起こります!!これにより姪婿大久保藤十郎(大久保長安の長男)が逮捕され後処刑されます…その後も粛清は続き大半は大久保長安と縁戚関係だと連座処分で粛清されたんです… 慶長18年(1613年)10月19日長安事件に連座して兄康長が改易させられます… 同じ日に兄康長の領地隠匿に連座したとして改易されちゃいます… 罪状は大久保長安に協力して領地隠匿の不正を行なった為とされてるけど… 実際は徳川家康の父数正に対する【復讐】だったという噂もあるんです… 慶長19年(1614年)に大坂の陣勃発し豊臣秀頼に招かれ大坂城入りします!! そんで真田幸村(信繁)の寄騎として活躍してたんですよ!! 慶長20年(1615年)真田丸攻防戦で奮戦するけど配下が火薬を誤爆させちゃいます!! これを徳川側の軍勢が内応の合図と勘違いしちゃうんですよ!! 結果的に敵を大坂城内に誘引する事になるんです… 慶長20年(1615年)6月3日に大坂城真田丸攻防戦で戦死します…下画像は西尾城主酒井正親の継室妙玄尼公の肖像画なんですよw 当り前だけど…決して康勝じゃありません!ちなみに…妙玄尼公は父石川数正の実姉なんですよ!【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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2008年09月18日
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