戸田勝成は越前国安居藩の最初で最後の藩主【織田信長】の馬廻衆で後に【丹羽長秀】に仕えた人物ですw【謀才俊雄の英士】と称された逸材だったんですw弘治3年(1557年)に誕生していますが…両親の事は知られてないんですよ…兄勝隆は古くから織田家家臣木下藤吉郎秀吉の家臣だったんです! 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄8年(1565年)5月19日に13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼払います!!永禄11年(1568年)9月30日に14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…この頃から兄勝隆は木下秀吉の親衛隊である黄母衣衆の一員となってますw天正元年(1573年)に木下秀吉が長浜城主となるんですwそんで… この頃丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつを貰い受け「木下姓」⇒「羽柴姓」に改名しますw 兄勝隆は近江国長浜で250貫文の領地を羽柴秀吉より拝領しますw この頃織田信長の馬廻衆として織田家に仕えますw 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中の陣中にて享年53歳で死去します…天正5年(1577年)10月10日に松永久秀が享年68歳で死去します…天正5年(1577年)羽柴秀吉が播磨姫路城主となります!!その際に兄勝隆は5千石を羽柴秀吉より拝領しています! 天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…天正10年(1582年)5月8日から羽柴秀吉の備中高松城の水攻めが開始されます!!天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…そんで織田家宿老丹羽長秀に仕えるんです!天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! 天正10年(1582年)6月27日清洲会議が行われます… 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いに参陣し活躍しますw 戦後に丹羽長秀は羽柴秀吉から越前・若狭・加賀2郡約123万石を拝領します!! この頃に同じく丹羽長秀の家臣村上頼勝の娘サンと結婚しますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いには丹羽長重に従い出陣しますw 天正13年(1585年)4月16日に丹羽長秀が享年51歳で死去します…天正13年(1585年)越中征伐が行われ丹羽長重が大減封されます…丹羽家内では内紛が起り…それを機会に兄勝隆にも誘われ羽柴秀吉の直臣になりますw 天正13年(1585年)6月羽柴秀吉が総兵10万で四国征伐を開始します!! 天正13年(1585年)8月長宗我部元親が羽柴軍に降伏します… そんで兄勝隆はその戦功により伊予国大州7万石を拝領しますw 戦後その功績により越前国安居1万石を拝領していますw 天正14年(1586年)九州征伐にも参陣し活躍します!! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に参陣して活躍しています! 戦後その功績により従五位下・武蔵守に昇位任官しますw 天正20年(1592年)文禄の役では肥前国名護屋城に在陣してるんです!! 文禄元年(1592年)の伏見城普請でも活躍し後に1万石を加増されたんですw 文武ともに優れてて官僚としての能力を兼ね備え多くの武将と親交を深めてましたw 文禄3年(1594年)10月23日に兄勝隆が朝鮮より帰国間もなく死去します…でも…兄勝隆には跡継ぎがいなかったんで大洲戸田家は断絶します…文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀頼が誕生します!! 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄4年(1595年)に次男忠勝が誕生しますw慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!慶長5年(1600年)敦賀城主大谷吉継の誘いに応じて西軍に味方します! 慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)8月4日に東軍前田利長に備えて北国口を守備します! 慶長5年(1600年)8月10日に石田三成ら西軍諸将が大垣城入りします! 慶長5年(1600年)8月末に大谷吉継・平塚為広と一緒に総勢6千で美濃へ進出します!! そんで西軍本陣である大垣城入りし軍議に参加しますが… 石田三成の「野戦論」と宇喜多秀家の「大垣籠城論」とでもめてたんです… 結局は石田三成の「野戦論」に決定するんですが… 何か諸将ののらりくらりの態度に腹が立って一言物申しちゃいます!! 『私は2万石と小身で末座に座ってるだけ有難い状況です…でも宇喜多中納言様や五奉行衆の前だけども遠慮なんかせずにぜひにも言わせて頂きます!!今回の合戦はとっても大事一戦となります!だから勝ち目が少しでもあれば一歩も引かず戦って討ち死にする位の気持ちで挑みます!これについて大身の方々に申し上げたい!本来…人間が命を惜しむ事に貴賤の区別なんてありません!みんな死にたくないと思ってる筈です!でももし…生き残る為に私達のような小身の者を見殺しにしたり…また自分ひとり死ぬのが恐くて勝手に戦場から逃れたりしちゃったら100歳まで生きたとしても…ずっと末代まで悪評を言われ続けますよ!もしこの場にそんな事考えてる方がいるのなら私の言葉を真摯に受け止めてすぐに考えを改めて頂きたい!!』この言葉に多くの西軍諸将がビビり己を恥じたんです!! そんでかなり無礼な言葉だったけど…大垣城内の士気はあがったんですよ!! 慶長5年(1600年)9月3日に大垣城を出陣し関ヶ原南西の山中村に着陣します!! その際に脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの諸将も大谷配下となります! 慶長5年(1600年)9月14日大谷吉継より密命が下ります! 「平塚為広と一緒に小早川秀秋の動向を探れ!もし小早川秀秋に西軍裏切りの気配が少しでもあれば暗殺しちゃって構わないからっ!」と言うものだったんです…
でも事前に暗殺計画を察知されちゃって実行する事は出来なかったんです… その日の夜に大谷隊の左翼として宇喜多隊との中間に総勢1500で布陣を完了します! 慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!そんで東軍の藤堂・京極両隊総勢5千を相手に一歩も引かず何度も押し返すんです!! 慶長5年(1600年)9月15日正午頃に小早川秀秋が西軍を裏切ります!! 小早川隊1万5千をも撃退し500mも押し戻し追撃体制に移ろうとしたその時… 脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら総勢4千が突如寝返り側面から攻撃して来ます!! これで前から東軍…側面から裏切諸隊…後ろから小早川隊の猛攻撃を受け総崩れします… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に平塚為広が享年57歳位で討ち死にします…慶長5年(1600年)9月15日午後1時過ぎに大谷吉継が享年42歳で討ち死にします…駄目押しで織田有楽斎隊も攻撃して来てついに自軍も壊滅します…慶長5年(1600年)9月15日午後2時前にが享年44歳で討ち死にします…この時に長男内記も一緒に討ち死にしてるんですよ…東軍諸将の中にその死を悼んで涙を流した者も多かったんです… 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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