平塚為広は美濃国垂井藩の最初で最後の藩主【大谷吉継】の与力であり盟友で一緒に【石田三成】の挙兵を諫言した人物ですwそんで相模国平塚の地頭【三浦為重】の7代目の子孫でもありますw天文13年(1544年)頃に平塚入道無心の子として誕生してますw出身地や生年等詳しくわからないんですが…幼名は「孫九郎」って言うんですよw 天文17年(1548年)美濃国主斎藤道三の娘帰蝶と尾張守護代織田信秀の嫡子信長が結婚♪ 天文19年(1550年)5月4日に12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…とっても怪力の持ち主で薙刀の達人でもあり教養もあったんですよw永禄8年(1565年)5月19日に13代将軍足利義輝が享年30歳で松永久秀に討たれます…永禄11年(1568年)9月30日に14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄11年(1568年)10月18日足利義昭が15代征夷大将軍に就任します!この頃から織田信長家臣明智光秀に仕えてます! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長によって京都を追放されます!!天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…その際に織田信長襲撃に参加してたと言われてるんですよ…天正10年(1582年)6月13日山崎の合戦で明智光秀が羽柴秀吉に破れます… そんで羽柴軍に降伏し許されて羽柴秀吉の馬廻衆として仕えるんです! 天正11年(1583年)4月20日羽柴秀吉が柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ります!! 天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いに参陣し活躍しますw 天正18年(1590年)に小田原征伐にも参陣し大活躍しますw 天正20年(1592年)文禄の役では肥前名護屋城に在陣します!! その時に従五位下・因幡守に叙任任官していますw 文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀頼が誕生します!! 文禄4年(1595年)7月1日大谷吉継と石田三成の推挙もあって8千石を拝領しますw 大谷吉継とはお互いとても信頼し合ってたんですよw だから必然的に石田三成とも親交を深めていくんです! 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日に豊臣秀吉が京都の醍醐寺で盛大な花見を行いますwその際に醍醐の花見作事奉行に任命されて無事に勤め上げています!! その後も豊臣秀吉の側室の付添いとか地味な仕事を卒なくこなしてたんですw それを高く評価してたのが大谷吉継だったんですw 慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!! 慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!慶長5年(1600年)に大谷吉継の薦めもあって美濃国垂井1万2千石を拝領します! でも常に大谷吉継の元にあって領国は弟に任せて足を運ぶ事はなかったんです! 慶長5年(1600年)6月上杉征伐が陣触れされます! そんで大谷吉継と一緒に征伐軍に参加するため出陣します!その途中… 石田三成の居城佐和山城へと立ち寄るんですw 大谷吉継は石田三成と徳川家康を仲直りさせようと思ってたんですよw だけど…石田三成から徳川家康打倒の決意を打ち明けられるんです!! ビックリして大谷吉継と一緒に石田三成を説得するけど聞き入れられず… 逆に石田三成の熱意に負けて大谷吉継と一緒に西軍に味方する事にしたんです! そんで一旦美濃国垂井に行き軍を整え大谷軍と合流します!! 慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)7月19日に伏見城攻防戦が行われ活躍します!! 慶長5年(1600年)8月4日に東軍前田利長に備えて北庄城入りします!! 慶長5年(1600年)8月末に大谷吉継・戸田勝成と一緒に総勢6千で美濃へ進出します!! 慶長5年(1600年)9月3日に関ヶ原南西の山中村に着陣します!! その際に脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの諸将も大谷配下となります! だけどこの時…大谷吉継はハンセン病に罹ってたんです…だから大谷・平塚・戸田の総勢6千の全指揮権を大谷吉継から委ねられてたんです!慶長5年(1600年)9月14日大谷吉継より密命が下ります! 「戸田勝成と一緒に小早川秀秋の動向を探れ!もし小早川秀秋に西軍裏切りの気配が少しでもあれば暗殺しちゃって構わないからっ!」と言うものだったんです…
でも事前に暗殺計画を察知されちゃって実行する事は出来なかったんです… その日の夜に大谷隊の前備えとして500人を率いて藤川の台に布陣を完了します! 慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!そんで東軍の藤堂高虎・京極高知両隊総勢5千を相手に一歩も引かず何度も押し返すんです!! 慶長5年(1600年)9月15日正午頃に小早川秀秋が西軍を裏切ります!! 元々想定内だったんで小早川隊1万5千をも撃退し500mも押し戻したんです! そんで追撃体制に移ろうとしたその時… 脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら総勢4千が突如寝返り側面から攻撃して来ます!! これで前から東軍…側面から裏切諸隊…後ろから小早川隊の猛攻撃を受けます… 壊滅状態になったけど孤軍奮闘しますが… ついに小川祐忠の家臣小川勘助配下の者に討たれちゃいます… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に享年57歳位で討ち死にします…亡くなる直前に大谷吉継に討取った敵将の首と一緒に辞世の句を送ってます…『名のために 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へば』意味は… 名前を世に留める事が出来れば命も惜しくなんかない!元々人は永遠には生きれないんだから…受け取った大谷吉継も返歌を送ってるんですよ! 『契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも』意味は… 暫くそこで待ってろよ!出会えるのが少し先になるか後になるかくらいの違いだから… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時過ぎに大谷吉継が享年42歳で討ち死にします…でも…大谷吉継の返歌を受け取る事が出来たかどうかはわからないんです…この後…美濃国垂井藩は西軍加担を理由に改易となったんです… ちなみに…次男庄兵衛も討死してます…長男左馬助は大坂夏の陣で戦死しています…弟平塚越中守は後に赦免されてその子孫は旗本として存続したんです!そんで昭和15年(1940年)に子孫らが討ち死にした藤川の地に「平塚為広の碑」を建立したんです!有名な平塚らいてうも建立に関わったんです!
★☆★ちなみに…下画像は大谷吉継の肖像画で為広じゃないんです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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2009年06月26日
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