|
永禄8年(1565年)頃に近江国内で浅井氏家臣垣見某の子として誕生しますw 永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…そんで織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始し六角氏を撃退します!元亀元年(1570年)4月織田信長が越前朝倉征伐を開始します!! これに怒った浅井長政は織田信長との同盟を破棄し全面対決をするんです!! 元亀元年(1570年)6月28日昼頃姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江に侵攻を開始します!!元亀3年(1572年)9月武田信玄が2万7千の兵をもって上洛開始! 元亀3年(1572年)12月突然援軍である朝倉軍が撤退します… 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!!天正元年(1573年)9月1日浅井長政が小谷城にて享年29歳で自刃します…そんで主家を失って垣見一家は貧困の生活を送るんです…天正2年(1574年)長浜城主となった羽柴秀吉は近江国内で人材発掘に励みますw その際に羽柴秀吉の仕え同時期に同郷の先輩で5歳年上の石田三成がいます! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)2月3日元浅井家重臣磯野員昌が織田信長に追放されます!!天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…天正10年(1582年)3月羽柴秀吉が備中攻めを開始します!!天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利します! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます!! 天正13年(1585年)四国征伐が行われます! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐・奥羽征伐に道路奉行として参陣します! 基本的に戦働きは得意じゃなくて全く活躍はしてないんですよ…でも…裏方として目立たず地味だけど正確・丁寧に仕事をこなしてたんです!!豊臣秀吉もその点をしっかり把握して適材適所の配属を行ってたんです!!石田三成もそれを知ってて可愛がり必然的に石田三成派(吏僚派)の一員となりますw天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では軍目付として渡航します! 豊臣秀吉への報告を巡って福原・熊谷と一緒に武断派(加藤清正派)と対立します!! 文禄2年(1593年)朝鮮出兵での不手際で大友義統が改易されます… 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)豊後国富来2万石を拝領し福原長堯の与力となります!! この時に従五位下・和泉守に叙任任官しますw 自身は常に大坂に在住してたんで国許(富来城)は身内の垣見理右衛門に任せます!! 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!慶長2年(1597年)再び軍目付として渡航しますw 慶長2年(1597年)8月毛利勝信総指揮の下で泗川倭城築城に普請奉行として参加します! その際…鉄砲狭間(城壁にある○とか△状の敵に鉄砲を放つ穴)構築工事中に同じく参陣中だった長宗我部元親がやって来て2人の間でこんなやり取りがありました!
垣 見 『あぁ…それじゃ駄目だよ…鉄砲狭間はもっと城壁の上の方に作らないと…』 長宗我部 『鉄砲狭間は人の胸の高さでは高過ぎる!腰の高さで作るのがベストなんだ!』 垣 見 『長宗我部殿!!そんなに低くては敵兵に城内を覗き込まれちゃいます!』 長宗我部 『城内を覗き込める程敵兵が接近したらこの城はお終いだぞ!それに…鉄砲狭間をそんなに高く作ってお前は敵兵の頭の上を撃とうとしてるのか?(爆)』 垣 見 『………』 結局は実戦経験豊富な長宗我部元親の意見を取り入れてるんですよ… 前の方で書いてるけど…決して「ダメ殿」だった訳じゃないんですよ!! その後も石田派と言う立場上加藤清正ら武断派には良く思われてませんでした… 慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下り帰国します!撤収直後に武断派の加藤清正と黒田長政らに不手際があったと訴えられます… でも実際は何もなかったんですよ…親石田派の一員としての攻撃だったんです… 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日五奉行石田三成襲撃事件が勃発します!慶長4年(1599年)3月10日義兄石田三成は職を辞して佐和山城に戻り隠居します… この頃起り得るであろう大戦さを予感し城代家老垣見理右衛門に守備強化を命じます!! 慶長5年(1600年)5月3日会津征伐が陣触れされます! 慶長5年(1600年)6月18日石田三成から西軍加担を要請され従います! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成らと毛利輝元を擁立し挙兵します!! これを受けて自らも出陣し大坂城下守備の任につきます!! 慶長5年(1600年)8月末西軍の前線司令本部である大垣城入りするんです! この時福原長堯が大垣城守備の総大将となり熊谷直盛が副大将格でした! 他は秋月種長・木村由信・木村豊統・相良頼房・高橋元種等九州勢でした!! 慶長5年(1600年)9月3日西軍諸侯が大垣城を出陣し関ヶ原に布陣します!! 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦で西軍が敗れます!西軍壊滅を知り城代家老垣見理右衛門に密書を送ります!!『関ヶ原の戦いで西軍が壊滅しちゃいました…ここ大垣城も時間の問題でいつまでもつかわかりません…自分は豊臣家の恩義の為最期迄戦って討死する覚悟です!もはや生きて逢う事もないでしょう…貴方達の忠勤に対しこれ以上何も酬いてやる事も出来ません…だから富来城は東軍に明け渡して城兵を無駄に死なせず生き延びて下さい…』密書を携えて家臣はひたすら遠い国許を目指すんです!! 慶長5年(1600年)9月17日相良・秋月・高橋らが井伊直政を通じ東軍に内応します… そんで熊谷直盛・木村由信らと一緒に軍議と嘘をつかれて呼び出されます!! 慶長5年(1600年)9月18日に大垣城中にて享年36歳位で殺害されます…一緒に呼び出された熊谷直盛・木村由信も殺害されてます…大垣城は相良・秋月・高橋らに占拠され福原長堯が徹底抗戦しますが…慶長5年(1600年)9月23日に大垣城は落城しちゃうんですよ… この時…まだ密書は国許に届いてはいなかったんです… その後の密書や国許の行方は保科媛サンのところでお楽しみ下さいませw ↓↓↓ こちら〜Yahoo!ブログ『浪漫館☆通信・媛』 ↓↓↓ 「黒田如水編4・武士の一分・・熱き男魂!・・(本編・宇喜多秀家物語68)」 ★☆★ちなみに…下画像は黒田如水の肖像画で家純じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年01月10日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



