|
幼い時から利発で「神童」と家中でも評判だったんですw 永禄3年(1560年)六角義賢が浅井長政に野良田の戦いで大敗します… 永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄6年(1563年)六角家内で観音寺騒動が勃発します!!これにより六角氏家臣団が当主六角義賢と対立します! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…この時に足利義輝の実弟一乗院門跡覚慶(後の足利義昭)が六角義賢の元に逃れて来て保護するけど…三好三人衆に室町幕府管領職等を条件に言い包められ六角義治は一乗院門跡覚慶を追放します!!
永禄10年(1567年)4月28日六角氏式目が制定され六角義賢に当主が代ります! この頃同じ六角氏重臣宮城賢祐の娘サンと結婚し婿養子に入りますw 永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄11年(1568年)織田信長が六角領内に侵攻します! 永禄11年(1568年)9月12日観音寺城の戦いで六角氏が大敗し滅亡します… これ以降織田信長家臣木下秀吉に仕え…義父賢祐は織田信長に仕えます! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄11年(1568年)10月18日足利義昭が15代征夷大将軍に就任します!!元亀元年(1570年)越前征伐に木下秀吉配下として従軍します!!元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…元亀4年(1573年)7月18日足利義昭が織田信長に京都を追放されます!!天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正9年(1581年)鳥取城兵糧攻めに従軍します!!天正10年(1582年)5月8日から備中高松城攻めを従軍します!! この頃羽柴秀吉の馬廻衆として活躍してたんですが…比較的官僚的な仕事も得意でした! 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!この戦いで羽柴秀吉に従い出陣して活躍するんです!! 天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いが起き羽柴方で従軍します! この頃元六角氏家臣山崎片家と再会し意気投合しますw そんで子供(跡継ぎ)がいなかったんで山崎片家の3男頼久を養子にしますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます! 天正13年(1585年)7月から四国征伐に出陣し活躍します!! 天正14年(1586年)義父賢祐が黒田如水と一緒に西国諸大名との交渉役を担当します!天正14年(1586年)12月25日に豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)北野大茶会で養子頼久が前田玄以と一緒に奉行を務めます! 天正20年(1592年)から文禄の役で名護屋城に一時在陣します! 文禄元年(1592年)豊後国日田に蔵入地代官として赴任し日隈城を築城します! 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1594年)豊後国玖珠の蔵入地代官も兼任しますw 合計すると4万石程を実質支配してたんです! この頃「武将」というより「文官」として活躍し必然的に石田三成と親しくなります… 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)から慶長の役が起きます!慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日醍醐の花見が催されますw慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下ります!その際に徳川家康の命令で徳永寿昌・山本重成と一緒に渡海し日本軍の撤兵を指揮します!! 慶長4年(1599年)1月これ迄の功績で従五位下・丹波守に叙任しますw 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!! 