種子島久時は大隅国種子島藩の最初で最後の藩主鉄砲伝来で有名な【種子島時尭】の次男ですw永禄11年(1568年)種子島領主種子島時尭の次男として誕生し幼名は「鶴袈裟丸」ですwこの頃種子島家は永禄3年(1560年)に一旦父時尭が兄時次に家督を譲ったんですが…永禄5年(1562年)10月1日兄時次が享年5歳で死去しちゃい…それ以降父時尭が再び家督を継いでました!そんで独立勢力だけど…薩摩島津家に従属してます! 元亀2年(1571年)6月14日毛利元就が享年75歳で死去します…元亀2年(1571年)6月23日島津貴久が享年57歳で死去します…そんで島津貴久の長男義久が薩摩島津家の家督を継ぎます!元亀3年(1572年)5月島津義弘が伊東義祐軍1万5千を兵300で撃破します! これで島津家は薩摩・大隅・日向の3ヶ国を統一します! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…天正6年(1578年)11月島津軍が大友宗麟の大軍を耳川の戦いで破ります!!天正7年(1579年)10月2日父時尭が享年51歳で死去します…そんで島津義久に11歳で家督相続を認められ16代当主となり元服しますwその時の烏帽子親は島津義久で『久』の一字を拝領し「久時」と名乗ったんですw 種子島家は元々独立勢力だけど… まだ幼いって判断で島津義久の後見を受ける事になります… その際…独自に行ってた琉球貿易権や屋久杉の伐採販売権が島津家の手に渡るんです… ちなみに…年齢の離れたお姉サンが2人いましたw長姉は島津家筆頭家老伊集院忠棟と結婚してて次女円信院は薩摩島津家当主島津義久の後妻になってたんですよ!
天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀に勝利します!!天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家に勝利します!! 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます!! 天正12年(1584年)3月24日島津軍が沖田畷の戦いで龍造寺軍6万を撃破します!! この時島津軍に従い初陣を飾っていますw これによって龍造寺家を始め九州の諸勢力が次々と島津家に服属します… 天正13年(1585年)1月毛利輝元が羽柴秀吉に正式に臣従します!! 天正13年(1585年)肥後国の阿蘇惟光が島津家の軍門に下ります… 九州で島津家に抵抗する残勢力は豊後国大友家のみになったんです!! 天正13年(1585年)8月羽柴秀吉が四国征伐を行い長宗我部元親が降伏します! 天正13年(1585年)10月豊臣秀吉が惣無事令を発布します! 天正14年(1586年)島津義久は惣無事令を無視し大友領への侵攻を開始します!! 島津軍は破竹の勢いで九州全土を席巻します!!この戦いにも島津軍方で従軍します! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)25万の兵を率いて豊臣秀吉が九州征伐を開始します! 天正15年(1587年)5月6日大友宗麟が享年58歳で死去します…その直後に島津義久が出家して豊臣連合軍に全面降伏したんです!!戦後に島津義弘と一緒に豊臣秀吉に謁見し大隈国種子島1万石を安堵されます! そんで島津義弘の与力大名となり従五位下・左近大夫に叙任するんです! 天正18年(1590年)小田原征伐が行われ参陣します! その際に豊臣秀吉に鉄砲200挺を献上して喜ばれていますw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で島津義弘に従い渡海し活躍しますw この時種子島家中のありったけの鉄砲を持って従軍してて…種子島隊は日本軍内で有数の重火器装備の精鋭部隊だったんですよ!これが朝鮮出兵時の島津軍の強さだったんです!
文禄2年(1592年)8月3日に豊臣秀頼が誕生しますw 文禄4年(1595年)伊集院忠棟が豊臣秀吉の命令で島津領内で検地が行います! その際に太閤検地の煽りを受け種子島領を没収されるんです… そんで種子島は島津以久に与えられ代替地として薩摩国知覧院1万石を拝領します… この決定に不満を持つけど…島津義久に宥められ何とか我慢するんです… 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…慶長3年(1598年)10月1日泗川城の戦いで明軍20万を島津義弘が7千で撃退!慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下ります! 慶長3年(1598年)11月18日露梁海戦で朝鮮水軍を破り無事に帰国します! 帰国後は国許にて静養してるんです! ちなみに…この頃の島津家は反豊臣派の島津義久と中立派の島津義弘の間で家臣団が分裂してたみたいなんです…島津義弘が大坂に留まってて…島津義久は本国薩摩にいたんですよ…島津義弘には本国の島津軍を動かす決定権が無くて少数の大坂在駐島津軍しか動かせなかったんですよ…慶長4年(1599年)1月薩摩国知覧院から移封され大隈国種子島に所領を戻されますw 慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日五奉行石田三成襲撃事件が勃発します!慶長4年(1599年)3月9日伊集院忠棟が島津家伏見屋敷で島津忠恒に殺害されます…そんで伊集院忠棟の長男忠真が島津家に反抗し挙兵します!!〜庄内の乱〜慶長4年(1599年)6月騒乱鎮圧の為島津忠恒に従い都之城へ侵攻します! 徳川家康は九州諸大名に島津家救援軍を要請するけど…島津家が拒否します! 慶長5年(1600年)3月15日庄内の乱が終結します! 慶長5年(1600年)5月徳川家康が上杉征伐を号令します!! 慶長5年(1600年)9月30日徳川家康が九州諸大名に島津討伐軍を号令します! でも…両軍は睨み合いを続けるだけで戦線は膠着状態でした… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…慶長7年(1602年)に徳川家康が島津家本領安堵を決定するんです!でも…種子島は島津領となってしまい【大名としての種子島家は終焉】を迎えます…そんで島津家に家老として1万石で正式に仕えます!!この際に島津義弘が隠居し島津忠恒が家督を継ぎます! 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長14年(1609年)島津忠恒の命令で兵3千を率い琉球に出兵します!! 慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長16年(1611年)1月21日島津義久が享年79歳で死去します…慶長16年(1611年)12月27日に享年44歳で死去します…戒名は「世尊院日恕大居士」です…この時点で子供は女子ばかりで男子(跡継ぎ)がいなかったんです… そんで種子島家は断絶の危機に瀕します!!でも… 何と側室前田重弘の娘サンが妊娠してる事が判明し皆んな待ちに待ったんです! 慶長17年(1612年)8月17日待望の長男忠時が誕生しますw その後子孫は薩摩藩の家老を輩出する重臣として1万石の家格で存続しますwそんで明治時代には男爵位を授与したんですよw ★☆★下画像は父種子島時尭の銅像で久時じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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2010年04月28日
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