養子頼久と一緒に挙兵し西軍に加担し人質が逃げないよう大坂城平野橋を警護します! そんで西軍加担を理由に一命は助けられ【改易】となるんです… 家督は養子頼久に譲り出家し「宗広」と名乗りますw 慶長6年(1601年)積極的西軍加担じゃなかったんで徳川家康に許されます! そんで養子頼久と一緒に徳川家康に仕え出しますw 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長10年(1605年)養子頼久が実兄山崎家盛から但馬国内6千石程を分地されます! そんで但馬国芦屋に陣屋を構え家族で引越しますw 慶長10年(1605年)初孫豊嗣が誕生しますw そんで徳川家康に特別の許しを得て再び家督を相続します! 慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が大坂城より追放されます!!慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長20年(1615年)5月和議が破談となり大坂夏の陣が勃発! その後…孫豊嗣が15歳で家督を継ぐんです!そんで… 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年04月13日
全1ページ
[1]
|
戦国時代末期の九州、日向・耳川の合戦で脱落した大友宗麟に代わって台頭したのは、宗麟に勝った薩摩の島津義久と、肥前の竜造寺隆信でした。 九州を賭けた両者の対決は時間の問題でした。最初は肥後に侵入した両軍が菊池川を挟んで睨み合うという事態が発生し、この時は両者兵を引き大事には至りませんでした。 北九州五ヶ国(肥前・肥後・筑前・筑後・豊前)と二島(壱岐・対馬)に勢力を拡大しこの時絶頂期にあった竜造寺隆信でしたが、その内情は厳しいものでした。生来の性格である残忍さに配下の諸将の人心は既に離れていたのです。 前回書いた蒲池一族の謀殺の他にも、ちょっとした理由で人質を殺すという事件が続発していました。隆信のお膝元肥前でも島原半島の領主有馬晴信が謀反します。晴信の妹を隆信の嫡男政家の正室にするという姻戚関係まで結んでいた仲でしたが、大恩ある蒲池一族を滅ぼした隆信の残忍さに嫌気がさしての反逆でした。 晴信は、隆信と対立する薩摩の島津氏と結びます。島津義久は弟家久に援軍を授け有馬家を助けました。隆信は有馬の小癪な動きに怒りを爆発させ、1584年実に五万七千もの大軍を動員し有馬討伐の軍を発しました。 一方島津、有馬連合軍は合わせても一万に満たない小勢でした。連合軍の総大将に就任した島津家久は、将兵に決死の覚悟をさせるため乗ってきた船の纜を切ります。そして寡兵をもって大軍を相手にするため島原(森岳)城の北方2キロの湿地帯に狭い街道が走る沖田畷を戦場に選びました。 竜造寺軍は相手を小勢と侮り遮二無二中央突破を図る作戦に出ます。一応軍を三手に分け山手と浜手にも兵力を分けますが、隆信は中央に布陣しました。 島津軍は鉄砲隊を道の両側に伏せさせ万全の態勢で待ち構えていたのですが、信じられないことに竜造寺軍は斥候さえ出しておらず、目の前に来るまでこれに気付きませんでした。 大軍の驕りだったんでしょう。初め竜造寺軍で一番有能な鍋島直茂が中央を担当するはずでしたが、隆信は彼をあえて山手に回し、自分が中央を選んだのです。歴史にIFは禁物ですが、直茂だったらこんな無様な敗戦にはならなかったと思います。 そういう意味でも隆信の命運は尽きていたのでしょう。沖田畷の狭い道を進んでいた竜造寺軍は、前方に木戸と柵が設けられていることに気付きます。先陣はこれを見て前進を躊躇しますが、後から後から後続が続くため、押し出される形で前に出ました。 そこを待ち構えていた島津の鉄砲隊が一斉に火を噴きます。大混乱に陥った竜造寺軍はあわてて後退しようとしますが、後ろの道はふさがり、両側は深田になっているため身動き取れない状態で次々と鉄砲の餌食になりました。 まさに家久の作戦勝ちです。隆信はこの当時太っていたため馬に乗れず、輿に乗って兵士たちに担がせていました。このため逃げることができず、深田に落ちたところを追撃してきた島津勢によってあっけなく討ち取られてしまいます。 これが梟雄と呼ばれた男の最期でした。時に隆信五十六歳。 余談ですが、島津勢のなかで最も奮戦したのは赤星統家勢でした。実は統家は元竜造寺方でしたが、ささいなことで疑われ幼い息子と娘の人質を殺され島津に走っていたのです。復讐に燃える赤星勢は獅子奮迅の働きを示したと伝えられます。 隆信は恐怖政治によって部下を統御しましたが、かえってそれによって自らの死を招くことになりました。 沖田畷の合戦は、その後の九州の覇権を決定づけた戦いでした。以後島津が独走態勢に入り九州統一する寸前までいきます。 当主が討たれ、四天王をはじめ有力な武将を多く失って敗北した竜造寺家は、配下の諸将の離反があい続き佐賀周辺を治めるだけの地方勢力に落ちぶれます。それでも滅びなかったのは鍋島直茂の働きでした。 彼がいなければ、この時竜造寺家は滅びていたかもしれません。しかし以後の歴史は直茂を中心に回ります。竜造寺一族の興亡としては、この戦いによって終焉を迎えたのです。
|
全1ページ
[1]



